タイトル未定 福沢さんがいない。
毎朝、起きた時にその事実に絶望する。
夢では色鮮やかな世界で福沢さんに会えるのに、起きたら視界は白黒の二色展開になっている。
僕が最近寝ているのは福沢さんが使っていた部屋で、まだ辛うじて福沢さんの匂いが残っている。
この香りもいつまで感じられるのか。
いつかわからなくなるのが毎日怖くてたまらない。
「……っ、….…あぶな」
布団から上手く起き上がれず、倒れそうになった。なんとか咄嗟に踏ん張った。
でも、柔らかいから倒れても大丈夫だったかも。
この世界がもう怪物の世界ではないと僕は知っている。頼りになる仲間もいる。友人だって出来た。
それなのに、福沢さんがいなくなってからどうしても足元がおぼつかない。
外出するために着替えなくてはと思ったけれど、何を着れば良いんだろう。やっぱり黒い方がいいのかな。あの時は学生服があったから……。とそこまで考えて心がずしりと重くなる。
座り込んで黒に見える服を広げてぼんやりと眺めていたら、携帯の着信音がした。思わずびくりとしてしまった。福沢さんが居ないこの家で、僕が喋らなければ耳に痛いほど音が無くなる。
そんな中、大きな音がすると心臓に悪い。
携帯の画面には国木田の文字が表示されている。
設定された着信音が、何度も何度も繰り返される。そろそろ諦めてくれないかなぁとも思いつつ、出ないとまた忙しいはずなのに家まで来てしまう。
だから気が進まないけれど僕は通話のボタンを押して電話を耳に当てた。
「乱歩さん!ご無事ですかっ!?……ご体調を崩されたとかではありませんね? 」
「……うん」
昨日の夜にも電話したじゃない。僕は無事だし体調に問題はない。ちゃんと出社するって言ったでしょ。……あ、そうか、もうとっくに出社時間は過ぎてるんだね。気づかなかった。
「今、太宰を向かわせています。ご自宅で待っていてください 」
「ん」
別に誰かが迎えに来なくても、一人でここから行けるよ。お前はちゃんと仕事してなよ。慣れない仕事や書類関連も合って大変なんでしょ。僕の心配は良いから、ちゃんとやりなよ。もう、代理がとれてこれからはお前が社を背負う存在なんだから。
大丈夫、お前ならちゃんとやれるよ。
皆も支えてくれるし。
「……では、後ほど。失礼いたします」
明らかな疲れと心労が国木田の声から読み取れた。だから本来僕はあいつを慰めてやらなきゃいけない。背中を押してやらなきゃいけない。頭の中では以前と同じような口調の僕の返答が浮かんでいる。でも、おかしなことに僕の口から出てくる頃にはひとことふたことになっている。
今回なんて、「ん」の一文字だ。
どこでどうやって変換されればこんな短縮されるんだ。おかしいな、声の出し方も話し方も忘れちゃったのかな。
それもこれも、貴方のせいだよ福沢さん。
いくら話しかけても返事がないんだもの。そりゃ僕だってもうわかる、声にしたら虚しさが増すだけだって。だって、体験済だ。いくら呼んでも、もう返事が返って来ないことは。
だから声に出さない。おはようも、おやすみも。
僕はこれから一生その言葉を言う機会がないかもしれない。でもさ、心の中で貴方に話しかけることはやめれそうにないんだ。だって自然と浮かび上がってくる。行き場がない言葉が散り積もっていくように感じている。
ねえ、どうしたら良いかな。
とりとめない思考の海に逃げ込んでいたら、玄関先からドアが開く音がした。
次いで、乱歩さーんという太宰の声が聞こえた。
確かさっき国木田が迎えに来るって言っていたっけ。え、もうそんな時間が経ったの。
体感としてはほんの数分なんだけど。
視界だけじゃなく、僕は体内時計もおかしくなっちゃったみたいだ。
