喧嘩したりミートパイ食べたりするヴァイ墓*
アンドルーが家を出ていった。
ちょっとしたことで始まった口論の末のことだった。
何故そんな言い争いになったのか、原因は最早覚えていない。ただ、苛立ったアントニオが言い放った一言がきっかけだった。
『そんなに私に対して不満があるのなら、ここを出ていけばいい』
本気ではなかった。きっと言い返してくるだろうと思っていた。だからこそ、ここの家主は私なのだからと素っ気なく言い放ったところでなんとも思わなかった。
けれど返ってくる筈だった反論が沈黙にとって代わり、眉を顰めてから数秒。
『…そうかよ』
低く抑えたような声でそれだけ言うと、アンドルーはアントニオの横を通って自分の部屋に入っていった。そうして暫しの間何やらゴソゴソと探し物をしていたかと思えば、再び出てきた彼は上着を着込み、バッグを──恐らく貴重品の類が入っているのだろうそれを肩にかけていた。
『…実家にでも身を寄せる気か』
『さあな。別に家じゃなくたって、友達や職場の同僚、頼れる先なんて他にもある』
昔と違ってな、と付け加えながらアンドルーは振り向きざまにアントニオを睨みつけた。
『じゃあな。次に会う時はまた数百年後かもしれないけど!』
バン!と怒りのままに思いきりドアを閉める音の後、足音が通路を遠ざかっていく。アントニオはその音に顔をしかめながら、ひょいとアンドルーの自室を覗き込んだ。
クローゼットをはじめとした収納などは開けた形跡こそあるものの、出ていく前と比べて然程違いはない。本当に貴重品だけ持って行ったようだった。着替えも、仕事のため揃えた書籍類も、更に言えば洗面所には彼の歯ブラシとコップだって置いたままだ。
あんなことを言いはしたが、いずれほとぼりがさめた頃に戻ってくるだろう。
──そう、思っていた。
けれど違った。
アンドルーは、戻ってこないどころか連絡ひとつ寄越していない。そうしてもう3日目の夜になる。
「アントニオ。明日は8時からレコーディングの予定ですが」
マネージャーである謝必安が後部座席から告げる。
「分かっている。それがどうかしたか?」
「いえ。…ここのところ、ちゃんとした食事を摂れていますか?」
「適当にやっている。問題はない」
「そうですか。…いえ。朝食は──朝食もそうですが、食事はちゃんと摂った方が良いですよ」
「…まるで誰かのような事を言う」
アントニオが無感情に淡々とそう返せば、謝必安は困ったような微笑みを返してみせた。
アンドルーが出て行ったことはまだ彼には告げていないが、2人の間に何かあったのはここ数日のアントニオの様子から薄々察しているだろう。
住まいであるマンションの前で范無咎の運転する車が止まり、2人に見送られながら車を降りる。エントランスを抜け、エレベーターに乗って自室のある階へ。そうして部屋の鍵を開ければ玄関先のライトが自動で点灯したが、いつもならばリビングのドアの磨りガラス越しに見える灯りはない。小さな淡い光が玄関先を照らしている以外、しんと静かに暗闇が広がっているだけだ。今朝脱いだままの形で置かれていたスリッパに足を入れそのままリビングのドアを開ければ、ひと気のない中で冷えた空気がかすかに頬を撫でた。
「…冷えるな」
珍しく、誰にともなく独り言ちる。
エアコンのスイッチを入れ、上着をコートハンガーに掛けるとどかりとソファに座り乱雑に前髪を掻き上げた。
アンドルーが出て行った後の部屋は見た目こそそう変わり映えはない。けれどそれなりのブランド名が付いた上着はハンガーではなく椅子の背もたれにかけられっ放しになり、リビングのテーブルは常に楽譜が雑多に置かれているようになった。ポストに届いていた郵便物は開封もされないまま置き去られ、TVのリモコンはソファの上に放り出されたままになっている。カーテンを閉め忘れた窓の外には黒い空が広がっていて、そろそろ夜風も冷える事だろう。
