呪縛 清らかな真冬の雪解け水に肩まで浸かり、丁寧に髪をとかすお姿は霊的な荘厳さに満ち溢れていた。
思わず吐息とともに「まるで天女さまだわ」とうっとりつぶやくと、裸体を隠して身を縮め「どなた?」と仰る。蚊の鳴くような怯え声に慌てて「ご無礼をお許しください。『染井屋(ソメイヤ)』のトメと申します」と正直に答えた。
ややあって「まあ! いつもお着物を仕立ててくださる?」と明朗におたずねになり、私は大層驚く。
「はい、そうです。まさかご存知だったとは」
「貴女のお母様から聞いておりました。わたくしと年の変わらない娘がいると」
少しお時間をくださいな、といいながら唐突に立ち上がるので、私は咄嗟に顔を背けた。一糸纏わぬ生白く麗しいお体をこの卑しい両目に入れるなど、同じ女であっても大罪だ。彼女のすべては由緒正しき我々の師、龍賀の下にある。本来は当主の許可なく言葉を交えることすら許されない。こんな不躾な行いを村の者に見られたらと思うと、全身が震え上がってしまう。
「お待たせいたしました。トメさん」
「滅相もございません。沙代さま」
振り返ると目前には完璧な美しさがあった。精巧なお人形や西洋の華やかな絵画とは違う、生身の質感をたたえた美。濡れて艶の増した黒髪をゆらし、紅を引かずとも血色の良い唇をゆるめ、愛らしく微笑んでおられる。
沙代さまはお着物が汚れるのも厭わず、近くの岩場に腰をおろし「いらっしゃい」と私を手招いた。優美な仕草につられるものの、貴賤な身でありながら隣へ腰を下ろすなど到底できず、ぬかるんだ地面に両膝をつく。すると、お顔がすぐさま曇る。
「何をしているのですか」
「だって、恐れ多いですわ」
「やめて」
沙代さまが遠慮のなく私の腕をぐうっと引くので、力に任せて前へ転びそうになった。「でしたら、わたくしも膝をつきます」と意固地に頬を膨らませており、呆気に取られる。とうとう根負けして「……分かりました。お隣失礼いたします」と立ち上がると、花弁を撒く花のごとくにっこりして「貴女のご友人としてわたくしを扱って」なんて可憐に無茶を仰る。
その甘えた声がしばらく耳に残り、脳髄をまろやかに揺らし、気がつけばその意味をよく考えもせず「はい」と答えていた。
今年は村の稲がよく実って有難いことや奉納祭のご報告、『角屋』の勘平様のご葬儀などいくつかお話しをしたあと、沙代さまはなんとはなしに「麓の里には、いつ発つの?」と首を傾げた。
「もうひと月で参ります」
古くからのしきたりである。若衆は適齢になると村を出る。大きな里や町に根を張り、数年間仕事をして婚約者を見つけ、また村へと連れ帰るのだ。祖父や父からは「大柄で健康的な男らしい人にしなさい」と口酸っぱく言われている。酒を煽りながら「おまえは鈍臭くて体が弱い女だから」と。
私は気も体もあまり丈夫ではなく、一族の期待を一身に背負って旅立つことが心苦しくてたまらない。昨晩は粥を作りながら先行きを慮り、涙が止まらなくなった。母だけは優しく抱きしめて「あなたの幸せのためなのよ」と頭を撫でてくれる。
そうした不安がまるきり顔に出ていたのか、沙代さまは細く小さなてのひらで優しく私の猫背をさする。意図せずとも目頭が熱くなり、くっと唇を引き結んで涙を耐える。
「申し訳ございません」
「気になさらないで」
「お心強いです」
「ねえ、トメさん。辛くたって、わたくしはずっとこの村で貴女を案じています」
沙代さまはどこか遠くに、森を抜け山を越え、はるか先の見えない彼方へ視線を向けながら仰った。
北おろしが吹く。冬日和であっても、木々の間を通り抜ける空気は容赦なく私たちの体温を奪う。つま先がじんじん冷え、そろそろ感覚がなくなりそうだ。長居は禁物。本来の在るべき場所へ帰らなければ。けれども、焦がれた女性との時間が名残惜しい。せめて最後に大きく輝かしい瞳で、私を見てくれないものだろうか──。
図々しくも欲をかく。
その時、沙代さまがゆっくりこちらに振り向いた。栗色のまなざしの奥には些かな心根と、森がざわめくほどの生臭さが相反する。
「いっそ里の者になりなさい。愛した者と共に全てから逃れ、わたくしに希望を見せて」
弱々しく伸ばされた沙代さまの手を両手で包む。指先はすっかり凍え切って悴んでいた。それでも冷えを物ともせず、丸く端正な爪を立てて私の指に絡みつく。彼女の瞳孔が開き、暗がりに近づいてゆく。
どうしてだろうか。両親や一族の期待はあんなにも重荷であったのに。目の前で泣き叫ぶ魂の祈りには、否応なく真摯でありたいと思える。
「いいえ。沙代さまには、私が立派にお役目を果たす姿を見届けてほしいのです」
だからこそ逃げ出さない。あなたがそうであるように、私もまた村の豊穣と発展を願う女の一人。閉鎖的で古臭い大切な人々を匿い、この身を持って助け、そうやって寿命を使わなければならない。
「……とても素直でいやな人ね」
沙代さまは目を伏せて微笑み、するりと手を引っ込めた。まなざしは少しも揺れない。彼女の中から、ある種の同族への憐憫と親しみがすっかり消えていた。
きちんと姿勢を正す。沙代さまは誰の手も借りずにすうっと立ち上がり、静々とした声で『染井屋』と私を呼んだ。
「これからお店へ案内いただけるかしら」
「はい、沙代様。何をお仕立ていたしましょう」
「わたくしの喪服を」
「それは急なご入用で」
「すぐにでも用意してくださらない?」
「勿論です。……まさかお身内にご不幸が?」
「ええ、何れ。アレはもう、長くはもたないはずよ」