誰も知らない朝に微笑んで「山デート?」
夕方の商店街・マウント深山の一角で、私はライダー・キャスターと立ち話をしていた。日本人ではない風貌が目を引くのか、通行人が遠巻きに視線を送っている。
「先日、ランサーと話をしていて。お互いに山はさほど馴染みがないため決まったんです」
「山、ですか。場所の見当は?」
骨董品屋の店番を抜けてきたライダーが眼鏡の縁を持ち上げた。
「それが……思い当たる場所が、ことごとく行きづらい場所で」
「そうね、確かに柳洞寺の周辺はデート向きではないわね。悩むくらいなら海沿いにでも行きなさいよ」
買い物かごを提げた柳洞寺の奥様、もといキャスターが流暢にデートプランを提案し始める。
「海浜公園あたりなら、フレアスカートに華奢なサンダルを履いて、帽子はつばの広いものがいいわね。私もついこの間宗一郎様とそんな装いで足を伸ばしてみたのだけど、思いの外風が強い日だったのよね。そうしたら、宗一郎様がさりげなく風よけになってくれて……」
連れ合いの無骨な横顔を想像しているのか、夢見心地で頬に手を添えるキャスター。結局のろけ話となり、ライダーは嘆息していた。頭の中で置き換えてみる。
まず優雅な服装で歩く自分が想像し難い。隣に立つ男はというと、アロハシャツで釣り道具を担いでいるか、風にさらわれた帽子を木の枝葉に届く跳躍力で掴むか。はたまた翻ったスカートに顔をにやつかせるか……。
「あら、貴女にはハードルが高い話だったかしら」
「高いも何も、彼女は山に行く話をしているのではありませんか。自慢話も程々にしてください」
「そう、それは失礼しましたわね。なら貴女は彼女に的確なアドバイスをしてあげられるのかしら? あからさまにインドア派の貴女が」
棘のある返しも日常茶飯事なのだろう、ライダーは面倒くさそうにキャスターを一瞥した。
「大分前ですが、新都の南東にキャンプ場があると聞いたことがあります。車でしか行けないらしいので、情報の主はマイカーを買ってもらったら女の子たちと行ってみたいなどとぬかしていました」
「車……しかし距離を走る訳でもないのに、わざわざレンタカーを調達するのは費用面の負担が」
ライダーとキャスターは顔を見合わせ、揃って額を押さえた。
「何ですかその反応は。あのですね、別に私は交際費を惜しんでいる訳ではありません。車でなくとも自力で登山することも可能だと踏まえた上での発言であって」
「はいはい、体力バカップルは好きになさいな」
「しかし、貴女の口から交際費と聞くと、感慨深いものがありますね」
暗にランサーとの関係をからかわれ、頬が熱くなるのが自分でも分かった。
「い、一応、世間体は貴女がたの捉え方で間違ってはいませんので。あとは新しい仕事を見つけなければ」
「あら、前の仕事は辞めたの? そう、どうりで久しぶりに見かけた訳ね」
ランサーとのある出来事を境に、気が抜けて重大なミスをやらかしたとは口が裂けても言えない。
これ以上詮索されるのは沽券にかかわる。洗濯物を押し込んだカバンを肩に担ぎ、クリーニング店に行くと言い残し足早に去った。
当日は、梅雨時にしては珍しく晴れ間のある日だった。
「おかしいですね……場所的にはこの辺りのはずなのですが」
スポーツ用品店で揃えた登山用の装備で挑んだ私は、キャンプ場の看板が見当たらずしきりに首を傾げていた。
「キャンプだか登山だか、どっちでもいいけどよ。情報源は確かか?」
新都で待ち合わせて麓までやってきたランサーも、アウトドア用のパーカー姿で腕組みをして頭上を見上げている。車がすれ違う程度の山道はあるのだが、土曜の午前中の割に車の往来はない。
ライダーから聞いた話を伝えると、ランサーは合点がいったようで「そのキャンプ場、潰れてるかもな」とあっさり言い捨てた。
とりあえず適当な所まで登ってみるか、と登山は決行された。
キャンプ場らしきものは確かにあった。だが、数カ所に点在しているロッジはいずれも野ざらしで、色あせた事務局の看板がかかった建物ももぬけの殻だった。
「本当に潰れている……ランサー、何故分かったのですか」
「あー……それはだな」
おおよその事情はこうだ。
ランサーとともにカレンのもとで過ごしている金髪の少年が、事業拡大と称してキャンプ場の経営会社を買収したのだという。
