先輩の手引き/同じ場所で百にとって楽曲製作は、粘土を捏ねる作業に近かった。伝えたい言葉の断片は沢山作れても、それを繋げて作品を作ることは、しごく困難だ。接着面がどうも滑らかに繋がらない。無理矢理に捏ねて形を作ったって、ちょっと触っただけで外れてしまって、そもそも何故くっついていたのかも分からなくなってくる。
音楽だって美術だって、授業を受ける分には、自分の楽しみのため、引いては先生の評価のため、真剣に取り組んでいるつもりではいた。でもこれはプロの作業だ。
それに評価者は千である。これが百にとって一番の問題だった。
「ちょっと語尾を変えたほうがニュアンスが柔らかくなるかも」なんて言うもんなら、評価者は柔軟に音色を変えてしまう。下した評価が、彼の音楽にとっての正解であるのか、百にはわからない。彼が作り出すものすべてが良いものに聴こえてしまうのだ。ひとつ前に戻そうと思ったところで、形を変えてしまった粘土を元の形に再現する技術もないのだから、どうしても発する言葉ひとつに慎重になってしまう。
「良くなった気がする……。どう?」
「い、いいかも?」
「なんだ。煮え切らないな」
自信のない言葉を切り捨てると、千はマウスを動かしてカチカチとパラメーターをいじってしまう。バーが増えたり短くなったりして、スペースキーを叩くと音が変わった。怒っているわけではないことは分かる。元よりこの人は、こと音楽にかけてはこういう人なのだ。
スネアの音が気になるらしい。ボールペンを触りながら、収録の時にどの楽器を運び込めばいいのかを考えている。選択肢は無限大だ。たんたんとスラックスのポケットを叩く音は、スネアの鳴りをなぞっているのだろう。沢山選べるということは、ありがたいことだよね。極貧時代を知ってるからこそ知り得た知見だった。
千にとって、音楽は積み木のようなものなのかもしれない。百は思う。
彼の中にある無数のパーツの組み合わせから最善を選び取って重ねていく。気に入らなかったら戻せばいいし、壊して最初からやり直せばいいのだ。好奇心あふれる少年のように探求して、プロのアーティストの顔をして冷酷な評価を繰り返す。そうして作られた千の音楽は、百にとって、どんな王城にだって敵わないほど絢爛で、魅力的だった。
無人島で作った時の苦労はまだしも、スタジオで作るとなると感覚は全く違った。ここは千は牙城なのだ。モニターの上で音楽が変わっていくのが、素人目でもありありと分かる。千の頭の中からギター1本で取り出していた時とは違う。変わっていく千の音楽の、どれひとつを逃しても惜しい。
音もたてず、百はデスクチェアに沈み込む。
これだって千が用意した椅子だ。「これから百もスタジオにいる時間が増えるだろ。だから良いやつ買っちゃった」どこか自慢気に言って見せられた時はひとしきり感嘆した。じゃじゃーんと効果音まで付けて、彼は上機嫌だった。
座面と背面で違うテクスチャーの、ビビットな赤い椅子。千の趣味ではない。百のことを思って選択したことが一目でわかるのが、いたたまれなくなる。なんだか百のために誂えた拘束具のようだ。手を伸ばして、なんとかデスクのマグを掴んだ。カフェモカを喉に流し込む。1年も差はないのに、千は百を子どもとでも思い込んでいるのか、手をかけて甘いコーヒーを淹れるのだ。重厚な防音扉の中、百のために用意された拘束椅子に縛られて、こんなのは甘い拷問だ。
「疲れちゃった?」
しばらく黙り込んでいると、千は言った。
元を正すと、彼をスタジオに閉じ込めているのも、百がこの場で拘束されているのも、全ては百の欲望が発端だ。あの時の百の土下座が、千を音楽に縛り付けて、あの時書いた歌詞が発端で、百はこの椅子に座っている。ふたりは結局、お互いを縛り合っているのだ。暗い思考に迷い込んで、舌先だけが甘い。
「ううん。大丈夫……」