──一体、いつまで意地を張っているつもりなのだろうか。
どちらに対してのものなのかわからない感情を抱えたまま、ふいにキッチンを見遣る。
ダストボックスの中はケータリングや外で買った食べ物の包みといったゴミが増え、なのにシンクは水を飲むグラス以外にはなんの洗い物もなく綺麗なままだ。かつてアンドルーを探しながら1人で暮らしていた時と変わらない筈のその光景が、今はいやに裏寂しく感じられた。
「……………ハァ」
大きく、深い溜息がこぼれ落ちる。
お互い、売り言葉に買い言葉だったのだ。別に本気で別れようなどと、アンドルーだって考えてはいない。それくらいアントニオもよく分かっている。合鍵がないのがいい証拠だ。ただ、いつまでも互いに意固地になっているだけなのだ。
自分では電話やメッセージのひとつも入れず、それなのに心では相手のことを考えては憂い、思い悩んでいる。きっとアンドルーもそうだったろう事が、今のアントニオにはすぐに想像出来た。
生まれも育ちも違うのに、そんな不器用な点はアントニオもアンドルーも2人揃ってよく似ていた。
「………」
いくら気分が優れていなくとも、人間の体である以上食事は摂らねばならない。もともと料理などする性分でもないアントニオはここ3日間の夕食を全て出来合いのもので済ませていたが、改めて彼のことを思い浮かべているうちにとても宅配など頼む気分ではなくなってしまった。
一応立ち上がって冷蔵庫を開ければ、卵と牛乳、そして買ったままで手付かずだったパンの袋が目についた。流石にフレンチトーストくらいなら作れる。
卵をボウルに割り入れ、目分量で牛乳を注ぎ、適当に混ぜて出来上がった卵液をバットに流し入れる。そうして食パンを黙々と半分に切っていた、その時。
カチャ、と玄関先で聞こえた小さな音を、アントニオの耳は聞き逃さなかった。
「────っ」
何か思うよりも先に、足が動く。
彼にしては珍しく大きな足音を立てながら玄関まで駆けていき、ドアチェーンを外すや否や勢いよく扉を開ければ「うわっ!」という聞き慣れた声。
目の前には、もう3日は見ていない愛しい人の姿があった。
「っ、わ」
驚いた顔をした彼が何か言う前に、アントニオはアンドルーを思い切り抱きしめた。
胸元へと閉じ込めるように、背中を、頭をぎゅうと引き寄せる。その力強さから何か察するものがあったのだろう、何事かを言おうとしていた口を閉ざしたアンドルーは両手をアントニオの背に回し、その抱擁を受け入れた。
「………」
「……アントニオ…」
「…今まで何処にいたのだ」
「……ごめん」
「………」
ぽつりと告げられた謝罪に、抱きしめる力がいっそう強くなる。細身ではあれど自分よりも上背のある男に全力で抱き込まれてはアンドルーも多少苦しかった筈だが、彼はそれに文句を言うこともなく再び話し始めた。
「…家に、戻ってたんだ。あの後すぐに、連絡入れて。そしたら、母さんが……僕が急に帰るって言ったもんだから、急いで掃除しようとして、階段から落ちてしまったらしくて。大きな怪我とかはなかったけど、そのせいで足を捻って…」
「………」
「僕が急に勝手なことを言ったせいで、そんなことになってしまったんだ。だからせめて怪我の具合がマシになるまでは、家のことをやらなきゃって思って。…ほんとは、電話くらい入れなきゃいけないって分かってた。でも、もしお前がまだ怒ってたら、冷たい声が返ってきたらって考えると、それも出来なかった」
「…そんな事はないと、君なら分かっていると思っていたが」
「うん。でも、万が一そうだったらどうしようって、そう思ってしまったんだ」
「…そうか」
「………」
「…私も、同じだった」
「…うん」
「もう中に入ろう。ずっと玄関先では冷える」
寄せ合っていた体がようやく離れ、静かにドアが閉じられる。
