.ウロボロスとクワイヤは犬猿の仲だ。
それは彼らが所属する組織の中では周知の事実であった。
錬金術を究めるべく日夜研究に没頭するウロボロスと、それを多方面からサポートする代わりに利潤を受け取るクワイヤ。
関係性の上では互いに協力を結んでいるにも関わらず、ひとたび顔を合わせれば途端に飛び交う嫌味や皮肉。果ては口論にまで発展し、第三者の介入によってでなければ終わることのない言い争い。
ある時は教団の建物内にある通路で。またある時はウロボロスの使う地下の実験場で。更にまたある時は会議室の入口で。
「ありゃもう名物みたいなもんだな。なに、見慣れりゃ猫の喧嘩みたいなものさ」
そんなことを言ったのは、彼らと並んで科学技術派のリーダーである電解と名乗る男だったか。
互いに手を結んでいる筈の集団、そのトップを担う人物が不仲であると言うことは本来ならば大変に由々しき事態なのだが、電解と同じく利害で結ばれている彼らは自身の抱える目的のために相手と関係を切るわけにはいかない。そんな事をすれば、大きな損失を被るだけだと2人とも分かっている。
とはいえどちらも相手の態度が気に入らないため、目が合っただけで両者の間には火花が散る。ああ言えばこう言う、売り言葉に買い言葉。まるで水と油だ。
そのため電解の言う通り、時も場所も関係なく2人が揃えば勃発するその光景はもはや見慣れたものとして各組織の間で浸透していた。
「なんだか騒がしいな」と誰かが言えば、「ああ、いつものだろう」と誰かが答える。するとまた誰かが「またあのお二人か」と漏らす。
最初こそ2人の口論をハラハラと見守るしかなかった側付きの者達も、今では仲裁に入るタイミングを見極めるのだってもう慣れたものだ。
そうして今日も、またどこかで偶然顔を突き合わせたらしい2人が口喧嘩を繰り広げる声がどこかから聞こえてくる。
もはや聞き慣れたその様子に、組織の構成員達は苦笑混じりの溜息を吐いたのだった。
*
「フ…。クク、ハハハ!完成だ…!私にすればまあこの程度の薬など、完成させるのは朝飯前だが…」
「何をブツブツと呟いているんだ。散らかした後始末くらいさっさとしてくれ」
液体の入ったフラスコを見つめながら妖しげな笑みを湛えるウロボロスに、鋭い鉤爪と大きな尾を生やした異形の男が呆れた声を投げかける。
"異変"と呼ばれるその男の言葉にウロボロスは「ム…」と不服そうな様子で言葉を切るが、しかし改めて周りに目をやれば調合机の上、もといその周辺は確かに散々な有様だ。
卓上に置かれた様々な書物と謎の液体、あちこちに散乱した何かの素材、更に幾つも足元へと散らばる殴り書きのメモ。
よくもまあ、今の今までこんな乱雑を体現したような場所で薬品の調合、精製という繊細な作業が出来たものである。
「その本、確か今は滅んだ某国の秘呪法の書かれた古書だろう?その下のは××の密教に関する禁書だったと記憶しているが。私の尾がうっかりそこの瓶にぶつかって、貴重な史料の上に中身がぶちまけられても良いのなら構わんがね」
そう言って包帯に包まれた大きな尾を手狭そうに揺らめかせる異変に、ウロボロスは小さく舌打ちをしながらも閉口する。
不服そうな表情を浮かべつつも散らかった材料を棚にしまっていると、その後ろでは異変が「ところで」と声をかけてきた。
「君が完成させたと言っていた、その液体は何だ?何処ぞの輩から暗殺用の毒薬でも頼まれたか」
「まさか。今更そんなちゃちな依頼で私が動くか。そんなものは下の連中にでもやらせておけばいい」
「だろうな。では何を作ってそんなに楽しそうにしていたんだ?」
顎をに手をやりながらそう尋ねる異変へ、ウロボロスはニィと口の端を吊り上げて鋭く尖った歯列を露わにする。
「媚薬だ。俗に言う、惚れ薬というヤツだな」
愉快そうにクク、と喉を鳴らしながら告げられたウロボロスの答えに、異変は思わず目を丸くした。