「乱歩さーん。上がりますよ」
廊下を歩く音と声が、同時に近づいてくる。
「乱歩さーん?いらっしゃらないんですかぁ? 」
ここにいるよ。
お前、いくら僕を迎えに来たとはいえ呼び鈴を鳴らす前に上がってくるのはどうなんだ。
ていうか、僕ってば鍵をかけ忘れてたんだ。
いつからだろう。
「乱歩さん、こちらにいらしたんですね」
思いの外近くで声がして体が勝手に揺れてしまった。
声のした方にのろのろと顔を上げると太宰がいた。
僕を見て一瞬眉間に眉を寄せるが、直ぐにへらりとした笑顔になる。
「お召し物を選んでいたんですね。今日は少し寒いから、こちらが善いと思いますよ」
広がっている服から一つを拾い上げて、僕に差し出す。
いつまで経っても動かない僕を見て、太宰は「失礼します」と声をかけてから服を着替えさせてくれた。
人の服なのに、器用にボタンを留めていく手元をぼんやりと見る。
「国木田くんの電話に、出てくださってありがとうございます」
「……ん」
今日以外にも皆から電話は来ていたけれど、とる気にもなれなくて留守番電話に音声メッセージが溜まっていくばかりだった。
メールも開いていない。
でも、社長となる国木田の電話には出てくれ、と与謝野さんと太宰から懇願されていたから。
そして太宰が国木田からの着信音だけ変えたので、とにかくそれだけは出ていた。
今日から、僕は探偵社に出社する。
あの日から一度も行ってない探偵社に。
探偵社までの太宰に先導されて歩いた。出来るだけ周りの景色を見ない様に、前にある蓬髪の先を眺めながら足を進めた。
ゆらゆらと動く毛先は程よく思考を散らしてくれる。
太宰は僕の歩調に合わせてくれているから、背中は少しも遠ざからない。
とにかくできるだけ視界を狭く保とうと努めたら、いつの間にか社までついていた。
扉の前まで来て、太宰が振り向いた。
柔らかに微笑んでくる。
「乱歩さん」
「うん」
大丈夫。僕が開けるよ。
一歩前に出てドアに手をかけた。
だめだった。
ドアを開けて皆の姿が見えた瞬間に、自分でも血の気がひいているのがわかった。
苦しい。呼吸が早くなる。息を吸っても吸えていない感覚に襲われる。ひゅっと音がしたのをどこか他人事に感じた。鼓動もやけに大きく聞こえて、耳鳴りまでしてきた。立っていられなくてその場で膝をつきそうになったけれど、直ぐに太宰が支えてくれて体を預ける。続く耳鳴りの間から、みんなが僕の名前を呼んでいる。
その中に貴方の声がないのはなんでなの。
ねえ福沢さん。なんで。
「っ、……はっ……ぁ」
僕の頭脳は特別に優秀で、本当に優秀で、だからこそ全部を覚えていられる。
ねぇ、全部思い出せるよ。
この探偵社に看板がかかった日のことも。探偵社設立後に段々仲間が増えて、貴方は昔より穏やかに微笑むようになって。どこか少し寂しかったけれど、それでも家では昔と同じくずっと二人でいれたから、僕も社では別々に過ごすことに、少しずつ慣れていって。
楽しかった。嬉しいこともたくさんあった。
大変なことも一緒に乗り越えた。
ここは僕の大好きな場所だ。
福沢さんが僕のために用意してくれた居場所。
なのに何で今、こんなに視界に入るのが怖いんだろう。
呼吸が苦しい。
僕のために用意された安心できる場所なはずなのに。
人生の半分近くを過ごしてきたのに。
理由は簡単だ。
福沢さんがいないからだ。
「……っ、………」
ねぇ苦しいんだよ。苦しくてたまらない。
僕、どうしちゃったの福沢さん。
ねぇ。福沢さん。
「乱歩さん、聞こえますか? 聞こえてますね。ゆっくり、すこしずつでいいです。ゆっくり、吸って吐いてをくりかえしてください」
太宰が僕を抱えたままゆっくりと腰を下ろした。
