それは、クラゲだけが知っていた 小さな嘘をついた。
ほんの出来心。
引き止めたくて出た、咄嗟の苦し紛れのそれ。
「事故物件?!」
作文用紙に走らせたシャーペンの先がボキリと折れた。夏休みも終盤を迎える八月下旬、越野が仙道の部屋で課題の読書感想文を終わらせるべく奮闘していた時だった。あらすじと結末部分しか読んでいない本の感想を捻り出すのは容易では無く、うんうん唸っている時にそういえばさぁ、とひどくのんきに仙道が話し始めた。
「うわ、ほんとだ……」
越野はスマホで事故物件を集めたサイトを開き、少し緊張しつつ住所を入力して検索をかけると見事にこのアパートが引っ掛かった。
「よく決めたな」
「母さんにも言われたよ」
田岡の熱心なアプローチのおかげで陵南へ進学を決めた仙道は、物件探しに父親と鎌倉へ訪れた。そこで案内された曰く付きのアパートは、築年数はそこそこ経っているがこの部屋だけはリフォーム仕立ての新築同然の内装で、しかも賃料は他の部屋に比べて驚きの格安物件だった。高校からも最寄り駅からも近く何より安い、おまけにリフォーム仕立てとくれば特段に断る理由は無かった。その場で諸々の契約書を交わし、東京へ帰る前に海岸沿いの定食屋で湘南名物のしらす丼を食べながら「掘り出し物件だったなぁ。母さんも喜ぶぞ」と笑っていた父だったが詳細を聞いて角を生やした母に雷を落とされていた。
「ちょっと寒くなってきた」
何も無い天井を見上げて越野が身を縮めた。
「エアコン切るか」
「そういう問題じゃない」
残暑は厳しいが今夜は熱帯夜では無い。窓を開ければクラゲだらけの海に向かって涼しい風が通り抜けて行く。越野はそわそわしながら腕時計に目を落とした。
しまった
越野はこういう話に弱いんだ
仙道自身は不動産屋に部屋が曰く付きであると告げられても特別に何の感情も抱かなかった。むしろ安く済むなら両親の負担も減るし、ここでいいかな、くらいの感想しか無かったのであったが。
ただ越野は違う。
八月初旬にあった合宿の夜、どうやら毎年恒例らしい肝試しで越野は表向きは平気なふりをしていたが、その後のトイレや風呂など仙道にくっ付いて行って就寝時間まで離れなかった。こわいの? なんて聞こうものなら昨晩部員で遊んだねずみ花火のように喚き散らすのは分かっているので遠慮がちに裾を掴む手を見て小さく笑う程度に抑えていた。
「あ、あー。俺、そろそろ」
帰ろうかな、と続く言葉を遮り仙道が口を開いた。
「……最近ちょっと、この部屋、変な感じするんだよな」
「へへへ変てなに?!」
「あー、あれあれ、なんか、ラッパーがどうとか」
「もしかしてラップ音のことか」
「そうそう、それそれ」
「ほんとかよ……」
いよいよ越野は青ざめた。
読書感想文の作文用紙はまだ半分も埋まっていないが、手早くまとめてカバンに放り込み、「じゃあな、また部活でな」遅刻すんなよ! と言いながら立ち上がったので慌てて引き止めた。
「な、なんだよ!」
「だから、そのラッパーがこわいんだって」
「ラッパーじゃなくてラップ音! つーか全然平気そうじゃねーか!」
「そんなことねぇよ。毎晩こえーもん」
「なにがこえーもん、だバカ! もう半年近く住んでるくせに!」
「忘れてたんだけど思い出したら恐くなった」
ぎゃあぎゃあと二人で喚いていたら隣の部屋から怒ったように壁を大きく叩かれた。
「ほら」
俺のせいかよ! と小声で怒る。
「頼むよ越野、おまえだけなんだよ俺は」
越野は盛大に何かを言いかけて、それは大きなため息となって口から吐き出された。
「わかったよ! 泊まればいーんだろ!」
「さすが俺の越野。話が早い」
都合のいいことばかり宣う額を指で弾いてやった。
「お、良い音」
「これがラップ音だ」
ほぼ越野専用となった枕とタオルケットをキングサイズのベッドに乗せて、越野はぼんやりと天井を見上げる。
なにがおまえだけだ
知ってるんだぞ
この部屋に女の人が何度も来てるの
駅前のパン屋さんで少し買いすぎたから、おすそ分けしようとこのアパート前まで来たら玄関先で仙道に手をふる女の人が見えた。慌てて二人から見えない場所で女性が通り過ぎるまで柱の陰に身を潜めた。
日曜日の朝。
本当は、天気も良いからパンを持って二人でどこかに出掛けたかった。公園でバスケもしたかった。今日だって、「越野、最近うち寄らなくなったな」なんて言うものだから仕方なく寄っただけだし。
「越野、麦茶飲む?」
おまえ全然恐くなさそーじゃん。
少し苛立ちながら、越野は起き上がった。
「じゃあ、飲ませて」
薄く口を開けて、その先を待つ。
甘く端整な貌がびっくり眼に変わり、少しだけ胸がすく。
おまえが霊感ないことも
おまえだけだなんて甘いセリフも
全部全部丸ごと嘘っぱちなんてこと
本当は知っていた。