それもそうだろう。身も心も人としての道理から外れ、時には禁忌に触れるような手法を用いて錬金術の真髄に近付かんと日夜研究に勤しんでいる彼が自信満々に作り上げたモノがまさかの惚れ薬とは。
一体どう言った風の吹き回しなのだ、と異変が怪訝そうな表情を浮かべるのも無理のない話である。
「惚れ薬?それはまた、一体何故。パトロンとして懇意にしたい女性でもいるのか?」
「いいや。確かに金は幾らあってもいいが、そのために色恋の真似事をするなぞ勘弁だ。面倒な事この上ない」
「それはまあ、そうだな。出資ならクワイヤが出している分で現状事足りているし…」
そこまで言ったところで、背を向けていたウロボロスが勢いよく振り向く。
驚いて目を見開く異変に向かって「そう!そのクワイヤだ!!」と大きな声を張り上げた。
「あの小僧め、多少金と場所を工面しているからといっていつもいつも生意気な物言いばかりを!ものを知らぬ下っ端共には神の御使だの何だのと持て囃されているようだが、ハッ!あれは只のアルビノだろう!単なるヒトの白化個体に過ぎん!あのように煩く吠える様子の一体どこが神聖なものか!」
ひと息にそう捲し立てるその声音は、先程の愉悦を滲ませたものとは一転して苛立ちを滲ませている。
確かにクワイヤと呼ばれる青年は、ウロボロスや異変とはまた違った意味で普通の人間とはかけ離れた見た目をしていた。
金髪よりも尚淡い白金の髪色に、白磁の如く白い肌。そして血の色がうっすらと透けるような赤味を帯びた瞳。人によっては畏敬をも感じさせるその風貌の原因は、先程ウロボロスが言った通りアルビノと呼ばれる先天性の遺伝子疾患だ。
その事を教えてやったのは他ならぬウロボロスだったのだが、しかし彼の抱える部下達はクワイヤがアルビノとして生を授かった事自体が神の御印だと言って憚らないのである。
「フン。奇異な見目を逆手に取って人を集めるしか能の無い小童風情が、この私に毎回毎回減らず愚痴を。ああ、気に入らん!」
長い右足が苛立ちを表すようにダン!石畳を叩くと同時、髪の毛と一体化した青黒い蛇達がシャァ!と威嚇音を上げる。
ウロボロスは何人にも尊大な態度で接する男だ。
そんな彼に対し、良くも悪くも研究以外のことは二の次な電解と違って律儀に真正面から相対するクワイヤは初めから反りが合わなかった。
「成程。で、君はその惚れ薬を使ってクワイヤに恥のひとつでもかかせてやろうというわけだな」
「その通り。なに、少々の間私の犬になってもらうだけだ。常より敵愾心を抱いている筈の私に尻尾を振って媚び諂う様を、小煩い取り巻き共に見せてやろう。薬の効果が切れた後に奴がどんな顔をするかと思うと、あァ、今から笑いが止まらんな!」
ハハハハ!と声高らかに笑うその様に反し、異変ははあ…と何とも気のない声を返す。
だがそんな白けた反応も気にする事なく、ウロボロスは愉快そうに口元を歪めながらフラスコの中で揺らめく液体を見つめている。
「一応訊いておくが、同性でも効果はあるのかね?」
「愚問だな。私を誰だと思っている?既に効果は検証済み、異性だろうが同性だろうがひとたび薬が身体に入れば、ものの数分で骨抜きも同然だ」
「はあ。まあ、お遊びは良いが程々にしておけよ」
錬金術の研究に関して屈指の知識と技術を持つ彼が、ただの私怨でそんな物へ注力していたという事実に呆れて肩を竦める異変。
とはいえ自分が与する派閥の長にわざわざ物申すほどの義理がクワイヤにあるわけでもない。
恨みはないがお気の毒さま、と異変は僅かな憐憫を感じつつも実験室を後にする。
そうして室内にはウロボロスだけが取り残されたが、しかしそれでいて尚、室内には愉快そうなクツクツという笑いが溢れ続けていた。
*
黒い空に月が青白く輝く夜半。教会の地下の、その更に奥にある小部屋にて。
「──では、何もなければ今回の協議はこれで終了となるが…」
各自、問題はないな?
