Perplex Paraiba Tourmalineパライバトルマリンの困惑
通信部に最近入ったばかりの若者は壁にピンボールの様に何度か衝突しながらも、若さから来る体力と根性が備わっていた。
天候は時化。横殴りに吹き付ける暴雨にどうにか抗おうと甲板に括り付ける荷やら、マスト登りの達人達が指示役の号令に合わせ一斉に引かれるロープ。揺れに揺れる船の通路は、クルー達が駆り出されているせいで走りやすくはあったが、それが逆に肌を粟立たせる様な、静かな不気味さを併せ持っている。
「船長!!電伝虫からの連絡が…!!」
半ば体当たりに近い形で開いた扉の向こう、船長室に転がり込んだ若者は部屋の主の圧倒的な品位に顔を挙げた瞬間に蹲って頭を垂れるのだ。そのズボンの丈が膝下から足りていなかろうと全くの問題はない。自分が憧れ仰ぐ船長の、僅かな憩いの時間を潰してしまったのだ。申し訳なさで自然と身体が赤い絨毯の上で丸まり床を這う。
「控えよ!!卿のティータイムであるぞ!」
「も、ももも、もう、申し訳ありません…!!」
いくら室内が揺れに揺れようと、船長を中心として家具の一切が揺れ動くことはない。直立にして不動の老爺だけは、否、叱責を飛ばすが船長と呼びかけられた男を中心とする物体はその場だけまるで凪いだ水面を行く時のように振れることなく存在している。ブーツの底板を鳴らし、歩み寄る姿に数秒遅れてから見上げれば漂う優雅な香りに包まれるようだった。
「よい、まずは落ち着くんだ、……アールグレイは好きか?ベルガモットの仄かな苦味の中に柔らかく薫る甘さは…神経の緊張状態を緩和する」
「は、はい……、あの、も、モビーディック号からの通信で、早くお伝えしなくてはと思い…!!」
「なんと、親父殿か?」
「いえ、お名前はビスタ様と…!」
「ビスタか!おぉ、我が不肖の愛弟子の名前!よし、すぐに繋いでくれ」
「はい!」
大海賊時代、聞こえは勇ましく夢に満ちた言葉ではあるが四つの海は今、要所要所での動乱から荒れ狂おうとする海に変わっていた。飲み込まれようとする島々をどうにか守ろうとするのは海軍だけでは決して足りようものがない。
この海賊団の船長、通称"雷卿マクガイ"も、ともすればその嵐に放り出されそうな一般市民達を、縄張りを広げるという名目を持って庇護して回る最中である。
「(あぁ、流石は船長…!!ご自身は、ここ数日少しも休まれていないというのに……)」
その激務の中の、たった数分しかない彼にとっての憩いの時間を邪魔するのは申し訳なさで胃が痛む思いではある。思いではあるが、冷める前に代わりにと手渡されたカップからちびちびと紅茶を口に運ぶ新入りであった。
「おぉ、ビスタ!久しいな、剣の修行は怠っていないか…あぁ、こちらの心配はいらん。親父殿の旗を預かっているのだ、この上なく光栄!して、用向きは…?」
「は〜〜、…格好いいです、ロード…♡」
ぽぽぽっとカップから離した桃色の唇から、湯気の代わりにハートの形の吐息が同じ桃色に溢れる。
鼻先に雀斑が散る、化粧っけのない顔にはまだ幼さが残る。歳は十六になっていたが、実年齢よりは幼く見られる様な顔立ちをしていた。
「リラックスしすぎじゃろうが、ビアンカ!」
「はばば!!す、すみません、申し訳ありません〜!!つ、ついつい船長の横顔が大変凛々しくて言葉に出てしまいました〜!!」
「うむ、それならば仕方ない…仕方がないが!!」
新入りの若者は、キャッと二つに束ねて胸の上で揺れる髪をまるでロープか何かの様に握りしめながら、側近である男へと頭を深々と下げる。白ひげを慕う海賊達がいるならば、この船の全員が船長であるマクガイの勇姿に惚れ込んでいるのだ。
───ビアンカ、通信部隊に配属されたばかりの新入り。少女の頃にこのマクガイに命を救われたことがある。少しの年月を経て、奇異な運命からまたマクガイと再会を果たし船に乗ることになった彼女が感謝と憧れの視線を向けるのに、そのズボンの丈が多少長かろうと短かろうと───何の問題にもならない。
