知らないうちは構ってあげる 美容院帰りの私は世界で一番可愛いと思う。弾む足取りにつられ、緩くウェーブの掛かった毛先が跳ねる。真っ直ぐ帰宅だなんて勿体無いから、スタバの温かい紅茶を私にトッピングして適当にウィンドウショッピング。欲しい物も特別無いけれど、可愛いを振り撒いて歩くのが目的だからそれで良い。
コスメコーナーを目指して駅ビルに向かうと、ガラスで隔離された喫煙所にピンクパープルを見つけた。
「竜胆!」
口から飛び出た名前には、声量を絞ってはいたが分かりやすく温度があったと思う。我ながら少しだけ恥ずかしい。
喫煙所に近付き中を覗くと、やっぱりそれは想像通りの人物だった。煙草を咥えながら、つまらなそうにスマホをスワイプしている。ガラスをコンコンとノックすると、彼はすぐに顔を上げてこちらを見た。ほんの少し驚いた表情が可愛い。にっこり笑顔をつくってみせると、彼はピンクパープルの毛先を掬って口をパクパクさせる。ゆっくりと、竜胆の唇が四文字を紡ぐ。
「か、わ、い、い……?」
繰り返した四文字に分かりやすく顔を赤らめた私を揶揄うように笑い、煙草を消した竜胆はこちらに歩いてくる。重たそうな扉を開くと箱の中から見えない煙がこちら側に溢れ出た。葉っぱと人工香料が混ざった煙。
「悪ぃ、臭いかも」
「大丈夫! それより偶然だね、今日会えるなんて」
嬉しかった。今日の私は世界で一番可愛いくて、そんな完璧な状態で竜胆に会えたのが。
「おう。夜までオフだけど、どうする?」
どうする? なんて、ずるい聞き方まで格好良い。私が今どれだけ浮かれているのかなんて、全部ちゃんと分かっているくせに。
◇◇◇
排水溝に美容院の香りが流れていくのがいつも悲しかった。私の可愛いが、お湯と一緒に身体を伝って消えていく。
それでも竜胆が沢山可愛がってくれたから、今日の私はこれくらいじゃ損なわれない。それがとっても嬉しくて、シャンプーを洗い流す背中に唇を押し付ける。メイクを落とした裸の唇。ちょっとだけ心許ない。
「足んないの?」
「違いますぅ」
照れ隠しに入れ墨を指先でなぞる。何の模様かは分からないし、正直これが格好良いのかは分からない。けど、竜胆の背中にある、ってだけで私にとっては十分すぎるくらいの価値がある。
「怖い?」
「ううん。凄いなぁって感じ」
「何それ」
小さく笑った竜胆は私の髪を耳に掛けた。目を開けたままキスしてみたら、可愛い竜胆のキス顔が見れて嬉しかった。あと、喉にある入れ墨。唇の柔さを楽しみながら、この花札みたいな入れ墨について思案する。
ずっと、何処かで見た事のあるような気がしていた。その答え合わせをする為には、ひとつだけ聞かなくちゃいけない事がある。特別な理由はないけれど、なんとなく、今の私ならそれが許されるような気がした。
「ね、竜胆」
「んー?」
「お仕事何やってるんだっけ?」
「なんで」
なんで、って。ただ聞いたこと無かったから、と口籠もる私を見下ろして、竜胆はおもむろに腕を上げた。空気が変わる。流れっぱなしのシャワーだけが、同じテンポを保って足元のタイルを叩く。
竜胆の、その指先が男らしい喉仏に触れる。そっと、入れ墨をなぞるように。私はその様子から目が離せなくて、これじゃあ正解を言っているようなものだった。お互いに。
「なぁ、俺の仕事知りたいの?」
「ううんっ、大丈夫」
「知りたくねぇの?」
自身の喉仏を触っていた指先が、今度は私の鎖骨をなぞり、ゆっくりと同じ場所まで撫で上げられる。
竜胆の纏う雰囲気にひるんでしまう。私はいま、呼吸を許されているのだろうか。言わなくちゃいけない言葉を言うために口を開いたけれど、正しく酸素を取り入れられているのか分からなかった。
「なぁ、どうなの?」
「し、知りたく、ない」
「ん、良い子」
竜胆は、私の濡れた前髪を分けて額にキスをした。それはいつもの、格好良くて、可愛くて、優しい表情だったから、何もかもが夢だったんじゃないかと混乱してしまう。
それでも痛いくらいに動いている私の心臓が、これは現実だと叫んでいた。
「先に上がるわ」
「うん、私もすぐ上がる」
私の可愛いは排水溝に流れていったけど、心臓はちゃんと動いているし、竜胆が触れた部分がちゃんとあついし、いつもと何も変わらない。
浴室と脱衣所を隔てるガラスの扉。その奥に居る竜胆を見て、胸に溢れる幸福感に安心した。やっぱり何も変わらない。私、竜胆が見て欲しくない部分は見ない振り出来る。知らないことがあるのは寂しいけれど、嫌われるよりはずっとマシ。だって、竜胆のことが大好きだから。