旅人と四神 四、白虎 長い長い山道を、数日ほどかけて降りきったその先。少し開けた山の中腹から見えたその街並みは、盆地の中に石造りの建物が所狭しと並んでいる。高いものはないが、綺麗な四角を描いた個々の白は道を挟んで両隣に整列し、今まで訪れた領たちとは一風変わった景色をかたち作っていた。美しい街並みに感嘆の溜息を吐きながらも、旅人はゆっくりと下り坂を降りていく。目的地であった白虎領は、既に目と鼻の先に迫っていた。
西に位置する白虎領は、この国の政治と学問を担う街だ。他の領と違い、この領だけが石で出来た建物を纏っている。どうやら聞くところによると、国に関する重要な書物や巻物を厳重に保管するためだという話らしい。確かに火災や洪水という点に置いては木より石の方が丈夫なのだから、理には適っているのだろう。ただ、それ以上にきちりと切り取られ置かれた白石が一寸の隙間もなく組み上がり建物を作っているさまは、一種の美術品にも見て取れた。
白虎領には異国から旅行などの一時滞在でも入れる施設が幾つかある。そのうちの一つ、この国の歴史や神話などを集めた資料館に旅人は立ち入ることにした。この国初めての旅はそろそろ終わりに近付こうとしている。元より旅人はその国に住む人々や文化、景色を見て回るのが好きな方だったが、折角だからと最後に四神のことを学んでおこうと思ったのだ。
勿論、他国に訪れる礼儀としてその国の基本的な信仰神に関してはある程度の知識は頭に入っている。しかし外から見た話と内に入った話では違うことも多々あるのだ。現に過去旅人が訪れたとある別の国では、悪人の血を啜る吸血神が土地を統治しているという話であったというのに、実際訪れてみると神殿を兼ねた城からほんの時々人里に降りては大人たちに交じって遊戯に興じる男がどうやら氏神であるらしかった。勿論旅人はその男に会ったわけではないが、その国を離れる直前にふと検問所を振り返ったら、見知らぬ白髪の男が此方へと手を振っていたのを見たような気がするのは今でも鮮明に憶えていた。
故に、というわけでもないが。四つの領を巡り、密接に関わった氏神たちとそれに纏わる民の話を学んでみたいと思ったのは、単に旅人が旅をするというごく当たり前の行為の上に成り立った探求であったのだ。
資料館の中は少し薄暗く、建物が石造りのためか少しひんやりとしていた。火の入れられた細い行燈のようなものが至るところに置かれており、手提げのものもどうやら好きに借りていいと書かれている。壁には硝子で出来た枠の向こう側に古そうな掛け軸やそれについての説明書などがかけられていて、どうやら世界の創世神話から現在の民たちの生活についてまでを順番づけて並べているようだった。
「……成程、見やすい。うちの故郷の神殿にも提言しておこうかな」
ただ乱雑に並べるよりは、こうして歴史として一目にした方が分かりやすい。ふむ、と一つ喉を鳴らした旅人はまた文を追うように視線を横にずらす。と、そこにはおそらくこの国の守り神である四神を模した動物たちの大きな絵と、その手前で佇む一人の男が居た。
旅人が男を見止めるのと同時に、男の方も絵から旅人へと視線を移す。琥珀を少し煮詰めたような鮮やかな双眸が旅人に気付いた瞬間、「あ」と彼は唐突に声を上げた。
「貴方、例の」
「……例の……? ああ、もしかして。あの方々のお仲間ですか」
「あの方々、と呼んでいるのが不破さんたちであるなら、その通りです」
生真面目で少し鋭い印象さえ与えていた表情が、旅人の言葉によりふわりと柔らかくなる。どうやら彼もまた、今まで訪れてきた各領で出会ったあの不思議で金持ちそうな男たちの仲間であるらしい。白虎領の街並みを思わせる白を基調とした服はまたしてもどこか高級そうな様相を放ち、最早どこか人ならざる者である雰囲気さえ醸し出していた。
「皆さんが貴方に会ったという話をしてらっしゃったので、私も一度お会いしておきたかったんですよね」
「何だかすみません……極々普通の旅人なんですが」
「いえいえ。彼の国で加護を直接受けている方なんて、そうそういらっしゃらないですよ」
「……加護?」
「……ああ、もしかして自覚がないですか。貴方、おそらく故郷の神に気に入られているのだと思いますよ。強い幸運がついていますから」
そもそも、どうしてこの男がそんなことを知っているのだろうかという驚きはさておいて、旅人はその言葉に思い当たる節がありすぎていた。脳裏で過ぎったのは、故郷で謁見の度にはしゃぎ回る、一人の青年に似た神の姿。
「あー……何となく分かりはしました。あの御方、そんなことしていたのか……」
「きっと、貴方の旅のお話が楽しいのでしょうね」
くすくすと楽しそうに笑う男に、旅人はあの溌剌な故郷の神を思い出しては少しの溜息を吐く。勿論悪い事ではない、むしろ有難い限りではあるはずなのだが。ただそういうことは出来れば事前に知らせてからやって欲しいと思うのは、享受している旅人の勝手な言い分なのかもしれない。