「ふむ…、以前言っていた、例の少年のことか…」
「(少年?なんなのかしら、あぁ電伝虫に掛ける指先がとっても優雅!!)」
「いや、今は青年か。それなら覚えているとも、あのエクレアは実に美味だった。よかろう!海域が落ち着き次第、親父殿への報告を兼ねてモビーディックに向かう。あぁ、そう伝えておいてくれ」
「(はばばば〜〜、お髭の先まで凛々しいわ〜!モビーディック…、)モビーディック、ですかぁ…!?」
電伝虫との通信が丁度切られたタイミングで、思わず素っ頓狂な声が上がればマクガイの視線が落ちてくる。迂闊な発言だったと、取り落とし掛けたカップを何とか落下を防いでは、また平伏しながらも黒々とした瞳はきらきらと光を映して輝く。
「これ、ビアンカ!!卿の会話を盗み聞くとは何事じゃ!!」
「ひゃっ!!す、すすすずみまぜん!!も、モビーディックしか聞いてません、聞いてません〜!!確か、"親父様"のお船だと聞いてましたので、船長が向かわれるだなんて、た、大変なことになったと驚いてしまいまして〜!!」
「それを聞いとると言うんじゃーー!!」
「わーん!ごめんなさい〜〜!!」
老爺から落ちる雷に、べそべそと頭を下げながらおさげの髪の毛を命綱の様に握り締める。幼児からの癖は、歳を重ねて治るものではない。
「よい、事実だ。吾輩が必要となれば…この力、親父殿の為にあるも同じ。一刻も早く、任された責務を全うするぞ!ビアンカ!着いて来い、電伝虫を忘れるでないぞ!」
「(は、はい〜〜〜♡)はぁん、四皇の親父様に召集されても動じない船長の器が広過ぎて、私の心がそのまま海原に出航できそう〜〜♡お嫁さんになりたい!」
「これビアンカ!!心の声と言葉が逆じゃ!逆!!ダダ漏れ!!」
「あわわわわ、ず、ずみまぜん〜!!」
この頃においては、白ひげ海賊団傘下の活動は昼夜を問わず活動的だったが、彼らが海軍と交戦したという記憶は勿論、出会したという記録が他の年代に比べて明らかに残されていない。削除されたのではない、その記録どころか事実さえもなかったことにしてあるのだ。実際、当時を振り返れば海軍、海賊両方の陣営にありながら同じ海域をギリギリの距離で"何も見なかった"ものとしてすれ違ったという個人的な記憶は残っている。
だが、現実はすぐに過去となり、歴史に変わり、記録に変わる。記録されなかった現実は、あくまで"なかった現実"として忘れ去られていく宿命だった。
✳︎
垂らした釣り糸が、ぴくりと揺れる。
金色の足輪が、分厚く灰色がかった雲の向こうに確かに存在する陽の光を受け、僅かに視界の端で光る。
音より早いのが光、とは言ったもので。
声掛けよりも羽ばたきの翼の音よりも早く、実際は視覚をも通り越して"脳内"に告げる訪れに、目元を囲う大きな弧月を指先で掻いてから精悍な顔付きの男はぐるぐる巻きのマフラーに埋めていた顔を上げるのだった。
「お!ありゃあ…おーい、見張り番!一番隊のマルコがご帰還だって、十時の方向、上方〜!」
「か、確認しました…十時の方向、上方…マルコ隊長を確認…続いて、一番隊も帰還接近の模様!!…また、すみませんサッチさん!」
「いーのいーの、お仕事頑張って…ちょっと……おおお!?でっけぇのが来てる、来てる、落ちる、誰か網持ってきてくれ〜!!」
船縁に胡座に腰を下ろす男は、長い髪をハーフアップに纏めていた。力の入った肩と、両手はここに来て逃してなるものかと釣竿越しに海面下の大魚と格闘中の様である。緊張感のいまいち欠ける声に、よし任せたと周囲の屈強な船員たちが手を貸せば揉みくちゃにされる。体格においても、少しばかり欠けるようだった。
仕方がない、彼は戦闘員ではない。
