街角にて トントン、と肩を叩くと、なんの躊躇いもなくふにゃっとした感触。一拍置いて、見あげようとした動きが止まる。
微妙な角度から見える唇に滲む嫌悪感、とでも言おうか。スッと離れると、ラスカル・スミスはパンパンと軽く肩を叩いた。
「こんにちは、良い天気だね」
「……コンニチハ」
機械的な挨拶を返し、こちらも見ずに再び歩き出す彼女。の、横に並ぶ紫草。距離を取れば、その分だけ近づいていく。その度に、ジトリとした視線が紫草を捉える。
数分、そうやって遊んでいただろうか。不機嫌そうにラスカルが口を開いた。
「どうして着いてくるんだぃ?」
「どうしても何も、向かう方向が同じなだけさ」
「そうか、じゃあ離れて歩いておくれ」
「どこをどう歩こうと私の勝手だ。勿論、君にもその自由はある」
「君の言う自由とやらが、何だか狭苦しいんだけど」
「気のせいじゃないかな」
クスクスと笑えば、ラスカルの歩調が心持ち早くなる。
と言っても、元々ゆったりと歩く彼女が歩みを早めたところで、それは常人のソレと大して変わらない。そして身長差の分、足の長さも紫草に有利があって。
つまりは、何も変わらない。
「可愛らしいリュックを背負って、どこへ行くのかな、ラスカル嬢」
「……嫌がらせの技術だけが上がっていく君に、教える義理なんかないぜ」
ふん、と鼻から怒りのため息。
ラスカル・スミスは見た目も性別も女性でありながら、女性的な扱いを厭う。いや、性そのものを否定している節さえある。そんな彼女を揶揄うのが紫草の趣味のひとつだ。
「これは失礼、ラスカル・スミス。君はこれからどこへ?」
「君が先に答えたら教えてあげるよ」
ピシャリと跳ね除けられた。
これは一本取られた、と紫草は苦笑い。
実は、紫草はただの帰宅途中だ。用事なんかないし、何なら方向だって違う。軽い用事を済ませた後、テキトーに街をブラブラしてたら、人の隙間から見つけた愛しい緑色。
子供のように小さな体に見合わぬ大きなリュック。長い三つ編みを揺らし、ふわりとスカートを翻して歩く姿が何とも愛らしい、愛しい子。
見つけたら声をかけずにはいられない。から、声をかけた。ただ、それだけ。
目的なんてラスカル・スミス一択だ。それを言ったところで「おバカだねぇ君は」と返ってくるのがオチだろう。別にそれも構わないし、むしろ望む所ではあるのだけれど。
紫草は頭を巡らせる。この広い街で、せっかく運命的な出会いをしたのだ。彼女の向かう先を当てたい。
歩いている場所は商店街。様々な店が並ぶ。
何でも置いてあるスーパー。
エスニックに特化した専門店。
SNSで話題のカフェ。
彩り豊かな花が並ぶ花屋。
果物や野菜が己の瑞々しさを主張する青果店。
それら全てをラスカルはスルーした。スルーしたことによって、彼女の目的であろう店は絞られる。
この先にあるのはパン屋と服屋。下着専門店、ラーメン屋。
ラスカル・スミスが下着専門店や服屋に一人で向かうのは考えにくい。ラーメン屋も然り。そもそも彼女はお子様ランチさえ食べきれぬほどの少食だ。いや、時間があれば完食できるらしいが、そんな時間があるなら睡眠に使いたい、と聞いたことがある。
ならば、自然と導き出される答えは、パン屋。
しかし、そのパン屋もいくつかある。どうせなら、折角なら、ピンポイントで当てたい。愛情の証明、ではないけれど。
うるさい所が好きらしいラスカル・スミスは、だけど買い物に騒がしい場所を選ぶだろうか。スーパーを通り過ぎているあたり、それはない。という事は、客で賑わうSNSで話題のパン屋は除外。
もう一店は老夫婦が営むパン屋。昔ながらの素朴な味が好評で、紫草もたまに利用する。しかし、ここはここで問題がある。店主が高齢なこともあり、いつ開いてるかが分からないのだ。行ってみたら閉まっていた、なんてこともザラにある。
と、言うことは。
恐らく彼女が目指すは最後の一店。若い夫婦が営むパン屋であろう。店内は然程広くないものの、パンの種類はそれに似合わず豊富で、若さ故の発想からか変わり種のパンが置いてあることで好評を博しつつある。勿論、紫草もよく使う店であり、個人的にはここのフルーツパイがお気に入りだ。
「うん、私はあそこの店に用があってね」
考えあぐねた結果、それを微塵も見せずに、導き出したパン屋の看板を指さした。途端に聞こえる大きな溜息。
「本当に向かう先が同じだなんて、嫌になるぜ」
どうやら正解のご様子。
納得いかないラスカルと、口角を上げて歩く紫草。
店はどんどんと近づいてきて、紫草は紳士よろしく扉に手をかけた。
「ようこそ、魅惑のパン屋へ」
「君の店じゃないだろぅ」
ため息とともに入店する彼女に続けば、途端にパン特有の香ばしい香りが鼻腔を満たす。これだけで幸せになれるのだから、人間とは単純なものだ。
それはラスカルも同じらしく、先程までの不満はどこへやら。ふにゃふにゃとした微笑みを浮かべてトレーとトングを掴む。
紫草も倣って、フルーツパイを確認しつつ、ラスカルの動向に注視していれば。
ひとつひとつ商品を確認していた彼女は、ある棚の前で止まった。彼女より若干背の高い棚は空っぽだ。そこには確か……
「食パン、かい?」
心持ち角に追い込むように、世界からラスカル・スミスを隠すように、紫草は近づいた。
