愛言うんは奪うもんでもあるらしい「カサブランカって映画観たことありますか」
「えっ、どうやろ。ないと思うけど」
満たされては空にして、また満たしては空にする。飲み干すのは何杯目か、グラスに何度水を注いだか、その回数もとっくに分からなくなっていた。始め確かに形を保っていたはずの氷もかわいそうに、徒に僕らの時間に付き合わされてすっかり溶けて、水と混ざり分からなくなっていた。
切り出し方が分からないまま、今日まで何にもならない会話を薄めて伸ばして限界まできて、ようやくここまでたどり着いた。目の前に座る狂児は、それまでとは何の脈絡もなく唐突な僕の問いかけに面食らっている。この前から僕は狂児にそんな顔をさせてばかりな気がした。
狂児に渡したいものがあった。以前からそれは本人にも告げていたし、今日の約束を取り付けたのもそのためだったのに、いざ本人を前にすると差し出すことができないでいた。
僕のために受け取ってほしいなんて保険までかけて、あとはただ渡すだけなのに。
包みにちょうどいい袋など家にはなく、百均で買ったエコバッグに入れただけの貯金箱。はじめは硬貨を入れるたびに響く、空虚な軽い音に苛立ちもしていた。しかし中身がそれなりになった今では逆に、振ればガチャガチャと鳴り響く音が耳障りで仕方ない。
「君の瞳に乾杯、とかってセリフ言う映画で、狂児さんと出会った頃くらいに観たんです。狂児は和子の瞳に乾杯したんかなとかも考えました」
「……聡実くん酔ってる? 酒飲んでないよな」
「めっちゃ素面です大丈夫です。いいから聞いてください」
きっと過去最高、これまでこの人の前で発してきた言葉数を優に超える勢いで喋る僕に、狂児は狼狽えているようだった。真剣に話していることをアルコールで正体がないと疑われるのは心外ではあるけれど、許すことにする。僕自身も自分がこんなに口が回るようになるとは思っていなかったが、それでもまだ言いたいことの半分も言っていない。
自分にも言い聞かせるよう、結論ファーストなんて社会の常識は今は関係なく、僕の考えていることをただ聞いてほしかった。
「そのシーン観てたときに、愛のシーンとか友達が言うから、愛ってなんやろなって考えたけど分からんかった。愛は与えるもんらしいでとかも言うから、ふーんってそん時は思ったんですけど。いつかの晩御飯の時に、お母さんが自分が食べん鮭の皮をお父さんにあげとって」
「え……鮭の皮?」
「そう。皮。その時なんか、愛を与えるって、こういうことなんかとかも思ったりして」
僕の言葉が増すにつれ、狂児は分かりやすく瞬きが増えていく。
会話というより一方的な宣言に限りなく近い。狂児もきっと、どう相槌を打てばいいのか必死に考えているのだろうということが想像できて、急におかしな気分になった。これまでなんやかんやとこの男のペースにのまれることが多かったことを考えると、胸のすく思いすらある。
喉の奥のつかえを出し切ってしまうみたいに、深く息を吸って、吐き出す。その間もこの人からは目を離さないままでいる。
少しの間沈黙する僕に何を言うでもなく、狂児はきっと、僕の話がまだ終わらないことを分かっていた。
「狂児さんは、僕にいっぱいものくれるよな」
なんで。流れ出そうになる言葉を飲み込んで、そのかわりにありがとうと付け加えてみた。
テーブルを擦る狂児の指先が、少し震えてからぴたりと止まる。狂児は口を開かない。その必要はないのだから。
「僕も紅歌ったでしょ。あれって与えたことになんのかなとかも考えたんですけど、でもあれは狂児さん死んだ思ってたし、受け取る人がおらんもんを与える言うんはなんか違うような気がして」
「でも俺死んでへんよ?」
「僕は死んだと思ってたって話です。まあ、だから、捧げるとか言うほうが近いんかなって」
フ、と吐息のもれる音に鼓動が波打つ。眉間に寄せられた妙な皺は変わらないが、口元の強張りが少しだけほぐれていた。
「神様みたいに言うてくれるやん」
神様であれば、とうに諦められるものを。神話であれば、悲劇で終われたものを。