思い浮かぶイメージは確かに良いものだと思うのに、それを明確に表す言葉が掴めない。必死にもがいてやっと掴めたものが、千の音楽を損ねるものだったらどうすればいい? 失望や醜聞は千には似合わない。絶対に誰よりも輝いていて欲しい。だから望んだし、だからこそ自分の領分において、何を言われても動きをやめなかった。そんなものを受けいれるのなら、いっそのこと千を含めたこの世界ごと、全てが壊れてしまえばいいのに。八つ当たりのような欲望だ。結局は自分自身の手で、千を壊すのが怖い。
「モモ、聞いてる?」
いつの間にか千は、ドラムのリズムを手放して、こちらを見つめている。
「聞いてるよ! ごめんごめん。えーっと、なんだって?」
「聞いてないじゃないか」
千は笑って言った。呆れてはいないのだろうか。こんな、仕事を放棄して思考を飛ばす相方なんて、役不足ではないだろうか。いつもと同じ淡青の瞳を見ると、にわかに恐怖がこみ上げた。
「話して? モモ」
そうして目を見つめているうちに近寄られて、手を握られる。寒がりだからぬくぬくに暖房を入れているのに、千の手先は冷たくて、体温が背筋まで響く。優しく触って来る癖に、心臓を鷲掴みにされたような心地だ。こんなのってない! 百は心のなかで叫んだ。暗い思考を押し込めようとする百を、力づくでこじ開けようとする。生来この人はボディーランゲージで押し切る人だ。だけど今の瞳は慎重に、探るように優しい視線を送る。青い瞳が百に向いている。
だから、意を決して素直に打ち明けることにした。
「あのね」
つまり、悩んでるのだ。千の作る音楽はこんなに素敵なのに、自分の不甲斐なさで、それごと滅ぼしたいと思う。そんな途方のない欲望を、千に押し付けて、嫌われてしまうのが怖い。なるべく千に伝わるように、言葉を尽くして伝えた。
「ふふ。そう」
高台から飛び降りる心地で伝えたというのに、千は思いの外ほがらかに笑った。
「笑わないでよ! モモちゃん悩みすぎて死んじゃいそうなのに!」
「ごめんごめん。でも、死んだって良いよ」
深刻にならないように戯けた言葉を、千はまっすぐに返してくる。
「本当に死んじゃっても知らないからね」
「良いよ。どうせ、来世でもまた会うよ」
千はご機嫌伺いでもなく、なんでもないことのように言って、キーボードを叩くと、データを保存してから立ち上がった。
「モモ、運転したい。付き合って」
「ええ!? 制作は?」
返事はない。振り向くと千はもうスタジオから出ていた。防音のきいた重い扉が開けられたままになっている。
「ねー。ユキ! 聞こえてる?」
椅子に座ったまま、千を呼んでも返事はかえってこなかった。まだ歌詞が完璧に出来てない。と百は思う。ここで辞めてしまっていいのだろうか。締め切りだってある。今まで千を急かす立場だったのに、自分に襲いかかってくるとなると、こんなに怖いのか。きっと今、ここで手を止めてしまっても、曲は出来る。でも、もっといじった方がいいものが出来るんじゃないか? 例えばこれが試合なら、勝敗が決まるまで全力で考え抜ける。走り続けることができる。そう思ったって、この場には今ここで見える、明確な終局はないのだ。
「モモ、行くよ」
いつの間にか外套を羽織った千がスタジオ扉から顔を出す。右手の人差し指に引っ掛けたキーケースをぐるぐる回して、完全にお出かけモードの格好だ。
「おいで。モモ」
言われて立ち上がる。つけっぱなしのモニターの明かりが名残り惜しい。作曲ソフトが開かれたままだ。眉間にシワが寄っているのが分かる。拗ねているのだ。自分はこんなに悩んでいて、曲も完成していないのにも関わらず、千は機嫌が良い。
「作曲で詰まってる時、苦しくて苦しくて仕方がないのに、お前もおかりんもラビチャで急かして、僕を逃がそうとしないだろ。不公平だなって思ってたんだ。お前は僕を気づかって、物理的に甘やかしてくれるけど、絶対に作曲からは逃してくれないでしょう」
「うん」
神妙に頷く百に、千は優しく微笑んだ。千がいくら苦しんだって、たとえ自分が嫌われたって、彼に作曲を辞めさせたくはない。今は自分が陥れた産みの苦しみを、同じ場所で背負っている。千の弧を描く唇を見ると、うずく心臓が甘美な痛みに思えてくる。