非番ゆえに常の真っ白な調理服に袖を通してこそいないが、このモビーディックの厨房内ではコックの一人である。───と言っても、四皇の海賊団の船とは言え高級料理店でも何でもない。部門に分かれて自覚と責任を促すのは大切だが、大魚を釣り上げでもすれば全員がガルド・マンジェ(冷製料理、魚や肉の下処理担当部門)に早変わりする。
「待って待って待っておれがあんたらの胸筋に潰されるからァ!!適切な距離取りつつ、釣竿を折らない努力も欲しい〜〜!!」
「─── 何やってるんだか…、お気楽だねい、お前らは…、」
「マルコ…!」
左右から挟まれる逞しい胸筋、わざとではないかと思うほどに厚い胸の間にぎゅうぎゅうと挟まれて、悲鳴を上げていた筈の若き料理人はふわりと抱き上げられていた。自分を軽々と片手で引き寄せる半獣半人の男が、呆れ顔で呟く左右にはこれまた先程まで暑苦しく密集していたら仲間たちが転がっている。
「横暴だぜ、マルコーー!!おれたちは、サッチを手伝おうとしてただけだろうがーー!!」
「そうだそうだ!うまい魚を食いたかっただけだっつーの!!暴力反対!!」
「うまい魚ってのは、こいつらか?」
「こいつ……ら?」
停空飛翔の為に二度、三度と大きく動かしていた翼の端にサッチをくっつけたまま、更に下方の鋭い鉤爪に引っかかっているのは目を回した巨大魚である。その尻尾に絡み付く蛸も同様に失神しているなら、さらにその八本の足に鋏を立てていたらしい海老も完璧に意識を飛ばしていた。
途端に、それまでやれ文句を口々に拳を掲げていた船員たちが、ころりと態度を変えるのだから単純も単純だ。
「いよっ!お疲れさん!!皆、マルコ様の帰還だぜ、ささ、風呂入って、早くオヤジのところに報告に行けよ、な?」
「サッチはマルコの為にうまい飯作らねェとだよなァ、おい誰か厨房までひとっ走りしてコック達を呼んでこいよ!」
「重たそうだな、おれが持とう!この海老…メスかな、メスの方が美味いんだってなぁ…」
「バーカ、てめえはオスだって美味い美味い言って食うだろ、おう、サッチ!釣竿は船大工連中に返しとくな…!!」
「おお〜〜[[rb:大海演習> 模擬海戦]]かオヤジの誕生日位にしか見られない連携の良さ…、おいあんたら!!すぐ厨房に行くから、とにかく蛸だけはすぐに下処理したら冷凍庫に!48時間は出さないでくれ!」
「なんでだい?」
「お、気になっちゃう?良い質問だ、蛸の柔らかさを引き出すには、ただ茹でたり叩いたりすれば良いって話じゃねぇのよ、蛸の繊維はめちゃくちゃ繊細だから、こう、層が厚いんだ。更にそれを包むのがコラーゲンのめちゃくちゃ強固な…、聞いてないだろ、マルコ!」
「ははっ!!」
ぷらーん、と今度は自分が鉤爪に吊るされる形になりながら、蛸の冷凍保存についてのメリットを語ろうとすれば途中からどんどん上空へと持ち上げられていく。
能力者ではないサッチにとって、偉大なる航路とはいえ普段の海は構えなしに落ちた所でそこまでの脅威ではない。だが、不死鳥の翼で持ち上げられて水面に叩き落とされるのはそれなりの脅威だ。
「ったく…おかえり、マルコ"隊長"早かったじゃん」
「あぁ、ただいま…、よせよい。その呼び方」
「事実だろ?隊長任命されてからの初仕事、お疲れさん。今夜はマルコの好きなパイナップル尽くしにしようと思ってたんだけどな〜、吊るされてたら料理出来ねェな〜どうしよう」
「釣れないねェ…モビーを離れてこちとらニヶ月、おれがずっと考えてたのは、サッチ…おまえの…」
「え、やだ、おれの…?」
きゃっとわざとらしくしなを作るサッチに、マルコの白んだ視線が落とされる。
「おまえの…作る飯だったってのに」
「うぉい!飯だけかよ!ときめいて損したわ、嬉しいけど!!んで、おーろして〜、そろそろ風がつめたぁい、か弱い非戦闘員は風邪引いちゃう〜〜」
「確かに、そろそろ雪でも降りそうだねい…」
マルコの飛翔能力があれば、サッチも同じ視界まで上がることが出来る。背中に乗せてくれというのは、マルコが完璧に獣型になったとしても翼と筋肉、骨格の関係から非常に飛び立ちにくく、かつ羽自体が動かし辛くて堪らないと───、サッチが強請った際に実に理知的に懇々と説明されたものであった。
