ごはんたべヴ墓*
「3番街のベーカリーに行きたい」
ムスッとした顔をしながらベッドから降りないままそう宣ったアントニオに対し、顔を洗い終えたアンドルーはタオル越しに大きく溜息をついた。
「却下」
「何故だ!もうひと月は経っているだろう!」
「"まだ"ひと月なんだよ、馬鹿!またゴシップ記事のネタにされたいのか!?」
寝転がったまま不服そうな様子でだん!と長い脚をシーツに叩き付けるアントニオへアンドルーも負けじと言い返す。
かつてあの悪名高き荘園で奇妙なゲームに身を投じていた彼らが新たな生を得てから再び出逢い、およそ一年あまりが過ぎた頃。何の変哲もない会話の中で、アンドルーが話題に挙げたベーカリーの話にアントニオが興味を示したのが事の発端であった。
『君が学生時代に贔屓にしていた店か。是非とも訪れてみたいものだ』
そう言って顎をさするアントニオに、アンドルーも思わず目を丸くしたものだった。音楽以外の事柄に関心を寄せること自体些か珍しい彼が、自らそんな事を言い出したのだから。
だが現代でのアントニオは今や世界的にも名の知れたヴァイオリニストだ。世間の人間と同じ感覚で出歩いては望まない注目を集めてしまうのは必定である。更に恋仲であるアンドルーは何の変哲もない一般人だ。そんな2人が並んで歩き、食事を共にしている場面を他人に見られればどうなるか。そんな事はアンドルーとて重々承知だった。故に彼も最初はアントニオの申し出に頷きかねていたのだが、しかし元々出不精な彼が自ら外に行きたいと言っているのだ。それを聞く耳も持たず突っぱねるのは流石に少々気が引けるというものである。
プライバシーが侵されるリスクと、恋人たっての希望。守られるべき2つを天秤にかけ暫く悩んだ末、"家を出てから帰ってくるまで、周りの目には充分気を付けること"という条件のもと、アンドルーの方が折れた。
そうして恋人に連れられて件のベーカリーを訪れた稀代のヴァイオリニストは、その店をいたく気に入ったらしい。
香ばしい香りが漂う店内。穏やかに流れるクラシックギターのBGM。朝の日差しが差し込むイートインコーナーの窓際席で誰かと向かい合って座り、淹れたてのコーヒーと焼き立てのトースト、瑞々しいサラダを前にしたモーニングタイムは彼にとって随分と新鮮な体験だったようだ。
以来、アントニオは2人共オフの日の朝は決まってモーニングに行こうとアンドルーにせがむようになったのだ。
──しかし。
「そりゃあ僕も悪かったよ。一回だけならまだしも、ああやって何度も通ってたらいつかこんなことになるかもしれないって分かってたのに……」
頭をがしがしと掻きながら、アンドルーは溜息混じりにそう吐き出す。
アンドルーはアントニオと連れ立ってその店へ行く時には出来る限り人の少ない開店直後の時間帯を狙って行くようにしていたし、店を出入りする際も人の目には充分気を付けていた。気を付けてはいたのだ。
しかしながら、人の目というものはどうしたって必ずどこかにあるもので。
「君と私が向かい合って食事をすることの何が悪いのだ?疾しい関係でもあるまいに」
「お前が構わなくても僕が構う!写真を見た知り合いという知り合いが軒並み僕に連絡してきたんだぞ!?あれがもう1日でも長く続いてたら通知音と着信音でノイローゼになってただろうよ」
「ム…」
恨みがましい視線を送られて、然しものアントニオも閉口する。
アンドルーの懸念通り、彼らが朝食を共にしている姿はその日その場に偶然居合わせたファンによってしっかりと目撃されてしまっていた。顔を隠す為のマスクを食事のために外した時の、その一瞬を撮られてしまったのだ。
その後はといえばもうお察しといったところである。メディアの発達したこのご時世で、2人のツーショットはSNSを通じ瞬く間に世間へと広がっていった。以降の2人──とりわけアンドルーは、方々からかかってくる電話やらメールやらの対処に随分と奔走させられたものだった。
ただ一緒に食事をしていただけでこの通りなのだ、2人が恋人関係であり既に同棲までしているという事実を公にする勇気はアンドルーにはまだ無い。