最低限の灯りだけが点された室内の中、そう言ってクワイヤが周りの面々を見渡せば、そこに集まった面々は無論とばかりに頷く。
「であれば、本日はこれにて解散。次回の予定はまた追々こちらから連絡する」
その言葉を皮切りに、全員が席を立ち薄暗い会議室を後にする。
多くの者が寝静まる時分、月に一回程の頻度で催されるこの集まりは、組織を纏めるうえで欠かせないものだ。
ウロボロスと電解がそれぞれの研究による成果を報告しあうほか、両派閥へと分配される予算とその内訳、資金調達の状況や範囲など、組織の骨組みとなる様々な事柄がこの話し合いをもとに為されている。多くの重要な情報が共有されるため、当然ながら秘匿すべき事柄も多い。
そのためクワイヤの他には各派のトップとその腹心たる人物のみ、という極めて限られた者にしか参加の許されていないごく小規模な会議なのだが、内容が内容だけに議事録はなかなかの枚数になる。無論こちらも部外秘のため、取り纏めて保管するのは中立の位置にあるクワイヤの役目だ。
黒い手袋に覆われた両手が今日も分厚い紙束を丁寧に整え、保管用のケースに収める。
そうして重怠い肩を揉みながら小さな溜息を漏らす彼の背後で、コツリと誰かが近寄る足音がした。
「随分とお疲れみたいだね?」
「ああ、硫酸か…」
"硫酸"と呼ばれたその女性は、自分の方を振り向いたクワイヤに向かってニコリと明るい笑顔を返す。
科学技術派の一員であり電解の右腕でもある彼女は、この組織の中でも比較的根明で人好きのする人物だ。今回も疲労気味のクワイヤを気遣ってか、わざわざ声をかけにきたらしい。
「もともと明るくないとはいえ、だいぶ顔色が悪いように見えるよ。大丈夫?」
「ああ…。ここ最近、資金調達の範囲を広げている分それなりにな。仕方のない事ではあるが…」
「ま、それもそうよね。パトロン連中だってあたし達がちょっとでも成果を見せないとすぐに投資を渋るし」
金持ちのクセに、そういうところはケチなのよねーと唇を尖らせる硫酸。そんな彼女の言葉にクワイヤが「そうやって貯め込んでいるから金があるんだろう」と返せば、彼女は確かに!と言ってからからと笑った。
「ねえクワイヤ。これ、とあるツテで手に入れたものなんだけど。あんたにあげるよ」
そう言って彼女は腰に巻いたホルダーから小さめの瓶を抜き取ると、クワイヤに向かって差し出した。
他のホルダーに入っている試験管よりもふた回りほど大きいそれには透明な液体が入っており、一見するとただの水のようだ。だが硫酸は得意気な笑みを浮かべながらその小瓶を軽く振ってみせる。
「最近あんまり眠れてないみたいじゃない?で、コレ。飲めばぐっすり眠れる薬なんだってさ!あたしよりもあんたに必要そうだし、この後はやる事ももう無いでしょ?」
ほら!と小瓶を手に握らせてくる手に逆らえず、掌に収まったそれをそのまま受け取る。
半ば押し付けられるような形で貰った小瓶を改めてまじまじと見てみるが、中で揺れているのはやはりただの無色透明の液体だ。およそ彼女が言うような効果がありそうな代物には見えない。
(まさか、僕を騙そうとしているのか?…いや、でも……)
「ウロボロスじゃあるまいし、まさかな…」
「え?」
「いや、なんでもない」
小さく呟いた名前の人物、そのイメージを消し去るように首を横に振る。
これを寄越したのがかの男であればまだしも、彼女の人となりを考えればその線も薄い。そもそもそんな悪戯をクワイヤに仕掛けたところで硫酸には何のメリットもないのだから、本当に善意からでの行いなのだろう。そう考え、クワイヤは改めて視線を手元の小瓶から彼女の瞳へと移す。
「そのまま飲んでも大丈夫なのか?」
「そう聞いてるよ。さ、景気良くいっちゃって!」
にこにこと笑いながらそう勧める硫酸に背を押される形で、クワイヤは瓶の蓋を開けた。
特に匂いらしい匂いもせず、思ったよりも抵抗なく飲めそうだ。どうせ大した量もないのだから、とそのまま瓶を傾ける。
──そうして中の液体が口に入り、喉の奥に流れていくや否や。
「…ッ、ぐ、!? ゲホッ、ゴホッ!!」
口元を押さえながら激しく咽せ込んだクワイヤにギョッとする硫酸。カツン、と足元にクワイヤの手から落ちた瓶が転がる。
「ちょ、ちょっと、大丈夫?気道にでも入った?」