「制作って何でも苦しいだろ。ライブを作るのだって、番組を作るのだって、曲を作るのだって、苦しい。より良いものを探しているはずなのに、いのまにか自分の方が追い詰められて、逃げたくなる。…………でも、モモがいたら良いなって思った」
今気づいたみたいな調子で、千は言う。
「僕はいい男じゃないから、モモが苦しんでるのが見れて、嬉しい」
「ユキはいい男だよ」
「そうね」
千は小首を傾げてから、困ったように顔を伏せる。
「えっと……。別にモモが苦しいのが見たいわけじゃなくて、つまり、一緒に曲を作って、一緒に悩むのが楽しいってこと」
言葉を探すように瞬く瞳が、百を向く。
「モモが止めなかったら、逃げてもいいだろ? そういうことが、一緒にできるのが、嬉しい」
「……逃げちゃってもいいの?」
百が薄紅色の大きな目を開くと、つられるみたいに、千は笑った。
「いいんじゃない? 一緒に逃げても。モモと一緒なら楽しいよ」
「ニヤニヤしてる。ユキも、いつもこんな気持ちなの?」
「そうそう。僕もいつも逃げてる。それで、モモやおかりんに捕獲される」
千は戯けて、車のキーごとポケットに手を突っ込んで変なポーズをとる。それでも、彼はまさしくイケメンだ。
「ユキはさ、オレと一緒だと嬉しい?」
「そうね」
眉根を上げて促すと、千は廊下に向かって歩きだした。スタジオから駆け出して、隣に並ぶ。腕を回して手を握ると、思いの外しっかりと握り返された。百は嬉しくなって肩にすり寄ると、ふっと千は吐息を吐いた。
「ドライブしよう」
「逃げちゃう?」
「いいよ。助手席に乗せてあげる」
千に手渡されて、ダウンに袖を通す。つまり、気分を変えろと言ってるのだろう。車に乗って、変わりゆく景色を見ながらだったら、また新しい、今よりもっといい歌詞が浮かぶ可能性もある。
「おかりんに怒られるかな」
「かもね。…………あ、スマホは置いてけよ。お前、どうせメモ帳で作詞しようとするだろ」
「う……。駄目?」
ダウンのポケットを見やる千に、一瞬の葛藤があってから、百はスマホを取り出して、玄関の棚に置く。
「まだ直したい?」
「わかんない。オレの大好きな音楽に、のせたい言葉も、ファンに投げかけたい言葉も、たくさん浮かぶ。だけど、こう並べたら良いかな。とか、こっちの言葉の方がコンセプトにあってるかな。とか、もうちょっと抽象的にして、皆が共感できる歌詞にした方が、たくさん聞いてもらえるかな。とか。やりたいことも、渡したい気持ちも、たくさん浮かぶから、どうしたら正解なのか、わからない」
たたきに降りた千は、少し背の低い百と同じ高さで、百の言葉を聞いていた。
「ねぇ。ユキはこういう時、どうしてるの?」
尋ねると、千は目を細めた。
「今の歌詞、僕は好きだよ。だから、まぁ。一度曲から手を離してみてもいいんじゃない?」
白い手が百の前に差し出される。相方で、パートナーで、楽曲制作の先輩の手だった。いつもの指輪が中指に着けられている。
「いいの?」
百が手を取ると、千は眩しそうに笑った。
「いいんだよ。手を離しても。帰って来て、また一緒に作ろう」
手を握ったまま、玄関を出る。ずっと反復して悩んでいたから、歌い出しの歌詞はすぐに口をついた。歌ってみると案外なめらかで、これも正解のようだと腑に落ちる。それから浮かんだのは、ファンのことだった。
早く皆に聴かせてあげたい。この歌も、これから作るオレ達の歌も。ご機嫌に笑う百を見て、千は嬉しそうに笑った。
「こら、モモ。ご近所さんにネタバレになるでしょ」
多分同じ気持ちだ。ふたりの曲を聴いたファンはどんな反応を見せてくれるだろう。ワクワクするサプライズも、キラキラの宝物も、全部を貰ったような、あの笑顔が見たい。
「ねぇ、ユキ。早く皆に聴かせたい」
「うん。僕も」
心臓が跳ねる。生きた音を奏でながら、ふたりは並んで歩いていく。