サッチは実際に頭の中に浮かんだ、鳥肉の解体の為の手順を速攻で打ち消し考えるのをやめることで素直に頷いたので強請ったと言ってもたったの一度で終わっている。
「マールコ、こんな時期とはいえおまえが隊長での初任務ってのには変わらないだろ、本当に宴になるよ。構わねェんだろ?」
落とされる気配がない代わりに、降ろされる気配もないので肩を預けつつサッチは上空からの母船を見下ろす。愛する我らがモビーディック号。
逸れた鯨達が引き寄せられる、最後の憩いの場だ。
「後で聞くと思うけど、……次多分、行くの魚人島だわ。前に行った時は楽しかったよな〜、今は…荒れてんだろうな、相当」
今更、サッチが呑気に上空に連れ攫われたとしても、特に騒ぎ立てる船員もいない。飽きたら降りてくるだろう、程度の大らかな認識であるし、最近やっと成人迎えたばかりの若者達は盃を交わし合っての義理の兄弟だ。戯れていたところで、真っ逆さまに落ちてでも来ない限り慌てる面々はいない。
「……そうだねい、……一つずつ、陣取りゲームじゃねェが、広げていかなきゃならねェ。途中でいくつかの島が泣きついてきたよい、その旗を掲げてくれ。白ひげの領海にしてくれ…ってな」
「やってくれたよな、ロジャー。解散になって、引退して引っ込んじまうヤツもいれば、居所が知らなくなったヤツもいる…あ、そうだ、シャンクスは元気だって風の噂に聞いたぜ」
「……どうだっていいよい、船を降りたら自由は自由だが…ロジャーのやつ、争いの火種を残して死んじまったことには変わらねェだろ」
「んー……、……まぁ、結果としちゃそうなんのかな…」
サッチの穏やかな声色に、滲む静かな声色はあまりよろしくない天候によく溶け込んでいた。
「あぁ、別に聖人を気取るつもりはねェがな…自分でやらかした始末ってのは、きっちり付けろってんだ。海賊の世界にも仁義ってもんがあらァな」
「それだけ、おまえが今回見てきた辺りが荒れてたってのが伝わってくるよ。本当におつかれ、マルコ」
苛立ちを隠そうともしないマルコの眉間に、最近よく寄せられる様になっていた皺がゆっくりと解れていく。領海自体が増えるのは、悪いことではない。家族が増えれば増えるほど、脅威もまた増えていく。見返りを求めないとしたところで、民衆の心理としては何もせずに庇護されるよりも多少何かしらの見返りを献上する形で、護られたい。そういった嘆願の方が圧倒的に多かった。
海賊は聖人ではない。
だが、燃やされた家に泣き叫ぶ民衆を見れば痛む心は持ち合わせている。海賊達が海の果てに秘宝を求める限り、起きる災いが一般人を苦しめているのは分かっている。
海軍が正義か、海賊は悪か。
人が見るから夢なのか、夢があるから人なのか。
「……あぁ、…ちょいと疲れてんのかもしれねェ」
弱音を吐かないマルコの、素直な本音だった。
それを、サッチは兄弟として好ましく思う。
「早くオヤジに挨拶してこいよ、待ちくたびれてる。宴の後に…おまえが解放されてたらの話だけど、今日はのんびりおれの部屋で話そうぜ。…おまえに話しておくことがあるし」
サッチの掌が、そろそろと促して鳥脚に触れる。
飛んでいる時に、運ばれている時に不用意に触れないのは鉄則だったが、それとは別の意味でマルコの羽ばたきに僅かに乱れが生じたのを、サッチは知らない。
「話…?」
「悪い話じゃねェよ、ほら、蛸と海老とイシナギがおれを待ってるからそろそろ下ろしてェ〜、わっくわくすんな〜♡特にイシナギなんて、もう今が旬だし、まず刺身だろ?ムニエルに、鍋に、アラ煮も最高だろ…!!」
「………はぁぁ、全く…サッチは色気より食い気、いや"作り気"だねい…」
ため息を吐くマルコに対して、サッチの料理について語る瞳はキラキラと光を反射する水面より煌めく。そこから更に、瞳の中にハートが浮かべば、マルコの唇は見事にへの字に曲がっていく。