「アイツがオーナーをやってるプールが儲かってるんで、次はキャンプ場をより時代のニーズに合わせた娯楽施設としてプロデュースする、とかなんとか言ってたんだよ。ったく、金持ちの道楽とはよく言ったもんだ」
「それなら、何故分かっていながら別の場所にしなかったのですか」
「それはまあ、おたのしみってコトで。バゼット、もうちょい上まで登るぞ。アンタなら余裕だろ」
キャンプ場跡地のさらに上部は、整備された道もなく斜面も急だ。だがランサーがやぶからぼうに何もない所を目指すとは思えない。
「勿論です。いざという時のために備えは万全ですので」
さすが、とランサーは口笛を吹いた。
「まあでも、こっからはなるべく身軽な方がいい。いくつか荷物よこせ」
「このくらい、どうってことありません」
持てない量ではないので断るが、いいから、とランサーは腕からひょいひょいと荷物を取り上げた。
「ですから、貴方に荷物持ちをさせる訳には……!」
「こういうのは男の役目だろ? オレにくらい女扱いさせろ」
思わぬ言葉が返ってきて、しばし荷物を担いで先を行く男の後ろ姿を見つめていた。
「って、オレにくらいとは何ですか!ランサー!」
出来るだけ足場の悪い箇所を避け登ること数時間。視界が開け、山頂とおぼしき地点に到達した。感嘆の声を上げる私の隣に並び、ランサーも眼下の景色を見渡した。
「どうだ、キャンプ場よりずっといいだろ」
新都に深山町、さらには港と、冬木市を一望出来る場所がこんな所にあるとは思わなかった。
「貴方、このことも知っていて……?」
「おうよ。前にタイガの姉ちゃんトコの狩猟に駆り出されてよ。ちょいとこの辺の山を教えてもらったのさ」
昔は登山客が山頂まで登ってきていたのだが、中腹にキャンプ場が出来てからめっきり客足が途絶えたのだという。
かつての名残か、休憩所とおぼしき古ぼけた山小屋がぽつんと建っている。簡易宿泊所を兼ねていたようで、ベッドはないものの雑魚寝には困らないスペースや、煮炊きをする設備が見受けられた。
「少々ほこり臭いですけど、この程度なら寝泊まりには十分ですね」
「ほう。あらかじめ一泊するのを想定してきたと」
にやつきながら肩を抱くランサーを振りほどき、まなじりをつり上げた。
「あのですね、本来はキャンプ場に行くつもりだったんですよ? 日帰りなんて……物足りないじゃないですか」
最後は尻すぼみになってしまった。ランサーの笑みが深くなる。
「そういえばそうだな。よしよし、この感じだと他に来る奴もいなさそうだし、ゆっくり過ごそうぜ」
頭をわしわしと撫で回され、頬を赤らめながらもおとなしくうなずいた。
ふたりきりになると、未だに落ち着かないこともままある。だけど今は、少しでも同じ時間を過ごせるのが嬉しかった。
さすがに山中食となると、食事はごく限られたものになる。ランサーはバイト先の登山に詳しい同僚に教わった、と手際よくインスタント食品を用意してくれた。
英霊である彼は別段食事にこだわる必要はないのだが、私が美味しい、とつぶやくのを聞いて「山で食べるメシも乙なもんだろ」と満足げだった。
夕食は私が持参した芋をホイルに包み蒸し焼きにした。ほくほくと湯気の立つ黄金色の芋にバターを落とし、それぞれ頬張る。ランサーが大きく瞬いた。
「コレ、うめえな!」
「ええ。普段から茹でた芋を食べるのですが、バターを垂らすと美味しいと聞いたことがあって」
「あー、確かセイバーあたりが言ってたような。何つったかな、じゃがバターか」
「そのような名称でしたね。私も士郎君から聞いたのですが、何でも日本の北にあるホッカイドウの食べ方だとか」
ランサーもそれそれ、と二つ目の芋に手を伸ばす。
「坊主ンちに邪魔した時、そのホッカイドウの特集をテレビでやっててよ。セイバーが食い入るように観てたな」
和やかな衛宮邸の光景が脳裏に浮かび、無意識のうちに口元が緩む。
「バゼット、アンタも行ってみたいか?」
「え……私は特に、セイバーほど食に惹かれるものはないですが」
「そういう話じゃねえよ。例えばほら、一緒に出かけるっつっても毎度この辺ばっかりじゃ飽きるだろ。たまに旅行ってのもいいんじゃないか」
旅行、と繰り返し、芋を両手に包んだまま黙り込んだ。
「まあ、なんだ。それなりに金がかかるだろうから、無理にとは言わんさ」