僕はどうしようもない人間なもので、綺麗に終われずに足掻いている。
「プレゼントあげるって言うてたでしょ。渡したいんですけど、まだもうちょっと言いたいことあんねん」
中身があるのかないのかもよく分からないカップを煽る狂児は何も言わない。いい加減、何が言いたいんだと呆れられても仕方ないような話ばかりしている自覚はある。けれど狂児は僕が望んだ通り、ただ話を聞いていた。
喋り通している僕も喉を潤わせたくて、ピッチャーを手繰り寄せてグラスに水を注ぐ。氷がなくてもひんやりとした水の流れる感覚が、火照る胸に気持ちいい。
「狂児さんに言われた通り、僕今勉強頑張ってるんで、最近新しいこと知ったんです」
言いながらこれでは嫌味のように聞こえるかという懸念がよぎったけれど訂正する暇も余裕もない。とめどなく溢れでる言葉を手繰り寄せて、繋ぎ合わせることにただ必死になる。
「愛って与えるもんってさっき言うたけど、逆に本質的には奪うもんなんやって考えた人もおるんやって」
「奪う? おっかないなあ」
「ちゃう。今考えとるようななんかドロドロしとる意味とちゃうから。知らんけど。例えばですけど、狂児さんが犬飼っとるとするでしょ」
「イヌ?」
「そう、犬。犬のこと毎日散歩して餌あげて、可愛がって、どんどん好きになるでしょ。自分とおんなじくらい、それかそれよりもずっと犬のこと好きになって、犬が楽しそうやったら自分も楽しいし、病気なったら自分も悲しくなるやろ。そうやって犬の存在を自分に吸収して、自分と同化するくらいなるのを奪うって言ってて。でも実際犬は別に何一つ減ったりとかはしてないんです。それが愛の本質やっていう話なんですけど」
「ほーん。すごいお勉強してんねんな。難しい話やけど、例え話上手やな」
分かったのか分かっていないのか、狂児の口ぶりは物分かりのいいふりをした大人の茶化しも混ざるものだった。もしこれがメッセージアプリ上でのやりとりであったら、例のねこぱにのスタンプがきっと送られていただろう。
「僕も、ほんまのところは全部が全部分かったとは思わんけど。自分がそうしたいからそうするんを奪うって言うなら、そのほうが分かりやすかって」
曖昧なところで言葉を区切れば、狂児は持て余すみたいに少しだけ僕から目を逸らす。その視線は僕の斜め後ろを通り、おそらく背後の壁紙を見つめた後、それでも狂児からは離れない僕の視線に観念して、再びこちらに戻ってきた。
「やから、最後に聞いてもいいですか」
「……うん、ええよ」
できれば分かってほしいという気持ちもあった。同時に、それは僕が狂児に望める努力ではないことは分かっていた。
「会わんほうがいいとか言ったけど、やっぱりそうやなくて、どうすればいいかを僕と狂児さんで、考えるのってできひんのやろか」
瞬きを一度二度だけ、それきり狂児はこちらを見つめたまま動かなくなってしまう。驚きで本当に時間が止まってしまう人間を初めて見た。
かく言う自分も流れるように出てきた言葉に後から理解が追いついて、早まる鼓動を意識して息苦しくなる。落ち着けと脳が出す命令は、一種の興奮状態にある中ではどうにも受け入れられない。息を吸うと喉が渇く。ここから出せとうるさい僕の言葉は僕を駆り立てる。
「奪う以前の話やん、こんなん。何回考えても、狂児さんのこと何も知らん。分からんまんま終わるんはなんかイヤで」
でも分からんことは諦める理由にはならんはずでしょ。
グラスを握る手に力がこもる。気が抜けてしまったみたいにぽかんと開いたままだったはずの狂児の口はいつの間にか、しっかりと引結ばれている。
「分からんから、分かりたいねん。儘ならんから、なんとかしたいねん。街ですれ違ったときに、僕やって気づいてほしいねん。狂児は僕を見つける才能あるくせに、いつか僕のこと分からんようなるとかは無理やねん」
言葉を絞り出す度に、喉が締め付けられるみたいだった。あの日、振り絞って歌を捧げたときのように。今度は何を失ってしまうのだろうか。少しの恐怖を覚えたが、それは狂児から奪うことになる未来だとすぐに思い直した。