リビングに入ってバッグを下ろしたアンドルーが周りに目を向けると、まだ作っている途中のフレンチトーストが目に付いたのだろう。「珍しいな、お前がキッチンに立つなんて」と言いながら小さく笑う。
「1人分にしては随分たくさん切ったんだな」
「1人分ではない。…君の分もだ」
「え?」
「明日、君が帰って来たのなら、一緒に食べられるようにと。……そう、思っていた」
「……そうか」
はにかんだ表情でアンドルーは作りかけのフレンチトーストを眺めた。
作りかけのまま放り出されて、パン屑の散らばったキッチンの光景が、今は無性に愛おしい。
「だったら、明日の朝食はこれがいい。今夜一晩寝かせて、明日の朝に焼き立てを食べよう」
「今夜の分はどうする気だ?」
「作るよ。ちょうど帰り際に買い物してきたし、母さんからいいものを貰ってきたから。アントニオ、ちょっとオーブン温めておいてくれ。メモリは200℃で頼む」
そう言うとアンドルーはおもむろにキッチンを出ていき、エプロンを付けて戻ってきたその手にはパイシートと挽肉、そして何やら乾燥した葉のような物を持っていた。
「それは?」
「ローリエの葉だよ。肉料理なんかに入れるといい香りがするし、臭みも取れる。家じゃよくミートパイを作る時に入れてたんだ」
そう答えながらアンドルーはフライパンに油を引くと、挽肉を入れて木箆でほぐしていく。
ぱちぱち、じゅぅじゅぅと音がし始める頃にソースとケチャップ、砂糖と塩、胡椒を加え、最後にローリエの葉を入れて慣れた手つきでフライパンを振る。
「本当なら玉ねぎとかニンジンとかも入れるとこなんだけど、今日はいいだろ?僕も腹減ってるしな」
「こんな時間なのに、まだ食べてなかったのか?」
「僕もお前と似たようなもんだよ。…出来るなら、一緒に食べたかったから」
そう言われた瞬間、愛おしさと共にふと数日前の記憶が蘇る。──この騒動のきっかけとなった、喧嘩の原因だ。
『いい加減、そろそろ私との関係を公表してもいいのではないか?』
アントニオが時折そう告げるたび、アンドルーは悪い、まだ決心がつかないと言っては首を横に振っていた。
こうして彼の作る料理を食べて、暮らしを共にして。何百年と探し回った末にようやく見付けた恋人だ、この先一生涯のパートナーになることはわかり切っていた。
確かに今世でも立場の違いからアンドルーはアントニオとの恋人関係について苦労している部分はあるものの、決して嫌だとは思っていない筈だ。なのに決して頷かないのは何故なのか。…それが口論の火種になったのだ。
けれど、いつの間にかそれは脱線して、オーバーヒートして。ああ言えばこう言う、本心からはかけ離れたやり取りの末にあのような事を言ってしまったのだ。…まさかあの時は、こんな事になるとは2人とも思ってもみなかっただろう。
「ん、こんなもんでいいかな。あとはパイシートに挟んで乗せて焼くだけだけど、ちょっとだけその卵液貰うからな」
フォークで穴を開けたパイシートにスプーンで挽肉を乗せながらアンドルーが言う。解凍され端の柔らかくなった部分をくっ付けてから、先程アントニオが作ったフレンチトーストの卵液をパイシートの上に塗っていく。
「こうやって卵を塗ると焼き上がった時に照り返しが出来て、見た目も美味しそうになるんだ。母さんの受け売りだけどな。あとはこれで、30分焼けば出来上がりだ」
そう言ってミートパイの生地をオーブンに入れ、
自分を見上げたアンドルーをアントニオは再び抱き寄せた。
「アンドルー。…私と結婚してくれ」
「……!」
今まで冗談めいた口調ながらも本心から告げていた言葉。──彼がいつも軽口を叩くなと言いながら聞き流していた言葉でもある。
かつてあの荘園で出会い、結ばれ、死によって分かたれた末に何百年もの時を経て今世でようやく見付けた愛しい人。今回だって、例えいっとき離れたところで数百年抱え続けた思慕の深さに比べれば大したことではないと分かっていた。なればこそ、彼が頷かない理由というのが分からなかった。
