「幸せの泥濘」第五話そして物語は動きだす。なんの変哲もない朝、運命の歯車は回り始めたのだ。セルも女も、それに気づくことはなかったが。
「今日はイーストンに行くぞ」
身支度を整えたセルが、鏡越しに女に声をかける。女はきょとんとした顔で首をかしげた。
「イーストンってあの名門魔法学校ですか?」
「ああ、そうだ」
セルが行先を告げるのは珍しいことで、女もなにかあるのかと訝しんでいる様子だった。
「お前も来るんだよ」
「えっ、私も行くんですか?」
普段はずっと家で家事をしているか、出かけると言えば日常の買い物だけの女だ。気分転換に出かけ先を作ってやるのもいいだろう。それに。
「イーストンに通うアベルという生徒に探し物をさせているんだ。お前にはその進捗の伝達係をさせる。いいな?」
アベルたちをいびって気晴らしするのは楽しいが、進捗状況を聞きにいちいちイーストンに行くのも面倒だった。女に伝達係をさせれば少しは仕事も楽になる。
「ええ、もちろん。セル様のためならなんでもしますよ」
なんでも、ね。ふん、とセルは鼻で笑った。女の瞳の闇が色濃くなったのを、知る由もなく。
「僕は適当な生徒に化ける。お前は……」
「変身魔法なら使えませんよ」
そうだと思った、とセルは呆れてため息をつく。あれは案外繊細な魔力なコントロールが必要なのだ、ほうきで飛ぶこともできない女が簡単に使える魔法じゃない。
「お前、化粧を少し落とせ」
「え~……」
女は基本的にばっちりメイクだ。それで大人びて華やかに見えるがすっぴんは案外地味な童顔であることをセルは知っていた。女は不満げだったがセルに早くしろと急かされると、わかりましたよ、と言ってメイク落としシートで目元を拭った。
「これでいいですかぁ」
化粧を落とした女は、セルの方を向く。セクシーな服とアンバランスになるちょっと幼い顔。セルはクロゼットからレアン寮の制服を取り出し、女に投げて渡した。女に伝達係をさせることを見越して用意していたものだ。
「これに着替えろ」
「うえぇ……私、もう二十八歳なんですよぅ……学生服なんてコスプレじゃないですかぁ……」
女はしぶしぶと言った様子でワンピースを脱ぐと、黒いシャツに袖を通す。ややサイズを見誤ったか、胸がぱつんぱつんで思わず釘付けになってしまう。女はじとりとセルを見て、それからにやりと口角をあげた。
「セル様のえっち」
「……うるさい」
女はズボンも履く。こちらもワンサイズ小さかったのか、女は太ももとお尻を無理やりねじ込むように着替えた。しゅるしゅるとネクタイを結ぶと、白と紫のローブを羽織る。
「……この歳で学生服なんて、恥ずかしいです……」
女は頬を染めて唇を尖らせた。夜の床でも結構あけすけな女だ、恥じらう姿なんて珍しくて、背筋がぞくりとする。年増の女にぱつぱつの学生服を着せて興奮するなんて変態みたいじゃないか、セルは素数を数えて気持ちを落ち着かせると、咳払いをした。
―幸せの泥濘 第五話―
さて、ここはイーストン、七魔牙が根城にしている地下室にて。女は怯える様子もなく、鼻歌なんか歌いながら着いてきていた。適当な生徒に変身していたセルは、周囲に誰もいないのを確認してから魔法を解く。
「おい、アベル。いるんだろ?」
横柄な態度でアベルの名を呼ぶ。アベルはいつも通りお人形のように表情ひとつ動かさず、悠々と部屋の奥から現れた。
「セルか。……そちらの女性は?」
「こいつはジーン。僕の小間使いだ。これからお前との伝達係をさせる」
女は一歩前に出ると、丁寧にお辞儀をする。
「はじめまして、アベル様。セル様のカノジョのジーンと申します」
「もうやめないかこのくだり」
セルは額を抑えてため息をつく。この会話はご兄弟方との挨拶の時に何度もしただろうと。
「セル様がカノジョだって認めてくれればいいんですよ?」
女はきゅるんとこちらを見上げてくる。可愛い、可愛いか?可愛いといえば可愛いかもしれない、セルはいら立ちまぎれに女の眉間を指で弾いた。
「お前が小間使いだって立場を弁えればいいんだろうが」