ぐったりとした様子で力なくそう告げたアンドルーの姿を思い返して、流石にアントニオもバツが悪くなったらしい。大きな口をへの字に曲げて不満そうにしながらも、それ以上食い下がろうとはしなかった。
「…どれくらいの期間、控えていればいいのだ」
「さあな。最低でも3ヶ月はやめといた方がいいんじゃないか。半年くらいも経てばまぁ、覚えてる人ももういないと思うけど」
「3ヶ月!?半年!?ひと月でこうも持て余しているというのに、そんなにも待たねばならないというのか!?」
「お前、この前ので懲りたんじゃなかったのかよ!またあんな面倒を繰り返すつもりか!?」
「また必安と無咎が何とでもするだろう!その為のマネージャーだ」
「こっちの落ち度しかないやらかしの尻拭いをもう一度させようとするな!」
馬鹿、と声を荒げながらアンドルーは棚から乾いたタオルを出すとアントニオに向かって放り投げた。
いつまでも駄々を捏ねていないでさっさと顔を洗えの合図である。
「君は私の恋人なのだろう。今のこの私の様子を見て気の毒だとは思わんのかね」
「世間様向けの紳士面したお前しか知らないファンが見たら驚くだろうなとは思う」
「我が最愛の人間がこんなにも薄情とは…」
「その最愛の人間が今度こそノイローゼになってもいいってんなら、お前も随分情に厚い奴だな」
「…テイクアウト……」
「駄目だ。2人で出歩くこと自体が今はまずいんだよ」
徐々に小さくなっていく声にも構う事なく、アンドルーがぴしゃりと却下を告げる。
情に訴えた泣き落としを試みようとも相手が堕ちないだろうことを察したアントニオは、長い溜息の後にごろりと背を向けて不貞寝の体制に入ってしまった。
「おい、いい加減起きろ」
「興が乗らん…。午前は寝て過ごす」
あからさまにガッカリした素振りで背を丸める子供のような姿に、今度はアンドルーの方が溜息をつく。この様子では、ちょっとやそっとのご機嫌取りでは元の調子に戻らないだろう。
「…仕方ない奴だな」
ぽつりとそうこぼされた声と共に足音が遠ざかっていく。その場に残されたアントニオはそのままベッドの上で手持ち無沙汰のまま寝転がっていたが、程なくして向こうでゴソゴソと何かを探しているかのような音が耳に届く。思わずそちらを振り返り、やがてのそのそと緩慢な動きのままベッドから降りたアントニオが音のする方──キッチンへと向かえば案の定、エプロンをつけたアンドルーが戸棚からフライパンを取り出しているところだった。
「…何をするつもりなのだ」
「なんだ、起きてきたのかよ」
驚いたようにこちらを振り向くアンドルーの横にはバターの容器と卵、それから食パンの入った袋が置かれている。フレンチトーストでも作るのだろうか?だが卵液を作るのに必要であろう牛乳は置かれていない。
アントニオが首を傾げていると、「お前があんまり拗ねてるからな」とアンドルーが呆れたように言いながら食パンを1枚取り出しカウンターの上に置いた。
「1枚きりで何を?」
「それっぽいものだよ」
手元を覗き込みながら尋ねるアントニオを傍らに、アンドルーはナイフでバターをひと掬いするとフライパンに落としてクッキングヒーターをオンにする。そしておもむろに棚に並んでいたグラスのうちの1つを手に取ると、それを逆さまにして食パンの上からギュッと押し付けた。どうやらグラスの口でパンに穴を開けているらしい。そうして中が丸くくり抜かれた食パンはバターのひかれたフライパンの上に乗せられ、ぽっかりと空いた穴の上に卵が割り落とされる。
こいつはどう使おうかな、と言いながらアンドルーはくり抜いたパン生地を眺めていたが、興味深げにフライパンを覗き込む恋人の姿に気付くと「ほら、ぼんやりしてるなよ」と先程のような呆れ笑いと共にバスルームを指差した。
「顔。それから歯も磨いてこい。戻ってくる頃にはセッティングも終わってるから」
促されるままに洗面所へ向かい身繕いを整えていると、水の音に混じってフライパンから上がるジュウジュウという音が耳へ届く。やがてそれに混じってコポコポ、カチャカチャ、トントントン、と様々な音が合わさり、どこか気怠げだった休日の朝は徐々に目を覚まし始める。絶え間なく上がる雑多な音はどこか軽快で心地よく、まるでアントニオが先程思い描いていた3番街の雑踏を歩いているかのような心地にさせた。