「ああ、明日の朝ごはん用にと思って買いにきたんだよ。これがメインだったのだけど」
ラスカルはトングをカチカチと鳴らす。威嚇する、と言うよりは悲しそうに。
この店を知ってる者ならば、ここの食パンが美味しいことは誰でも知っている。トーストにすれば外はサクサク、中はふんわり。そこにジュワリとバターが染み込み、食べる前から香ばしく甘い匂いが人を幸せへと誘う。
そんな朝食を期待していたであろうラスカルは、口をへの字に曲げて、どうしようと困惑気味だ。
「どうしても食パンじゃなきゃ駄目なのかい?」
「もうここのトーストの口になってしまってるんだ。それに、カリンちゃんにも買ってくると豪語してしまったし」
しょぼん、とするラスカル。こんな彼女も愛おしいが、愛しい愛しい人の口から、別の人間の名が出たことに、嫉妬の炎がちらつく。
カリン。紫草もよく知っている名は、ラスカルの同僚だ。愉快な言動に似合わず表情が一切変わらない、変わり者。契約の時には専らお世話になっている。多少の無理も聞いてくれるので重宝する人材ではあるのだが。
気づかれないように距離を詰め、閉じ込めるように腕を伸ばした。そこで初めて、ラスカルは己の置かれた状況に気付いたようだ。
「どうしてぼくの後ろに立っているんだぃ?」
「君が商品の前に居るからさ」
「それにしては近いぜ。言っておくれよ、離れられないじゃないか」
「おや、私から離れたくないのかい?」
「君の頭は花畑みたいだな」
「君に贈るための色彩豊かな華でいっぱいさ」
「バカじゃないのか」
冷たい口調。
こんなふざけた会話、怒って当然だろう彼女の目の前で、わざとらしく商品を取ってやる。鋭い視線が動線を追う。
「それは、」
「ん?ロールパンさ」
「ろーるぱん」
「あぁ、そのまま食べても良し、レタスやチーズを挟めばお手軽サンドウィッチに変身。ジャムやバターを塗って焼けば、小さなトーストにもなる。固めに焼いてクローテッドクリームを付ければスコーンの代わりにもなる、万能なパンさ」
「へぇ……」
紫草の言葉を聞いてるのか聞いていないのか、ラスカルの目はトレーの上のロールパンに釘付けである。
食パンのことしか頭になかったのだろう、ろーるぱんもいいかもなぁ、などと拙い口調で呟いた。
「トーストにしたいならバターロールがお勧めだ。見た目は変わらないが、中にバターが入っていてね、焼けばジュワッとバターが広がるよ。サンドウィッチには向かないが、バターを塗る手間が省けるのは有り難い」
言いながら、バターロールも何個かトレーに乗せた。
「さぁ、私は決まったが、君はどうする?」
「ううん……」
悩んでいるように見えて、答えは決まっているのだろう。パンをトングで掴むと、あれよあれよとトレーへと運んでいく。
その間に紫草は会計を済ませ、店の端でラスカルを観察しながら、彼女の買い物が終わるのを待つ。幸いにも客が少ない時間帯らしい。店内には店員の夫婦を除いて、二人だけ。パンの香りに包まれて、なんて考えていると、ラスカルが紫草を見上げていた。
「だらしない顔をしているぜ?」
「おっと失礼。君に見惚れて顔を作るのを忘れていたよ」
「普段の君は滅法間抜け面なんだな」
「私の意外な一面が知れて嬉しいかい?」
「別に」
興味が無い、を言い換えた言葉を吐きながら、彼女は店のドアを開ける。振り向いて、ご夫婦に挨拶をしてから店を出た。
そんな笑顔、私に見せてくれたことあったかなぁ、なんて思いながら、紫草も同じように店を出る。
「ぼくは帰るよ」
「お茶に誘う隙間すら与えてくれないとは」
「何でぼくが君とお茶を飲まないといけないんだ。帰るぜ。工場でカリンちゃん達が待ってる」
「そういう事なら仕方ない。気をつけて帰りたまえよ。道中パンを落とさないように」
「君ねぇ、ぼくを何だと思ってるんだぃ?」
「私の愛しいラスカル・スミスさ」
「今度、除草剤でも送ろうか。頭の花を減らした方が良さそうだ」
「君からの贈り物なら大歓迎。喜んで受け取ろう」
はぁぁぁぁぁぁ〜!と、わざとらしく盛大なため息を吐いて、チラリと紫草を見てから、ラスカルは背を向けた。そのままテクテクと歩いていく姿は、まるで子どものようだ。
「またね、ラスカル・スミス」
聞こえるか聞こえないかの声で、手を振りながら。彼女が見えなくなるまで見送る。
かさり、と買い物袋の中の商品が音を立てた。
紫草が買ったのはロールパンとバターロール。対してラスカルが買っていたのは、ほぼロールパンだ。彼女はバターロールだと思って買っていたのだろう。紫草がそうなるように誘導したから。
特別なことはしていない。ロールパンの説明をしながらバターロールを、バターロールの説明をしながらロールパンを取っていただけの話である。
ラスカル・スミスは哀れにも紫草の毒牙にかかり、まんまとロールパンを大量に買っていった、というわけだ。
工場でカリン嬢が待ってると言っていた。食パンがないという事実に、カリンはどれ程落ち込むだろうか。そして、代わりのバターロール。それがただのロールパンだと知ったら。
事の顛末をこの目で見れないのは甚だ残念ではあるが、後日ラスカル自身から聞くのも愉しそうである。
近い将来に訪れるであろう愉快なひと時に心を弾ませながら、紫草も家路を歩く。