伏せていた瞼を持ち上げて、旅人は気を切り替えるように壁に掛けられていた絵を見る。南を司る朱雀、東を司る青龍、北を司る玄武、そして西を司る白虎。赤の鳥、青の龍、緑の蛇と亀に、白の虎。彼らはこの国を、国に住まう民を、旅人たち人間からは到底理解し得ないような遥か昔から見守ってきているのだろう。そうしてこの地に住まう人々はそんな彼らを敬い、慕っているのがよく分かった。
「……旅人さん」
「はい?」
「この国は、良い国でしたか」
いつの間にか、同じように絵を見つめていた琥珀色の目の男が、そんなことを問いかけてくる。旅人がはっと彼を見遣れば、男の方もゆっくりと、しかし真っ直ぐに此方を見つめてきた。その双眸と真剣な表情に、旅人は理由のつけられない、けれど咄嗟にとあることを悟る。
ああ、この人。きっと、ただの人ではないのかもしれない。そんな風に脳裏を過ぎらせた旅人だったが、それでも返事として発する言葉は、ただ一つのみだ。
「──ええ、とても。とても、良い国です」
そうして受け取られた言葉に、一点の曇りもないことを男も理解したのだろう。少しばかり目を瞠った彼は、それからとてもひどく嬉しそうに、笑んだのだった。
◇
旅人にとって、旅というものは己の人生のようなものだ。生き甲斐であるとも、未来であるとも、永劫欠かすことの出来ない躍動であるといっても過言ではないだろう。己の命が尽きるまで、この世界の果てまで見てみたい。そうしてそれらをつぶさに残すことが出来れば、旅人は旅人として、己を全う出来たと言えるのではないかと、ずっとそう思っている。
四つの神が統治する一国から帰った旅人は、何よりも先に自宅ではなく神殿へと足を運んだ。無論いつもであれば自宅で荷ほどきをしてから神殿へ、自らの無事を神に報せ守ってくれたことを感謝するのだが、今回はそうもいかない。何せ白虎領で出会った男の言うことが本当であるならば、自らの信ずる神に一言申さねばならなかったからだ。
着の身着のまま、荷物もそのままで神殿に訪れた旅人へ、神殿の守り人はただお帰りなさいというだけで通してくれた。それからすぐに、神殿の一番奥にある扉へと迷わずに進んではこんこんと二度叩く。一瞬の間の後、聞き慣れた「どうぞー」という声と共に旅人は扉を開いてから、すぐに頭を垂れた。
「猫神様。無事、帰還しました」
「お帰りーぃ。ふわっちたち元気だった?」
「いえあの、猫神様。あのですね。ちょっと問い詰めたいことがあるんですけれども」
「えっ何? なんかあの国であった?」
「いやそうじゃなくてですね。何ですか加護って、聞いてないんですけど」
厳かな雰囲気も束の間、すぐさま頭を上げて詰め寄った先できょとんとしているのは赤茶色の髪に赤と金の色を差し込んだ、若々しい一人の男だった。この国の最高神であり、氏神として土地を司る富と運の猫神。ほぼ毎日のように国に帰ってきた旅人たちや商人の合間を練り歩き、他国の話を聞きたがる生粋の旅行好きだ。
とはいえこうして気軽に神殿へ足を踏み入れ、先んじた約束も取り付けず猫神へ謁見出来る人間はおそらくこの国で旅人自身くらいだろう。それもこれも、旅人が元より彼に仕える神官家系の産まれでありながら、猫神自身に「自らの代わりに各地を旅し、自らの目となり耳となり、すべてを持ち帰よ」と命ぜられた、いわば生まれながら旅人になることを決められた存在であることが大きいのだろうが。今はそれはそれ、これはこれである。
旅人はずいっと猫神に詰め寄るが、彼は何度か瞬きをした後にけらけらと笑い出した。完全に悪戯がばれた後の厄介な子供である。
「なんだ、誰かにばらされちゃったのかー。いつ気付くか楽しみにしてたのに。誰に言われたの? ふわっち?」
「いえ、白虎領で会った琥珀色の瞳を持つ男にですが……」
「琥珀色の瞳? ……あ、加賀美さんかな?」
「加賀美さん……? 猫神様、存じてらっしゃるんですか」
「え? お前が会ったの、多分白虎神そのものだよ」
「……はっ?」
「だって無事を祈るまじない、つけてもらってんじゃん。わざわざ四神全員から」
「は⁉」
「ふわっちにもいだはるにも、剣持さんにも加賀美さんにもばっちり会ってきてるっぽいし。良い国だったっしょ、彼処」
「は、はっ、えっ……は、ええ……?」
神様っていうのは皆が皆して秘密主義と悪戯心を抱えているのか。それに引っかかった一介のただの人間の気持ちを考えたりしてくれないものなんだろうか。そんなことを過ぎらせて顔面蒼白になった旅人であったが、そもそも相手は神なのだからそんなことを考えることなどあるはずがない。人間の認知範囲外の存在、それが神というものなのだから。
当分あの国に行くのは辞めよう、畏れ多すぎる。頭を抱えつつもそう思った旅人ではあったが、ただ猫神にはぽつりと。
「良い国ではありました、とても……」
「そっか。いつか俺も行きたいなー」
「……留守にされると困るので辞めてください」
「愛園さんに一時的に任せるとかさ」
「桃猫様に任せたとて一度出ていくと当分帰ってこないでしょう、貴方様は……」
彼の国はとても、良い国だった。旅人は確かにしっかりと、そう思ったのだった。