雰囲気で読んでほしいキッスの日「魔族も眠るのか」
グリュックは驚いた。
マハトが目を閉じて横になっている。
ここはグリュック邸の書庫。グリュックはたまには読み物でも、と珍しく書庫に来たところだった。
部屋いっぱいに設られた、天井まで届くような本棚たち。そのわずかに見える床にマハトは横たわっていた。
何故こんなところでだとか、君には部屋をあてがっているはずだろう、だとか思うところはいろいろあったが、もの珍しさが勝った。
十年は見たことがない姿だ。
グリュックはまじまじとその姿を観察する。
まるで、出来のいい人形のようだった。
腹の上で手を組んだまま微動だにしない。
不意に腹の底が冷える。
だが、よくよく観察すると、腹の上に置かれた手のひらが僅かに上下していた。
その命の気配にほっとしながら、魔族も生き物なのだと何故だか実感してしまった。
赤い髪が床に広がり、額縁のように、白い顔を際立たせていた。その細く秀麗な眉も表情を見せず、なだらかな曲線を描いている。
小さな口は引き結ばれ、人食いの化け物とは思えないほどの慎ましやかさだった。
人とは違う色の瞳が見えないからだろうか、いつもより「人間じみて」見える。
何故だか、幼い頃の娘を思い出してしまった。
グリュックが仕事に追われ「寝る前にご本を読んでね、約束よ?」その約束を守れなかった時。泣き疲れて寝てしまったその姿だ。罪悪感でいっぱいになりながらその寝顔に口付けをした思い出だ。
罪悪感に、悪意。
人類であれば毎日だって感じることのできる感情だ。それがないのは、どのような気持ちなのだろうか。グリュックはマハトの顔を覗き込みまじまじと眺めた。
不意に、マハトの目がぱちりとひらいた。
「…起きていたのか。」
「いいえ、眠ってはおりません。魔族は人類程睡眠を必要としておりませんので。…グリュック様が、私に何をなさるのかと考えておりました。」
「そうか。」
急に愉快な気持ちになった。表情からはわかりにくいが、マハトは困惑しているのだろう。
マハトは忠実で生真面目だ。だが、たまにグリュックに対して思いもよらないような観察やら実験やらを仕掛けては困惑させたり、怒らせたりもする。
(まったく、毎日が刺激的で仕方がない。)
たまには、これは君の専売特許ではないのだと思い知らせてやろうとグリュックは思った。
「マハト。」
グリュックはマハトの小さな顎に人差し指と中指を添えるとわずかに引き上げ、その形の良い唇に軽く音をたてて口づけた。
「接吻ですか。」
「どんな気分だね?」
「少々驚きましたが、特に何も感じません。」
「そうか。」
「…ですが、これは親しいものがすることですね?」
「そうかもしれないな。」
グリュックの答えに満足そうなマハト。
何となく不穏なものを感じながらもグリュックは探していた本を手に取ると、書庫を後にした。
その後ろ姿を見送った後マハトは楽しそうに、本当に楽しそうに唇を手袋越しの指でなぞった後、注意深く隠している本質をのぞかせるように、歯を見せて笑った。
「俺は、親しい人類を手に入れることが出来たのかもしれない。」