足元に置いてた鞄に踵が当たり、ガチャリと中の貯金箱が揺れ動く。今の今まで意識の外にあったその存在を思い出して、ここで突き出すか否かの少しの逡巡の後、せっかく持ってきたのだからこれも狂児に委ねてみることにした。
エコバッグに包まれたそれを鞄から引っ掴み、卓の中央に置く。ガチャリと再び耳障りな音を立てたそれは、自室ではもうすっかり見慣れていたのに場所が変わると全く異質なもののように見える。
「……さっきからずっと黙ってるけど、なんも言うことないんか、ボケ」
沈黙に耐えきれず、思わず刺々しい物言いをしてしまった。これはさすがに少々八つ当たりがすぎたかもしれない。少し前まで狂児が口を挟む間もなく喋り倒していたのは僕の方だったことを思い出す。
「ごめんなさい、さすがに理不尽でした」
「……や、なんか、俺もどこから話せばええか考えててんけど……えっと、まずこれは何ですか……?」
さすがに狂児もこの展開は想像していなかったようで、しげしげと貯金箱を眺めてアホみたいなことを聞いてくる。
「何ですか。貯金箱見るの初めてですか」
「ちゃうやんちゃうやん。え、なに? 手切れ金とか?」
「僕の今までの話聞いてました? まあ、狂児さんがそう思うんやったらそうなんちゃん」
「ごめんて聡実くん……待って考えるからヒントくれへん」
「いや、もういいです狂児さんの好きに使ってください」
「あんなぁ、聡実くん」
狂児の声のトーンが変わる。それまでとは変わって揶揄うような色はなく、まっすぐこちらに飛んでくる。
机上の貯金箱をつついていた手は所在なさげにカップの縁をなぞっては摘み、はっきりしない狂児らしからぬ行動を今日はずっと繰り返していた。それも一部責任は僕にあることを自覚している。
それでも今度の狂児は僕から目を離さない。全てを吸い込む暗い瞳は窓からの光を反射してチカチカと瞬く。黒塗りでピカピカの、この男の愛車に良く似ていると思った。
「俺多分聡実くんから色んなもん奪ってるんやわ」
息を呑む。吸い込んだ息はそのまま吐き出されることなく、行き場のない二酸化炭素が思考と連れ立って体内をぐるぐると巡る。
なに、今、この人なんて言うたんや。
いつもの無駄にでかい声からは想像もつかない。誰に聞かせるつもりもなく、囁くつもりもなかったかのような、まるで微かな祈りみたいな呟きだった。
「難しいわな。そやけど、あかんのかもしらんけど、めっちゃ嬉しいよ」
あ、笑ってる。目の前に広がる光景を些か他人事のように、まるで映画を見ているような感覚に陥る。狂児が笑っていた。それはいつもの不自然な薄ら笑いでもなく、僕が紅を歌ったときに見せた、眉尻の下がった笑顔に似ていた。けれどそれは昔見たものよりももっと切実に何かを訴えてくるようなものの気がして、目尻の皺に目が離せなくなる。
この人から薄ら笑い以外の表情を引き出せた時、どうしようもない優越感に支配されていたことも思い出した。
「嬉しい、なら、いったんよかったです」
「うん。嬉しい。ありがとうね。……うん、俺は聡実くんみたいにいっぱい考えんの得意やないけど、俺も一緒に考えてええんやったら、嬉しいわ」
「もう僕ばっかり喋んの疲れたから、狂児さんもお願いします」
「せやな、過去一喋っとったもんな。また腹減ったんちゃう? パンケーキあんで」
「……狂児さんてパンケーキ好きなんですか? よう勧めてくるけど」
「ん〜?」
差し出されたメニュー表を一瞥して、確かにそこにあるパンケーキの存在を確認する。喉も渇いたし、既に結構長居してしまっていることへのせめてものお詫びとしてドリンクも追加しようかな、と思いついた。
何にしよう、そう考えながら当たり前のように続くと思っていた狂児の言葉が、そういえばいつまでも訪れないことがふと気になった。
確認しようと顔を上げたが最後、僕の視線を待っていましたと言わんばかりの顔をした狂児がは一層笑い皺を深くして僕を見つめていた。
「聡実くんがもの食うてんの見るん好きやねん」
「………………キモ……」
「アハハ!」