後ろから抱きしめたまま背中をトントンと叩いてくれている。
自分がこんなにも弱いことにひどく衝撃を受けていた。だって、僕は皆と違い一般人だけど、皆が信じてくれているからこの探偵社では最強なんだ。
皆、僕の強さを望んでいる。
今は難しい状況だとわかっていても、福沢さんがいない不安を皆抱えているから、だから僕が、本当は僕がしっかりとしなくちゃいけないんだ。
なのになんで、僕が皆を悲しい顔にさせているの。
「…ぁ」
こんな僕では、貴方は笑ってくれない。褒めてくれない。貴方が好きな僕は、こんな僕じゃない。
でも、貴方が望む僕を、今は演じることもできないんだ。
「……ごめ……っ」
ごめんね、福沢さん。
僕さ、珍しく頑張ってみたけれど、やっぱり無理みたい。
貴方がいないと、武装探偵社の名探偵になれない。
けどさ、貴方にも責任はあるんだからね。
「乱歩さん!」
気持ちだけで何とかしていたからか、無理だと認めたとたんに僕の体も限界を迎えて意識が途絶えた。
目を覚ましたら、医務室でも福沢さんの部屋でもない天井が見えた。
この天井を僕は知っている。
「お目覚めですね」
寮の天井だ。そしてここは太宰の部屋か。
「お加減いかがですか」
「だめ」
寝かされていた布団からもそりと起き上がりながら告げる。
布団脇のペットボトルに伸びていた太宰の手が、僕の言葉にぴたっと止まった。おや、即答は意外だったか。
盛大に倒れたし、そうじゃなくてもこいつに隠しきることは難しいから潔く諦めた。
「だってさ、僕は少しも忘れられないから」
脳が鮮明に記憶している。幸せな時間を。
だから今、その差分があまりにも大きい。
「ねぇ。お前なら上手くやれるから、探偵社のこと、みんなのこと、よろしくね」
「……わかりました」
「がっかりした?」
「いえ。そんなわけないです。乱歩さんが探偵社を守るための選択なので」
やっぱり太宰にはわかったか。
「うん」
探偵社に戻ったらまた同じことが起きる。
かといって、福沢さんの家でこれ以上過ごしたら僕は少しづつ狂っていく。
「とはいえ、今は危険です。ご友人のご自宅で過ごされてください」
「うーん」
「乱歩さん。お願いですから。もう一つの選択肢なら、私は貴方を軟禁するしかありません」
流石はポートマフィアの元幹部。物騒だな。
「貴方を失いたくないんです」
そっと右手に重ねられた手が、微かに震えている。
駄目だなぁ太宰は、と笑ってあげれなくてごめん。今僕に出来る精一杯として、返事の代わりに左手を太宰の頭にぽんとのせた。太宰がぱっと顔をあげた。困った顔を隠しもしないで晒しだす。
安心しなよ。可愛くはないけど、お前も僕の同僚であり後輩だ。
僕は、大切な仲間をこの頭脳で守ることができるんだ。
太宰の頭を撫でてやる。太宰が情けない顔でふにゃりと笑った。僕は今、どんな顔をしてるかな。
太宰がそっと僕の手を掴んで頭からおろす。僕の両手をぎゅっと握った。次に見せた顔は、いつもの太宰だった。
「ご友人を呼びますね」
僕は返事をせず、その後太宰が段取りをするのを眺めていた。
福沢さんが、この横浜を守ることを望んでいたから。僕が名探偵として事件を解決すると、褒めてくれたから。
例え今直ぐに探偵社に戻れなくても
「僕は、世界一の名探偵だよ」
それだけは揺るがない。
太宰の言っていたもう一つの方法は、福沢さんがいたら絶対に認められない。
「……おいていったこと、僕、許してないから。福沢さんも、許さなくていいよ」
それでも今はこれが最適解だ。
もし僕のことが心配で見守っているなら、もどかしい思いぐらいすればいいんだ。
なんなら戻ってきてくれたら善い。
大丈夫、僕はまだ横浜を守ることができる。
続く?