心配げに言いながらクワイヤの背中へと腕を伸ばし──けれどその手は他ならぬ彼によって弾かれてしまう。
未だ口元を押さえながら軽く咳き込んでいるクワイヤは顔をしかめながら硫酸を睨めつけた。
「ゲホッ……どういうことだ、硫酸!」
「ど、どういうことって、何が?」
「とぼけるな!これは酒じゃないか!」
栄養剤だなんてとんでもない、とクワイヤは口元を拭いながら怒りを露わにする。その様子を見るにかなり度数の高いものだったのだろう、吐き出された息は熱を孕み、声音には苦しげな色が見て取れた。
「お、お酒…?!まさかそんなこと…」
思いもよらない彼の言葉に困惑の表情を浮かべる硫酸。それもそうだろう、クワイヤが決して酒に強くないことは彼女も知っている。
彼が少しでも──それも仕方がなく口にしなければならない場面に限り──アルコールを摂取すれば、病的なまでに白いその肌があっという間に赤に染まってしまうのを彼女も何度か目にしていたのだから。
「硫酸、お前がこんな真似をするなんて思わなかった!」
「ま、待って!ごめんなさいクワイヤ、騙すつもりで渡したんじゃないの!瓶の中身がお酒だなんて、あたしも知らなかったのよ…」
「うるさい!ああ、クソッ!他人なんか信じた僕が馬鹿だった…!」
喉元を押さえ、歯噛みしながらそう告げるクワイヤに硫酸はおろおろとしながら詫びる。しかし一度信用しただけに裏切られたという思いが強いのだろう、クワイヤは頑として聞く耳を持たない。
「本当なの、信じてよ!あたしがこれを貰った時、確かによく眠れる薬だってアイツが──」
「いやに騒々しいな、一体何事だ?」
まるで2人を嘲るかのような嗤いを湛えた声が突如として降ってくる。咄嗟にそちらを振り向けば、シャァ!という鋭い威嚇音と共に青黒い蛇が頭を擡げてこちらを見ていた。
そうして牙を剥き敵意を向けてくる蛇の胴体は、元を辿れば長い黒髪と混じり合い一体化している。
そしてその大元たる異形、怪しげな笑みを浮かべた長身痩躯の男。
「ウロボロス……」
先程クワイヤが脳裏に思い描いた人物は、ニヤニヤとした笑みを隠しもせずにこちらを見下ろしていた。
「どうしたクワイヤ。いつもの活気がないようだが、調子でも優れないのかね?」
壁に片身を凭せかけ、言葉とは裏腹に悠然とした態度でそう語りかけてくるウロボロス。そんな彼にクワイヤも反射的に煩い、と返すものの、まさにウロボロスが言った通りその声には張りがない。
そんなクワイヤを一瞥し、次いで硫酸を見やった彼は最後に床へと転がる小瓶に目を留めると、ニィと笑みを深くしながら口を開いた。
「おや、これはこれは…。いつもキャンキャンと子煩いのがこうもしおらしいとは。どうやら本当に芳しくないようだな?どれ、近くの空き部屋まで運ぶくらいはしてやろう。そう広くもない通路で倒れられては歩くのに邪魔なのでね」
妙に演技がかったような、それでいて愉快そうな色が滲んだ声でそう告げたウロボロスは、クワイヤの手首を掴んでその身を引き寄せる。そうして覚束無い足取りの彼を横抱きに持ち上げれば、骨ばった薄い体はされるがままその腕に身を委ねた。
普段であれば何としてでも抵抗しただろう。だが今の彼にはそんな気力もなく、ぼぅっとする頭では碌に思考も回らない。
未だ喉奥へと残る焼けるような熱さにはあ、と息をつけば、上からクク、と噛み殺したような笑いが聞こえた気がした。
「ま……待って!ウロボロス、どういう事!?あの中身は──」
「喚くな。…硫酸、貴君が無類の酒好きなのは充分承知しているが、薬と言ってアルコールを渡すのは如何なものかと思うがね」
「なっ……!」
硫酸がウロボロスに詰め寄っている声が耳に届いたが、クワイヤには彼女が何を言っているのかもう理解出来なかった。今はただ、頭がぐらぐらと揺れる感覚に耐えきれず瞼を閉じる。
程なくして自分を抱える腕の主が動いたのが分かり、次いでバタンと扉の閉まる音がした。
腕から伝わる微かな振動と、石畳を叩く革靴の音。瞳を閉ざしているクワイヤが認識出来るのはその2つだけだ。
故に、知る由もなかった。
薄い皮膚一枚隔てた先で、愉悦に染まった瞳でウロボロスが自分を見下ろしていることを。
全て目論見通りに事が運び、これ以上なく上機嫌に口角を吊り上げるその表情を、クワイヤは終ぞ目にする事はなかったのである。