よひらのおわりに 紫陽花の花終わりは夏の始まりだ。
たとえバスケ部にとっての夏は事実上終わってしまったとしても、だ。
仙道は、花後の剪定をされた紫陽花を眺め、これから落とされるであろう田岡の雷と、最近どこか俯くことが多くなった越野の姿を目に浮かべ、晴れ渡る早朝の空を見上げた。
「あ、ここもボウズにされてら」
港町の鎮守神社は相模湾を望む岬の最先端に鎮座する。参道のド真ん中をノシノシと歩む仙道の言葉に、端を歩く越野は首を傾げる。駱駝のように濃く長い睫毛を持つ視線の先には花を落とされ枝葉だけのさびしい紫陽花の姿があった。
「落とした花は捨てちまうのか?」
「落とされても最期の役割があるんだよ」
ほれ、と越野の指が先にある手水舎に向かう。昨日か今日、落としたのだろう。未だにみずみずしいが少し退色を始めた花だけがところ狭しと手水鉢に盛られている。
「芋洗い…」
「花手水と言え」
風情に欠ける男はモテねぇのになんでこいつはこんなにモテるの?
この世の不条理を噛み締めて、越野は今日も禊を落とす。
例大祭を控えた夜、仙道が越野に連れてこられたのは境内にある見晴台。明日は七夕だが港町は織姫伝説よりも毎年行う隣町との行合祭りの方がおおごとらしい。普段はひとけの無い夜の境内に、法被姿の大人たちがちらほらと集まっている。七夕らしい飾り付けは小さな駅に見合った小さな笹の立木と園児たちの大きな夢が詰まった短冊だけだ。
「そろそろなんだけどなー」
日が落ちた空と腕時計を見比べながら越野が言った。
その時。
空へと突き抜ける上昇音が遠くに聞こえた。
光の尾っぽを引きずりながら、地上五百五十メートル上空で導火線から熱を受けた火薬が直径三百メートルに広がり色とりどりに爆発した。
夜天に大輪の華が咲いた。
「本当に上がった」
「ラッキーだったな!」
越野はご満悦だ。
不定期な上に数分程度の打ち上げ花火に前情報は一切無い。曖昧で不確かなものだったが、静寂の夜を彩る華は海への鎮魂と慰霊の想いを込めた港町に相応しかった。光り輝く遠景の島は、今頃突発的な打ち上げ花火に場が沸いているのだろうか。
それとも、越野と仙道のように、指を絡め、互いの存在を確かめながら静かに見上げているのだろうか。
炎色反応によって色を放つ光が越野の顔を染めている。
仙道の視線を受けた越野は、俺じゃなくて空を見ろ、と言わんばかりに顎を上げた。
打ち上がりから数分、そろそろおしまいの頃に越野は照れたようにつぶやいた。
「せっかく連れてきたのに空振りだったらおまえに怒られるとこだった」
「怒るわけないだろ」
心外な、とでも言うような低い声が出た。
越野の視線を花火から奪い、目にかかる前髪を一掴みする。
「伸びたなぁ」
困ったように、穏やかに言った。
「…モイチにも言われた」
部活終わり、ひとり呼び出されて細かな指摘を受ける中、そろそろ散髪してこいと、聞き分けのない子どもを諭すように田岡に言われた。越野は前髪が目にかかるとすぐに床屋へ行く。以前、小遣い節約の為に仙道に頼んだが大惨事になったので、面倒でもきちんと美容師の手で切ってもらうのが常だった。そのまま仙道の大きな手が越野の額をあらわにする。
──富士額って言うんだっけ
流れるように顔を寄せ、顰めっ面の逆さ富士に口付けた。
「…またやったな!」
「こんな絶好のロケーションを逃す男はそうそういない」
「絶好のロケーションねぇ…」
視線を下げると境内にいた法被姿の大人たちがこちらを眺めて笑っていた。若いねぇ、なんて、呑気に。
「ここ、見晴台っていうくらいだからな」
丸見えだった。
「………」
「おまえ県予選終わってから遅刻するわサボるわで全然やる気ねぇからまだ落ち込んでんのかと思って元気付けようと連れてくれば普通に元気だし手もはぇーしなんなの」
くどくどと越野の説教が始まり、ばつの悪い顔で仙道が言い返す。
「俺は、ただ」
「ただ?」
「越野の方がまだ引き摺ってんのかと思って…」
「……」
「好きなもんでも食って、俺と寝て、そんでまたバスケすれば」
いつものように、元気で、強気な、越野に笑顔が戻るのかなって、さ。
「だからおまえに美味い魚でも食わせる為に毎日釣りしてた」
「…怒るに怒れねぇじゃん…」
監督に遅刻の理由をそのまま言えんのか。と言いかけ、こいつなら言いそうだな…と思い直した。
(勘は良いけど)
──ばかなやつ
本当に、天才なのはバスケだけ。
一歩外に出たら、もうただの高校生。
そう、まだ高校生なのだ。俺たちは。
「…まぁ、美味い魚は食いてぇ。もうおまえとはやらんが」
「ちぇ」
仙道は越野の顔を覗き込んだ。
「越野は落ち込んでねぇのな?」
「そんな暇あるか!新部長様はこんなだし福田は言うこときかねーし植草は食えねぇ顔で部長の座を狙ってきやがるし合宿の準備だっておれひとりでやってるし!」
やぶ蛇になってしまった。
それにしても、だ。
「顔を寄せただけで真っ赤になってたあのコシノ君が…」
「何度もされたら慣れるに決まってんだろ!」
「逞しくなっちまった…」
あーあ、と仙道は笑った。
少し嬉しそうなのが癪に障る。
「…おまえ、俺と心中できる?」
物騒な単語に仙道の眼が丸くなる。
「ここ、太宰が女と飛び込んだんだぜ」
だざい、と口に出してから昭和の文豪を思い出す。
駆け出しの頃の、まだ無名だった頃の青年時代。婚約者がいるのにもかかわらず、たった三日前に知り合った女給と駆け落ちした。今の越野と仙道のように、指を絡めて、日の出とともに落ちていった。仙道が身を乗り出して崖の下を覗く。境内の大人たちが少しこちらを気にする素振りを見せた。越野は仙道の手をしっかりと握り、落下防止の柵からその身を引き離す。
「うそだよ、ばーか」
何が嘘?太宰の話?心中の話?
「帰ろうぜ、俺、蚊にくわれた」
越野に手を引かれて見晴台から降りると、大人たちは安心したように「気を付けて帰れよ」と声を掛けてくれる。ありがとうございます、と返事して、夜の参道を後にした。
花火が終わり腰越港も夜の静けさを取り戻す。
暗い海を眺め、繋いだ手は離さずに。
「越野、うち来いよ」
「やだよ」
越野は蚊に刺された部位が痒くて仕方ない。空いた手で引っ掻いているとその手を取られて腕に仙道が口付ける。
強く。
「全身虫除けしてやるからさ」だからおいで、と、そそのかす。
とんでもなく甘い面して、とんでもないことを平然と宣うのだ。
仙道彰という、この男は。
情緒も風情も無い誘い文句にふらふら付いて行く自分も自分。
越野は、仙道のアパートの庭先から飛び出している剪定された紫陽花を眺めて、また来年な、と小さく笑った。
(お読みいただきありがとうございました!)