沈黙を金銭面の問題と受け取ったらしく、ランサーは溶けたバターを指でなめ窓の外に視線をやった。夕闇が空を覆い始めている。
「そんな……そんなことありません。ただ、貴方とそんな話が出来るのが不思議で、何て返せばいいのか分からなくて……」
懸命に返す自分がふと恥ずかしくなり、黙々と芋を食べる。ランサーは目を細めて眺めていた。
腹も満たされ、すっかり夜闇に包まれた頃、山小屋を出てみた。
木立が風に揺れる中、冬木の街は無数のきらめきに彩られていた。海は静かに北へと広がり、宙を仰げば満天の星空が私たちを取り囲んでいた。
「きれい……」
「だろ。街中じゃこうは見えねえな」
それどころか、日々せわしなく過ごしているうちに、ふと立ち止まって夜空を見上げることすら忘れかけていた。協会の執行者として従事していた頃は尚更だ。
隣に立ち、穏やかな笑みを浮かべているランサーの横顔を見つめる。冷えた外気の中で、寄り添う体温がふいにいとおしくなった。
「貴方は、私の知らなかったものを沢山教えてくれる。この世界は捨てたものではない、私のような人間でも愉しむ余地があるのだと」
教えてくれたもうひとりの存在に心の中で感謝を述べ、微笑んだ。
「貴方がいてくれるから、ちいさな輝きの一つひとつすら、眩く映るのかもしれません」
一夜の記憶がまぶたの裏に残って、いつでも思い出せるように。
大きな手のひらが肩に回された。そのまま抱き込まれ、心臓が高鳴った。
「ランサー……?」
「いや、さっきからアンタが可愛くてな」
こめかみのあたりを撫でられ、口を引き結ぶ。そっと唇が重ねられた。
「あの、今日はずっと外にいるので、唇が荒れてて……」
「そんなの構うかよ」
後頭部に手を添えられ、再び口づけられる。上着を掴み、身体を寄せた。ゆっくりと舌を絡め合い、頬や髪、身体の線をなぞられ、ふわふわと頼りない心地になっていく。
幾度も幾度も、互いの存在を確かめるように口づけを交わす。世界に取り残されたように、ただ体温を寄せ合い、分け合う。
ようやく解放され息をつくと、私の顔を覗き込んでランサーも熱い吐息をこぼした。
「何回キスしても足りねえな……」
全身が震えた。言葉では返せず、せめてもとランサーの両頬を包み込む。もっと、とねだるように。
おまけのキスをしてから、ランサーが耳元で囁いた。
「続きは中に入って、あっため合おうぜ」
うなずき、寄り添い合って山小屋へ戻る。
その夜、火を焚いて暖を取りながら、私はたくましい腕の中で甘い声を上げ、溶け合うようにして眠った。
「おい、バゼット起きろ」
熾火の匂いがわずかに漂っている。頬にひたひた触れてきたランサーはすっかり登山服を着込んでいた。
こちらはまだ毛布を巻きつけているだけなのに。むくれても彼は散歩に出る前の犬のようだ。
誰も知らない場所で交わる夜は互いを昂らせた。気だるい火照りを残したままの身体を持て余しつつ、のろのろと上半身を起こす。
「まだ薄暗いし、さすがに早朝の山の空気は身に堪えます……」
「寒かったらオレにくるまってろ。そら、支度支度」
何をそんなに急いているのだろう。できる限り手早く着替え、山小屋の扉を開け放った。
「あ……」
はるか北、水平線の境界が橙のもやを帯びている。一歩二歩と進み出て、ランサーに背後から抱き留められた。
鈍色の海面がゆっくりと澄み渡り、やがて朝日が顔を覗かせる。
かつての私なら、出合えなかった景色。故郷の仄暗く広がる海原とは真逆の温かさ。
「この景色を、アンタにも見せたかったんだ」
すぐ横で紡がれる声と、私を包むぬくもり。
私たちもまた、幾千もの夜を経てここに辿り着いたのだ。
緩やかにランサーの腕をほどき、しばらく朝日が昇るのを見守った。
「バゼット」
ふいに風が舞い上がる。振り返ると、ランサーは息を止めて目を瞠った。
「どうか……しましたか?」
乱れた髪を押さえつけていると、歩み寄り、大きな手のひらで代わりに髪を撫でてくれた。どこか、張りつめたものをじっと抑えているような表情。
口を開きかけた瞬間、彼はくしゃくしゃの笑顔を弾ませた。
「何でもねえよ」
つられるようにして微笑み、自然と胸をついて声が出た。
「……今日は、一番陽が高くなる日ですね」
朝焼けの中で贈り合った言葉を知るのは、私たちだけだ。
End.