神などとは無縁なアントニオが祈るような声で告げた今回のこの言葉を、アンドルーはどう思うだろうか。
──彼の考えは分からない。けれど自分はきっと、何度でもこの言葉を告げるだろう。
アントニオがそう思いながらアンドルーの返答を待っていると。
「アントニオ」
ふいに名前を呼ばれ、思わず腕の力を緩める。
するとアンドルーは両腕をアントニオの首に回し、そのまま背伸びして彼の唇へと静かに口付けた。
「…いいよ。結婚しよう」
僕と一緒に暮らしてくれ。アントニオ。
その言葉を聞いた瞬間、今度はアントニオがアンドルーの唇を塞いだ。
玄関先で交わしたハグに負けないくらい力強く、互いを抱きしめ合う。まるで世界に2人しかいないような心地になりながら、アントニオとアンドルーはここ3日の空白を埋めるかのように暫しの時間、互いに身を寄せ合っていた。
*
何故、今回はあのプロポーズを受け入れてくれたのか。
夕食の席に着きながらアントニオがアンドルーにそう尋ねると、アンドルーは困ったように微笑みながら「コンプレックスよりも、寂しさが勝ったからかな」と答えてみせた。
「コンプレックス?」
「ああ。なにも今世だけじゃない、ずっと昔──お前と初めてあの荘園で出会った時から抱えてたものだ。…地位や財、才能を持っていたお前と比べて、僕は生きるための知識以外に何も持ってなかった。そんな僕とお前が一緒にいても、何も返せない、つり合わないって思いがずっと頭の隅にあったんだ」
今世では当時ほどの貧富の差や社会的な格差はなくとも、互いに生きる上で立場の違いというものはどうしてもある。天才演奏家として昔から脚光を浴びてきたアントニオと、あくまで一般人であるアンドルー。2人の間には確かに目に見えないラインが存在していた。
「何を馬鹿な事を。利潤関係のため共にいるわけではないことなど分かりきっているだろう?」
「勿論分かってるよ。ただ、僕がお前に対して勝手にそう感じてただけだ。……それに、もしも僕らの関係を公にしたら、好奇の目に晒されるのはきっとお前の方だと思ったから」
「ム……」
その言葉を聞いたアントニオは思わず口を噤む。
他人から向けられる面白おかしなものを見るような目。その不躾で無遠慮な好奇心は、アンドルーが最も忌み嫌っているものであると知っているからだ。
「だから、世間がお前にそんな目を向けるかもしれないと思うと、受け入れる勇気がなかった。でも今回、お前と離れてよく分かったよ。お前と出会う前に1人で過ごした数百年よりも、お前と出会ってから離れてる3日間の方がずっと寂しかった。…だから、もう離れたくないと思った」
そう言ってカットされたミートパイを食べるアンドルーに倣い、アントニオもそれを口に入れる。
「つり合わないなどと、つまらない事を。私とて同じだ。例え1人だったとしても、君と出会う前の何百年と出逢ってからの数日では重みが違う。…君が私にこうして料理を作り、共に食卓を囲む。私はそれだけで充分だというのに」
「…そうかよ」
少しばかり赤くなった頬を隠すように下を向きながら、アンドルーがぶっきらぼうにそう答える。
けれどそれが照れ隠しだという事をアントニオは勿論分かっているし、アントニオが分かっている事をアンドルーも知っている。
「アンドルー。…今度の休みの日に、指輪を買いに行こう。その後に、必安と無咎に報告を」
アントニオの言葉に、アンドルーははにかみながらこくりと頷いた。
それを見たアントニオが再びミートパイを口にすれば、ローリエの香りと共に愛おしい気持ちが膨らんでいく。
きっとこの先も上着をちゃんとハンガーに掛けろ、楽譜を置きっぱなしにするなと小言を言われる日々が続いていくのだろう。けれどきっと、それらを鬱陶しいとは少しも思わない。2人で囲む食卓がある限り、愛はずっと続いていく。
今日も、明日も、明後日も。
──例え何百年経っても、この愛は変わらない。
-了-