ふと、真夜中に目が覚めた。いつもならこんな時間に起きることもないのになぜかなんて考えが浮かんだ矢先、隣から聞こえた微かな呻き声と浅速呼吸にああ、なるほど、とまだ半分眠ったままの頭で意識が浮上した理由を悟る。
右腕で掛け布団を少し浮かせながら仰向けだった身体を左隣へと向けると、こちらを向いて蹲る恋人の姿が暗がりの中でもぼんやりと窺える。但しその寝顔は毎晩見る穏やかなものではなく、必要以上に固く閉ざされた目元と、世界の全てから自身を隠そうとでもするかのように小さく縮こまった身体。そして、何もかもを拒絶するように機械の手のひらがキツく両耳を塞いでいた。そんな痛々しい姿に、眠りの世界で彼を苦しめている何かに対して嫌悪感が湧き上がるけれど、優先すべきは彼を苦しみから解放してあげることだと意識を切り替える。
「…ねぇ。ふぅふぅちゃん、」
両手を擦りあわせて冷えていないことを確認してから、人差し指の背で歪められた眉や目元をそっと撫でながら、眠る人を起こすには頼りない吐息混じりの声で何度も何度も名前を呼び、時折瞼にキスを贈る。どうか夢の中でひとり怯える彼に届きますように、と願いを込めて。そんな願いが届いたのか、たまたまか、耳を覆う手のひらの力が僅かに緩んだことで出来た隙間に親指の指先を滑り込ませながらそっと語りかける。
「いい子だね、ふぅふぅちゃん。手、離せる?」
押しつけられた手を優しく握ってゆっくりと引き寄せると、思いの外すんなりと耳元から離れてくれたことに安堵し、その指先にもちゅ、ちゅ、とそれぞれキスをしてシーツへ。覆うものが無くなり露わになった肌を暗闇に慣れた目で注視すると、薄らと指の痕が残り赤みを帯びているようにも見えるそこを、今度は俺の手のひらで優しく塞いで親指の腹でこめかみを撫でる。気付けば苦しげな呼吸はゆったりとしたものに変わっていて、表情も穏やかになったようでこのままうなされる事なく朝を迎えられるようにと、額を重ねおまじないをかけ今一度顔を覗き込むと、予想外にもふるりと震えたまぶたがゆっくりと開いていく。
「……うき、」
「うん。…まだ夜中だから寝ていていいよ」
「ん……夢を、見ていて…あまり、気分のいいものじゃない…ああ、悪夢というべきだな…」
掠れた声で紡がれるのは美しく豊富な言葉を巧みに操る普段の彼のものとは異なる拙いもので、それが可愛くも、可哀想にも聞こえてしまう。そんな思いを表に出すことはせずうん、と相槌を打ちながら静かに耳を傾ける俺の手の甲に、まるで壊れ物に触れるような繊細さで機械の手が重なった。
「恐ろしくて、嫌でたまらなくて、でも…逃げ場も無くて……必死に隠れていたんだが、気付いたら嫌なものは全部消えていたよ。導かれる様に目を開けたら、俺の美しい天使が救い出してくれたんだと分かった」
ふふ、と優しい笑い声が吐息に混ざる。夢の中の彼をいじめていたのが何かは分からないけれど、そんな世界から俺の手で彼を救い出せて良かったと歓喜する。あの時、眠っていた状態でもふぅふぅちゃんの微かなSOSに反応して目を覚ますことができた自分を手放しで褒めたい気分だった。明日の彼にご褒美をおねだりしよう。
耳を覆う俺の手のひらを自らさらに押し付けながら再び目を閉ざしたふぅふぅちゃんは、僅かな沈黙の後そっと言葉を紡いで可愛らしく微笑んだ。
「…浮奇の音がする」
「この音落ち着くでしょ?…ふぅふぅちゃんにはどんな音に聞こえる?」
「地鳴りのような、遠くから聴く滝の音のような…いや、でももっと穏やかで…微睡みながら聴く風の音にも似ているな。ああ、これは心音か?…小さくて、可愛らしい音が混じっている」
「ふふ、心臓の音が可愛いなんて、そんなこと言うのふぅふぅちゃんくらいなんじゃない?」
耳を塞ぐことで筋肉が動く音や血流の音、そして心音が聞こえるというのは一体何で知ったんだったっけ。いや、音を先に知っていて、後からその正体を知ったんだったっけ…どちらが初めだったのかはすっかり忘れてしまったけれど、初めてその音を知った日、驚くと同時に不思議と心が凪いでいったことはよく覚えている。叶うならばそれが彼にも作用することを願って一か八か試してみたことが功を奏した事に喜びを感じ、顔を寄せ鼻先を擦り合わせると鼻が押しつぶされるほどぎゅっと押しつけられ、いやいやをして逃れながら可笑しそうに笑って咎める。
「ん、もう。やめてよ」
「ひひ、怖い思いをした可哀想な恋人のちょっとした甘えくらい許してくれ」
「甘えるならもっと可愛らしく甘えて欲しいんだけど…ほら、もう寝ないと朝が辛いよ。……きっともう怖い夢はみないから、だいじょうぶ」
すっかり元の調子に戻ったようにも見えるけれど、耳を塞ぐ手を押さえたまま離さないのを見るとまた悪夢が襲い来るかもとまだ不安なのかもしれない。それに気付かないふりをしながら軽口を返し、唇にキスをすると細く息を吐いた彼の口から少し頼りない声が零れた。
「……このまま、浮奇の音を聴きながら寝ても?もちろん、手が疲れたら抜いてもらって構わない」
「ふふ、いいよ。この綺麗な顔に触れたまま眠れるなんて、いい夢が見られそう。…俺の手ならいつでも貸すから、怖い時はひとりぼっちにならないで。夢の中だって傍にいさせてね」
「ああ…ありがとう。愛してるよ浮奇。…おやすみ」
「俺も愛してる。おやすみなさい、ふぅふぅちゃん。」
もう一度、どちらからとも無く唇を重ねると目を閉じ、身を寄せ合い互いの呼吸と温もりを感じながらゆっくりと眠りへ落ちていく。次に見るのは、朝日に照らされた優しい笑顔である事を願って。