インソムニア・イン・ブルー ただ眠りにつくよりも、いい夢を見たいと思った。明日は休日で、そんな夜はいっそ起きているのが好きだった。12時を超えて起きていてももう誰からも叱られることはないことに、寂しさを覚えるほどには大人になってしまった。
本日選ばれた夜の過ごし方は以下の通り。コンビニに行って少し高めのアイスを買う。たまにはお酒を買ってみたりもする。甘いものだけじゃなくて、塩気も欲しくなることを見越してポテトチップスも準備した。
そして登録している配信サービスで映画を探す。室内の灯りは消して、カーテンを閉め切って、画面からの光だけに集中する。音は耳をすませてようやく聞こえるくらいのボリュームにまで絞ってしまう。そうやって観ているのも、もう一つの部屋で寝ているパートナーに気づかれないように工作しているようでわくわくした。隠したいような後ろ暗い理由は別にないけれど、バレないように何か企むことは好きだった。
少し前に寝室に向かった狂児は、きっともうすでに夢の中にいるのだろう。一方僕の夜はこれからで、冷凍庫から取り出したバニラアイスと、職場の同僚からお土産にもらったウイスキーを持ち出してきて、準備を整えた。
映画は何を観ようかと、アプリを操作して吟味する。こういうときのために目をつけておいた、お気に入り機能の中の何作品かを眺めて、今の気分とぴったり合うようなものを物色する。
配信サービスは便利だと思う反面、コンテンツが多すぎることは難点だとも思う。眺めているうちに自分が見たいものが分からなくなってしまうから。最近はランダムで再生なんて新しい試みもあるようだけど、利用したら負けたような気がした。
そうやってごちゃごちゃの考えがまとまらなくなってくると、もうだめになってしまう。そこまでくると人間不思議なもので、過去にも見たことがあり展開を知っているものに心を寄せてしまう。
結局、今日は以前にも見たことがあるものに決めた。このままぐだぐだと悩んでせっかくの時間を潰してしまうほうがもったない気がしたから。それに好きな映画は何回観ても、飽きるということはないはずだった。
ぐだぐだと思い悩んでいる間に取り出しておいたバニラアイスがすっかり溶け始めてしまう。移し替えていた皿の底に溜まり始めた、アイスだった液体と注がれたウイスキーがすっかり混ざり合って、官能的なマーブル模様を描いていた。
「……まだ寝やんの」
「うわっ」
聞こえるはずないと思っていた、寝室にいるはずの狂児に後ろから声をかけられて思い切り肩が跳ねる。振り返ると、いつのまにか背後に眠たげに目をこする狂児が立っていた。
「ごめん、起こしてもうた?」
「や、ちゃうよ」
いつもの隙のない、かっちりととした雰囲気は今は見る影もなく、言葉も舌足らずに紡がれる。単語と単語を並べるだけのシンプルな構成は、それは偏に眠気からくるもので、こういう時にしか見れないレアな姿だった。
眠りについていたのだから、眼鏡もコンタクトも当たり前につけていない。電気が落ちて真っ暗な室内をゆっくりと、足元に気をつけて、狂児は僕が腰掛けるソファー前面に回り込んでくる。
少し、意外だった。てっきりまた踵を返して寝室に戻ると思っていたのに。予想に反してするすると足を運び、そのまま隣に腰かけてくる。
おや、と躍る心をぐっと静かに抑えて、背中を包んでいた毛布を半分、狂児にもそっと開く。それを受け取ると、狂児はばさりと羽織なおして僕ごと包んでしまった。
「これ、みたことある」
通常の一人用サイズの毛布に僕と狂児、二人で包まり、ソファーの上で身を寄せ合う。狂児の長い足は窮屈そうに折り畳まれて、かわいそうに、完全に持て余していた。大きな身体がこちらに合わせて、小さく丸く、縮こまっている姿は面白くて可愛いものだった。
テレビ画面に注がれる目は細められていて、彫りの深いところに刻まれる皺はやはりよく見えていないのだろうということをこちらに知らせる。それでも狂児は今流れている映画がなんなのか分かったようだった。
「覚えてます?」
「なんとなく」
「別のがいい?」
「なんで、聡実くんみたいんやろ」
「まあ……うん」
前にも一度、一緒にこの映画を観たことがあった。当時も感想を聞いたけどその際は、明日になったら忘れてそう、と言っていたはずだった。けれど事実はそう言っていたのに、覚えていたようでなんだか嬉しくなる。
狂児がそう言っていたのを覚えていたので、一緒に観るのなら狂児も楽しめる別の映画がいいだろうかと思い聞いてみたけれど、返答は違った。実を言うと半分くらいの可能性で、そう言うだろうと分かっていた。
