いぬもくわない海に向かって叫ぶ夢を見た。
「ばかセンドー!!」
あれ、こんなに高かったかな、声。
遊泳禁止の七里ヶ浜は波が高く泳ぎには適さないが、サーフィンやヨットといったマリンスポーツを楽しむ者たちには隠れた名所として人気がある。右手にはライトアップされた江ノ島のシンボルタワー、左手には三浦半島。マジックアワーの幻想的な空。そんな絶好のロケーションにそぐわない罵倒の叫び。
「浮気者ー!!今度こそ別れてやるー!!」
これは夢だ。そして先程から叫んでいるのは自分であると越野は理解していた。だが、それにしては声が高い。そして何よりも、
『なんでスカートはいてんだ』
スカートどころかセーラー服なのだが。
「はっ?!」
海面に浮上したかのように唐突に意識が戻った。
「あれ?」
腕を伸ばし、指先をぴんと掲げる。
手入れされた爪には桜貝のような淡い色のネイルが薄くのっており、それは柔らかい曲線を描く女性の手だった。
「…女装コンテストは、終わったよな」
セーラー服もネイルも全て身に覚えがある。クラスの連中に面白半分に選出された文化祭の余興のひとつ。仙道だけが、『無理だ似合わんやめておけ』などと言って反対した。
「越野!!」
ひどく焦ったような声に何事かと振り向けば、国道から砂浜へ降りるコンクリートの階段を走り降りてくる仙道の姿があった。
めずらしいこともあるものだ。
こいつがこんなに慌てるなんて。
(夢だからか?)
波打ち際に佇む自分の元へ駆け寄る仙道を見ながら他人事のように思った。だが目の前で息を整え身を起こした男は、果たして大きく見上げるほどだっただろうか。
「…おまえ、背、伸びた?」
「はぁ?!」
「だって、そんなに、」
身長だけではなく、体格も、存在感も。思わず自分の手のひらを見つめる。
(そうか 俺が小さくなったのか)
おそるおそる自らの身体に触れる越野を仙道は訝しげに見ている。
「おい、どこか痛むのか」
「え、いや…別に」
痛くは無いが、いくら自分でも女の身体だと思うとそうそう触れてはならない気がしてならなかった。
「あ、えーと、それで、何か用?」
いたたまれなくなり、越野は話題を変えるべく聞いたのだが、何故か仙道は困り果てた顔で越野の両肩を掴んだ。
「あの子とは何でもないんだ、本当だ」
「え?」
「屋上で昼寝してたらいつの間にか隣にいて、変な流れになって離れようとしたらのしかかられて、そこにおまえがちょうど現れて」
「その言い方だと俺が邪魔者みてぇだな」
「そんなこと言ってないだろ?!」
なおも弁明する仙道を、越野は不思議な面持ちで眺めていた。
(なんでこんなに必死なんだ)
ふと、そこで夢の冒頭を思い出す。
──別れてやる!
──今度こそ!
(えぇー、俺、こいつと付き合ってんの)
高校三年生になった今、もはや神奈川のみならず、日の丸背負って世界とやり合うほどのバスケットプレイヤーとなったこの男と、俺が。
やめとけよ、俺。
釣り合うわけねぇじゃん。
つーかこんな爪してたらバスケできねぇじゃん。
程よく伸ばして丁寧に磨かれた爪を眺めていたら怒ったようにその手を取られた。
「越野、聞いてるのか」
「聞いてない」
「えぇ!?」
「聞いてねえけど聞こえてる」
心の中で、女の俺に。
立てた両膝に顔を埋めて、涙は零さず泣いている。女になっても意地っ張り。さんざん傷付けられてきたのにな。いい機会だ、俺が浮気野郎に引導を渡してやる。
「別れる」
「だめだ」
低い声に思わず顔をあげる。
「絶対だめだ、別れない」
(やめろよ、おまえの真顔、こえーんだよ)
怯みながらも言い返す。
「そんなこと言ったっておまえこいつのことほんとは何とも思っちゃいねーんだろ」
「そんなわけないだろ」
「じゃあなんで二度も三度も浮気すんだ」
「全部誤解だ、浮気なんか一度もしたことねえ」
おまえがいるのに
おまえしかいないのに
夢の中でもこの男は甘い言葉で俺を惑わす。
騙されるなよ、俺。
「俺が悪かった、もう絶対にほかの女に触らせない」
そのセリフも何度目だ。
一発殴ってやろうと拳をつくったところで、海に潜ったように意識が阻まれた。
「…次やったら絶対別れるからな」
(えぇー?!)
おいおい!
チョロすぎじゃねーか!
しっかりしろ!俺!
仙道は、越野の言葉に破顔し背を屈め顔を寄せてくる。越野は背伸びをしてそれを受け入れていた。
(首、疲れそう)
色気もへったくれもない感想を述べ、今度こそ映画のような絶好のロケーションで絵になる二人を眺めながら、やけになって越野は叫んだ。
「どうかお幸せに!」
(お読みくださりありがとうございました!)