そんなはたから見れば可愛い恋人同士の戯れを見て、アベルは首を傾げた。
「君みたいな人でも恋人ができるんだね」
「殺す!どういう意味だ!」
杖をアベルに振り上げるセルを、女がどうどうと止める。アベルはきょとんとした顔でそれを見ているだけだった。
「落ち着いてくださいセル様、ただ暗に性格が悪いって言われただけじゃないですか!」
「十分殺すに値するだろそれは!」
落ち着いた様子のアベルが人形を撫でているのがまた腹が立つ。
「すまない、気を悪くしたなら謝るよ」
そういうところがむかつくんだよ、僕を舐めやがって、とセルは憤りながらも当初の目的を思い出した。
「それで、探し物は見つかったのか?」
アベルはリストを差し出してくる。セルは乱暴にそれを奪い取った。
「この学内で一番はレイン・エイムズだ」
はん、とセルは鼻で笑う。僕たちが探しているのはあんなちゃちな強さではない、もっと全てを凌駕する力の持ち主だ。セルは偉そうに語り始める。
「レイン・エイムズ?くだらないな、僕たちが探しているのはあの程度の力じゃないんだよ。全てを支配する、お父様にふさわしい……」
ふと女の方を見ると、アベルになにか目配せをしているのに気付いた。セルは眉間にしわを寄せて女を睨みつける。
「なんだ、言いたいことがあるなら言ってみろよ」
「話が長くてつまんないなって思いました!あと自分に酔ってる感じがだいぶ嫌」
「殺すぞお前!」
女の胸倉を掴むセルを、アベルがどうどうとなだめる。
「落ち着いてくれ、僕もそう思った」
「お前も殺す!」
セルが青筋を立ててキレてるのを、キレさせた主原因であるアベルと女がまぁまぁまぁまぁと手を上下させていると、失礼します、と声が聞こえた。部屋に入ってきたのは、アベルの腹心であるアビスだった。
「やあ、アベルの犬か」
アビスは険しい顔でセルを見る。そんな目をしたってお前たちは僕には勝てない、そんな優越感で機嫌を直したセルは、にたりと口角をあげた。
「相変わらず仲良しごっこか?くだらないな」
なにか反論しようとしたアビスが口を開ける。しかし、その直後、女の姿が目に入ったようだった。するとアビスはなにやら挙動不審に震えだす。怪訝な顔をアベルに向けると、アベルは淡々と、さも当たり前のことかのように説明した。
「アビスは女性に慣れていなくてね。女性の前だとこうなってしまうんだ」
「……はわ……おなご……」
ブブブブ……と震えるアビスを一瞥し、セルは呆れたように肩をすくめた。
「おなごって歳でもないだろ。こいつ28歳だぞ」
「セル様、殺します」
ほほ笑んだまま杖をセルの眼球目指して突き立てようとする女を、アベルがどうどうと落ち着かせる。
「落ち着いてくれ、セルもそんなことを言うものではないよ。おなごという言葉には単に女性という意味も含まれる」
「アベル様、それあまりフォローになってません」
アベルになだめられ、杖を下した女だが、じとりとセルを見ている。セルはべ、と女に舌を出すと、アベルに向き直った。
「まあいいさ。アベル、これあげるよ」
セルは魔力の濃縮液が入った注射器をアベルに手渡した。アベルの表情がぴくりとだけ動く。
「セル様、それは……」
「お前は黙ってろ」
女はなにか言いたそうにセルを止めようとしたが、セルにひと睨みされると大人しく引き下がった。
「……わかった」
アベルは静かに注射器を首筋に突き立てる。
「そう、それでいいんだ。僕を失望させてくれるなよ」
セルはアベルの顔を覗き込むと意地悪く笑ってから、女を連れてマゴル城への帰路についた。
それから少したち、女をアベルのところ使いにやったとき。女の都合を考えて夕暮れ時に出かけさせたのだが、ちっとも帰ってこなかった。セルは、女が家出したときのことを思いだす。また誰かに絡まれているんじゃないか、それともイーストンでなにかトラブルがあったか、迎えに行くべきか否かもだもだとしていた。しかしセルが時計とにらめっこしていると、そんな心配をよそに、のんきな声が聞こえてきた。
「ただいま帰りましたぁ!」