そうしてワイシャツに袖を通しリビングへと入れば、ダイニングテーブルの上には先程フライパンの上に乗っていたトーストとミニボウルに盛り付けられたサラダが用意されていた。おかえり、という声と共に出されたマグの中では、オニオンスープが湯気を立てている。
「ほう。クロックマダムのようだが…これは君が考えたのか?」
「そうだけど、そんな洒落たものじゃない。ただのエッグトーストだよ。でもなんとなくモーニングメニューっぽいだろ」
エッグトースト。呟くように復唱しながら、白いプレートに乗せられたそれを見る。
ほんのりバターが香るトーストの真ん中で、マヨネーズに縁取られた目玉焼きが窓からの光を受けてツヤツヤと光っている。半熟に焼かれたそれを横に置かれたナイフでカットし口に運べば、軽く振られたペッパーの風味も相まってさぞかし美味いことだろう。
向かいには小ぶりな皿に盛り付けられたグラタンが置かれており、これは何かと眺めていたアントニオを見たアンドルーはエプロンを外しながら「ああ、それか」と声を上げる。
「それはくり抜いた方のパンを使ったんだよ。冷蔵庫に余り物の具材もあったしな」
「そんな簡単に出来るものなのか?」
「言っただろ、それっぽいものだって。これも本格的なのじゃなくてあり合わせで作っただけだ」
レンジにかけたタマネギを敷き、トマトとアスパラにピザ用チーズを乗せて焼き上げたのがそれなのだという。スープもインスタントのものに余ったタマネギを加えただけで、要は全てがモーニングメニュー"もどき"なのだとアンドルーは言った。
「僕だってお前とモーニングに行くのは嫌じゃないよ。お前からの誘いを断った事なんて一度もなかっただろ?」
カトラリーを手渡されながら宥めるようにそう言われ、決まり悪そうに頷いたアントニオにアンドルーが小さく苦笑する。
それまで食事といえば大概を宅配かテイクアウトの軽食で済まし、仕事以外でそういった店に赴く事が一切なかったアントニオが自ら食に興味を向けるというのは大きな変化だった。そしてそれを一番喜ばしいと思っていたのは他でもないアンドルーだったのだから。
「別に、もう二度と行っちゃいけないわけじゃないんだ。またいつか行きたいと思ってる。そのためには今だけ辛抱が必要ってことだ。店で出るようなものじゃなくて悪いけど、今はこれで我慢しろよ」
スープを啜りながら告げられたその言葉に、アントニオがふむと顎をさすりながら目線を返す。
「分かった。君がそう言うのなら、まあ言う通りにしようではないか。だがひとつ訂正がある」
「訂正?」
「ああ。君は今自分の料理を指して『これで我慢しろ』と私に言ったが、それは違うな。私はベーカリーのメニューが気に入ったのではなく、"君と"あの店に出向いて朝食を共にするのが気に入っているのだ」
その言葉にマグを持ったままぽかんとするアンドルーをよそに、アントニオはカトラリーを持つとトーストに切れ込みを入れ黄身の絡んだトーストを口に入れた。そうして何度か咀嚼したのちそれを飲み込むと、アンドルーと同じようにマグのスープを啜る。
「ふむ、悪くない。気に入った」
「そりゃどうも」
「結婚してくれ。毎日作ってほしい」
「なに突拍子もないこと言ってんだよ」
テンポよく交わされる言葉の応酬の中、アンドルーが立ち上がってキッチンに目を向ける。
「そろそろコーヒーが入った頃だな。お前も飲むだろ?」
「おや?君は紅茶党だったと思ったが」
「たまにはな。ミルクは自分で用意しろよ」
「ああ。ちなみにアンドルー、カプチーノを淹れてみようとは思わないかね?」
「調子に乗るな。飲みたきゃ自分で淹れろ」
下らない軽口に悪態を吐いて、パタパタとキッチンに向かっていく足音が愛おしい。
窓から差し込む光がブラックチェリーの床をやわらかく照らし出す中、キッチンで2人分のマグを持った愛しい人に思わず眦を細める。
素朴で、けれど幸せな朝の風景だった。