捏造。
カーテンの隙間から差し込む光は眩しくて、部屋にはパンの焼ける匂いが漂いはじめる。五条はふかふかのベッドの中で寝返りを打つ。まだこの温かい褥に未練がある。
それが、蕩ける様が目に浮かびそうな熱いバターの匂いが加わり、次にはハム、チーズ、落としたてのコーヒーの香りまで……。
お腹がすいてムズムズしていた五条は、半ば
「おはようございます、五条さん」
と起こしにくる声をじりじり待っていた。そして声をかけられてから、今初めて目が覚めたような顔をして欠伸をする。
「そろそろ起きてください。朝食ですよ」
「……んー」
しぶしぶといった体でベッドを下り、ぺたぺたと床の上を歩く。脱ぎ散らかしたスリッパを発見して素足をつっこみ、顔を洗って食卓に戻れば、きちりとスーツを着込んだ七海がもう先にパンをかじっていた。ハードなフランスパンに、ハムとチーズを挟んだカスクートだ。
五条は甘ったるく作ってもらったカフェオレを一口すすり、
「いただきます」
と、同じくパンをひとかじり、それから
「オマエ、毎日毎日同じもの食って、よく飽きないね。僕はたまには朝ご飯に、パンケーキとかフレンチトーストとか食べたいよ」
用意してもらっておきながら文句を言う五条の顔を、七海はじっと見た。
「なに?」
「私は毎日毎日同じものを食べていても飽きないんですよ」
「凝り性っていうより、執念深そう」
「私が飽き性だったら困るのはアナタのほうじゃないですか」
それから七海はまたフランスパンにかじりついた。強い顎で食いちぎり、口の中、奥歯でごりごりと噛み潰し、飲みこむ。
「私が飽きて、すっかり倦怠期になり、冷めた関係になったら、アナタは『呪』を解くんでしょうか」
五条は黙った。黙々とパンを嚥下しカフェオレを流し込む。
「早く食べ終えて支度をしてくださいね。今日は新幹線移動ですから」
「ん、何時だっけ」
「今から十五分後に伊地知さんが車で迎えに来ますから、それに乗って東京駅へ。ああ、船羽の芋羊羹を買う時間の余裕はみていますのでよろしければどうぞ」
「さすが僕の専属マネージャー」
「マネージャーになった覚えはありませんよ」
五条は身支度をするために立ち上がった。それから座ったままの七海に
「オマエはどうするんだ?」
と訊ねた。
「いつも通り、見つからないように付いていきますよ」
「……あ、そ」
五条が身支度を終えて食卓に戻ると、魔法のように食器はきれいに片付いていて、もう七海の姿はなかった。
けれど、五条は
「七海ィ」
と呼んだ。
「仕事終わったら、飲み行くぞ」
いつもの黒い目隠しを着けて、一人で歩き、靴を履く。扉を開けて、外に出る。十一月に入ったばかりの肌寒さに身震いした。
他に誰もいないのに、声だけが聞こえる。
「また飲めもしないのに一人でバーに行って二人分の席を確保して、飲めないくせにアルコールと、自分の分のノンアルをオーダーするんですか」
「まー店のヤツにはそう見えてるだろうけど、いいじゃん、実際オマエ、飲んでるし」
ハロウィンの夜が終わってから、五条悟に奇行が増えたと噂されている。一人きりなのに喋り続けたり、二人分の食事や飲み物をオーダーしたり。
一般人のみならず呪術師からもそう見えてしまうのは仕方がない。何せ現代最強の呪術師である五条悟の呪に因って誕生した特級呪霊七海建人が、おいそれと有象無象の術師ごときにその姿を存在を、看破されてしまう訳がないのだから。
「……私はいつになったら成仏できるんでしょうねぇ」
「んー、当分ムリ。僕が飽きるまで」
「……私が飽きても離さないつもりの癖に、自分が飽きたらさっさと解呪するつもりですか。ほんといい性格してますね」
「でも七海、毎日同じものを食べても飽きないんでしょ?」
エレベーターで一階に下り、エントランスの外では伊地知が車の傍らで立っている。五条の姿を見つけ、おはようございますと挨拶だ。彼も深い傷を負ってはいたけれど、今はもう通常業務に戻っている。五条もひらひらと軽く手を振る。
「では東京駅に向かいますね。私はその後は高専に戻ります。おひとりでの出張になりますので新幹線と宿泊先は私が手配してもよかったのですが」
「あー、いーよいーよ、自分でやることにしたから」
「そうですか。五条さんもチケットの取り方とかご存知だったんですね」
「伊地知それどーいう意味?」
「ああすみません! いえ五条家の嫡子で特級呪術師で呪術界から出たことのない方ですから、その、電車の切符の買い方を知っているのかどうかという、決して悪い意味でなく! たとえば大物芸能人に対するようなイメージで!」
「……いーよもう」
五条はさっさと後部座席に収まった。笑われている気配がしたので舌打ちしたら、運転席に乗り込んだ伊地知が
「ヒッ」
と身をすくめた。
誤解をさせたことに気づいた五条は、バックミラー越しに伊地知に笑いかけた。伊地知は不審そうに顔を曇らせて、それから何を思ったか痛まし気に更に顔を曇らせて、フロントガラスへ目を移動させた。
その様子を見て、伊地知が何を誤解しどう配慮したのか察して五条は、「いちおー高専所属のくせに死生観が月並みだね」とひっそり胸中で呟けば、頭の中では七海の声で「いえ人の生死の境界線がブっ壊れている呪術師はアナタぐらいのものですよ」とツッコミが入る。五条はバックミラーに写らぬようにこっそり舌を出した。