セルは不機嫌をあらわにして頬杖をつく。内心、無事だったことに胸を撫でおろしながら。
「ずいぶん遅かったな」
「ええ、ええ、すみません。アベル様たちとずいぶん話し込んでしまって……」
「アベル『たち』?」
「はい、七魔牙の皆様にご紹介しただいて……、皆でお喋りしたんですよ」
気に入らないな、まったく気に入らない。なにがそんなに気に入らないのか、そう、女にセル以外の世界ができたことか。今までこの部屋でセルと二人きり、ないしはたまにご兄弟方と話すのみだった女に、新しい世界ができてしまったことが嫌なのか。でもどうして。それは執着心か独占欲、そしてそれを恋とでも言うのだろうが、セル自身はそれを認めなかった。はぁ、とセルはため息をつく。アベルとの伝達係なんてさせなければよかった、そう後悔した。
「ふん、楽しそうでなによりだな」
素直に嫉妬した、そう言えばいいのに、セルの口からでるのは嫌味だけ。それも女はあまり気にしていないようで。
「とても楽しかったです!」
嫌味が通じていないのか、通じた上で無視しているのか、まったく腹立たしい女だ。にっこり微笑む女は、アベルからの伝達事項を何点か報告する。それはまったくセルの求めているものではなく、セルはさらにいら立ちを募らせるばかりだった。
「まったく、アベルといい、お前といい、役立たずばっかりだな」
「うふふ、すみませんねぇ」
僕の周りはどうしてこう暖簾に腕押しみたいな奴ばっかりなんだ、とセルは机の脚を小さく蹴った。
さらに月日はたち、イノセント・ゼロの計画は着々を進んでいた。そして、アベルも用済みになった。アベルには残念なことだが、情報を漏らされては困る。つまり殺すことにした。あれから何度か目、アベルへの伝達から帰ってきた女に、そのことを告げる。
「ああ、そうだ。お前には悪いが、アベルには死んでもらうことにしたよ」
アベルのところへ行くたび、楽しそうに七魔牙との交流の話をしていた女だ。さぞ残念がるかと思った、むしろ女が懇願すれば生かしておいてやることもやぶさかではないと思った。しかし。
「あら、そうですか」
女は顔色一つ変えることなく、あっさりとそう言い放った。その反応に、セルの方が驚いてしまう。
「……いいのか?」
「なにがですか?」
「だってお前、アベルと仲良くしていたじゃないか」
ちょっと拗ねたような言い方になってしまった。女はふふとほほ笑むとセルの両頬を手で包み込む。至近距離に女の顔が迫って、キスでもされるのかとぎゅっと目を瞑ったが、くす、と吐息だけ唇にかかって気配は離れていった。
「セル様、心配しなくても私の世界はセル様だけですよ」
まるで、ついこの前心配していたことをまるごと見透かされたようだった。セルはどきりとしながら、平静を装う。
「なんの話だよ」
「私がこれから先だれとどれだけ仲良くしていたって、私はセル様以外見ていませんから」
セルは、女の瞳の闇が一段と暗くなったのに、今度は気が付いた。女に秘められた狂気、こいつは自分の夫を殺したのだと思い出す。
「たしかにアベル様と話すのは楽しかったですよ」
女は目を細めて笑う。指が髪を遊ぶ。女がでも、と言葉を続けた。
「でも、それがセル様のためになるなら、殺しても構いませんよ」
女の手が、セルの髪を梳いた。セルは身体が固まったまま、ろくに動けずそれを受け入れた。
「それがセル様の幸せなら、なにがどうなったっていいんです」
狂愛、それはセルがお父様に抱いている気持ちよりも強く狂気じみていたかもしれない。真っ黒でセルだけを映すその瞳に、セルはぞっとした。そして、セルは考えた。僕の幸せってなんだ、と。お父様に尽くし、お父様のためになること、それが幸せなのだと信じてきた、でも今は。この女とともにあることを幸せだと感じ始めている。僕の幸せはどこに。セルは頭がくらくらしてきた。
「アベル様を殺す時は私も連れて行ってくださいね。最後のお別れをしたいので」
女はそう言い残すと、ぼーっと立ち尽くすセルを置いてシャワールームへと消えていった。
「僕の幸せは」
セルは小さく呟いた。