狂児の好き嫌いはしっかりとしていて、オブラートも遠慮もない言葉たちは強いあまりにいらぬ諍いを招くことも多々あった。しかしそれは忖度をしないということではない。傍若無人な振る舞いをするということでもなく、いつだってこちらを尊重することを忘れないでいてくれる。
「……ふ」
「なに、観いひんなら変えよか」
「観ますよ」
そういう狂児の優しさを手に入れるたびにくすぐったくなり、思わず顔が緩みそうになる。狂児はそんな僕を不思議そうにぽかんと見つめていて、開かれた瞳で懸命にこちらを読み取ろうとする様子がまたいじらしい。
顔ばかり見ていると映画を変えられてしまいそうになるので、後ろ髪引かれる思いも抱えつつ、改めて映画に集中する。
僕は好きだったけれど、狂児はあまり印象に残らなかったらしいミュージカル映画。急に歌い出したり踊り出したり、見ているとついていけなくて置いてけぼりにされてしまうから好きじゃないらしい。僕は狂児がよく見るような状況がころころと変わっていくサスペンスだったりのほうがついていけなくなることが多かった。以前素直にその感想を伝えたところ、いやに微笑まれたのを覚えている。
見えていた展開だったけれど、どうしたって覚えている部分も多くて映画の内容にうまく集中できずに、そっちのけで色々と考え込んでしまう。楽しみにしていたはずアイスのことも、思わぬ乱入者に気を取られてしまいもうすっかり元の形が分からなくなっていた。かろうじて残っているかたまり部分を目指して、液体と化してしまったアイスを掬いながらとりあえず流れる映像を見つめるけれど相変わらず内容はちっとも頭に入ってこない。
何を思いついても結局は、思考は隣にいる狂児のことに収束していく。先ほどまで根城にしていた布団の温もりがまだ残る、狂児にしては普段よりも高めの体温が触れ合っているところから移ってきて、二つの身体が一つのかたまりになってしまったみたいだった。
「なあ、観てる?」
「え、」
ばれた。ドキリと跳ねた心臓もきっとすぐに気づかれる。体温が伝わってしまうのと一緒に、きっとこちらの心も狂児に流れ込んでしまった。声をかけてきたのは狂児のほうなのに、目が合うとそれきりで口を開かない。何も言わなくてもこちらの心が狂児にも伝わってしまったように、あちらの心も僕に伝わってくるから、視線だけで言葉を交わし合うよりも雄弁な時間だった。
少しかさついた狂児の手のひらが、まっすぐこちらの頬に伸びてきて、形を確かめるように指を添える。きっと今だけ、僕よりも高い体温が心地よくて、素直に甘えてみたくて頬擦りをしてみる。それから当たり前のように、夢を見たくて目を閉じると背中を包んでいた毛布がばさりと落ちていく音が聞こえた。毛布の重さだけ軽くなった肩口に開放感はあっても、まどろみの中で揺られている時のように一番大事な部分はしっかりと繋ぎ止められたまま、身体の奥から沸き起こる安堵に身を任せていられる。
息を吸って、吐いて。寝息を装って何度か呼吸を繰り返していると不意に呼吸のタイミングが重なる気配がした。目を閉じていても分かる。目と鼻の先で揺れる空気が運んできた狂児の匂いで胸の内が満たされる。もう一度、静かに息を吸い込んで、吐いて。また同じタイミングで重なる呼吸を数えていると、小さなキスが落ちてくる。瞼、頬、鼻筋と、スタンプのように押される狂児の唇が、やっと上唇をとらえてじゃれつくみたいに甘噛みする。
かぷり、と柔く食まれた瞬間、あ、とウイスキーのことを思い出した。
「酒飲んだ?」
「……せやった」
「ンモ〜」
「アイスにかけただけです」
「なんやそのおしゃれな食い方」
下戸の狂児はすぐに勘づいたらしい。事の真偽を確かめるようにもう一度、今度はこちらからそろりと唇を重ね合わせる。狂児にもバニラアイスの名残を押し付けるようにして、離れる瞬間の名残ごと、ぺろりと舌で唇を舐めとってみた。
「……夜更かしして悪いことしよる」
「大人の嗜みってやつですよ」
テレビで流れ続ける映画はもはや、今日の夜の楽しみには必要とされなくなってしまった。ソファの上、背もたれのないほうへとするりと肩を押されて一瞬でも離れてしまう距離が心許なくて、狂児を巻き込んでしまうため首に腕を回す。一人ではじめた企み事もとうにばれてしまった今、その秘密がこれ以上公になってしまわないように、ソファーを陰にして見つからように二人で身を寄せ合った。