「おまえ相手に色気なんて出してどうすんのよ〜、出すなら魚人島の可愛い人魚達に出すっての。すべすべのお肌、ぽよんぽよんで、むちむちで〜〜♡可愛くって、そんでもって海賊を怖がらないってのも最高だよな〜〜♡」
「……………」
「待って待って何で上昇すんの、おれもうそろそろ本気で風邪引くんだけどマルコさ〜〜ん!?」
「………なぁ、嘘みたいだろ。マルコの気持ちに気付いてないんだぜ、あれで」
空中でぎゃいぎゃいと何の話をしているのやら、甲板の上の男達の言葉は尤もである。
数名、頷く隊員達の姿もあれば、いたわしいと同情に似た眼差しを送る者もいる。母船に合流した一番隊の隊員達はそれでも決して動じることなく、帰還の報告、点検作業、その他諸々の処理に勤しむのだからマルコからの指導が行き届いている証拠でもあった。
「あれで、見聞色の覇気についてはおれ達より優れてるって意味分からねェよな」
「まぁまぁクリエル、偉大なる航路は〜あれだ、何が起きてもおかしくねぇから〜な?」
「わふ!!わふ!!」
「お〜お〜ステファンもそう思うか、よーし尻尾こっちに寄越しな。綺麗にしてやるから」
白ひげ海賊団に最近加わった新入りといえば、この愛くるしい白い仔犬である。とある春島に寄港した際に、我が物面で乗り込んできては、島に戻されと中々一悶着あったのだ。海の上で、愛玩用の動物は飼えない。世話が見切れない、と何度となく追い払っては戻ってくるその犬に、致し方なしと最終的に乗船許可を与えたのは船長本人である。
船員達も本気で追い払えなかったのが敗因の一つだろう。なにせ、その仔犬の鼻の下。白い毛並みに白く大きな三日月型の髭のような毛並みが備わっているのだ。誰を彷彿とさせてしまうか、船長が呆れるほどなのだから仕方がない。
「でもよブラメンコ、起きるどころか、起きてすらねェんだよな。兄弟に対する信頼が厚すぎるとか、マルコそろそろ強行突破するんじゃねぇか?」
「強行突破」
「だってよ、サッチは…ほら、"もう"だろ?」
クリエルは愛用の銃器の外側の油を、柔らかな布で拭き上げるという最後の仕上げを念入りに行ってから多少───歯の間にでも何か詰まらせたような物言いで顔を上げる。
「あぁ、確かに…マルコまだ知らねェんだろ?ビスタが言うなって言ってたが…」
「そりゃあ、サッチから言わせるのが筋ってもんだろ」
「だな、筋だなぁ…とおさねぇとな〜〜」
「おれたち、通すもんは通さねェとな…」
そろそろ上着が必要になる海域だ。そこを抜ければ、一気に気候は温かく真夏日の様に日が照らすことだろう。船は、魚人島を目指して海底を目指す進路を辿る。
「間に合った…って言えば、そうだよな?」
尋ねられたところで、白い仔犬は首を傾げるばかりである。日暮れが海の彼方より迫っていた。
✳︎
「はぁ〜〜疲れたよい、アイツら人のこと飲め飲め馬鹿みてェに揉みくちゃにしやがって…」
ベッドへと寝っ転がるマルコを追って、サッチも部屋へと戻る頃には、既に宴も主役が飛び去っても気付かない程度に酔い潰れ共の集まりへと化していた。白ひげからマルコへ直々の労いの後に始まったどんちゃん騒ぎで常なら南国の果実を思わせる独特の髪型も、心なしか萎れて見えなくもない。
肥料を与え過ぎて枯れる植物の様だと───、一瞬思ってしまった言葉は勿論おくびにも出さずに右手には懲りずに酒瓶を、左手には厨房に寄って仕上げてきた皿がいくつか湯気を上げて乗せられている。コックと言えど、ウェイターは不在だ。余談ではあるが、作り上げた料理を一番美味い状態で提供したいという執念は、モビーのコック達に片手に皿を六枚までなら急な横波にもソースを溢すことなく運ぶ技能を完璧に身に付けさせている。
「ははっ!それだけ無事が嬉しいんだろ、あ、ここで寝るなよ?寝るなら自分の部屋で寝て、運ぶの大変だから」
「……それで、盃の兄弟のおまえがそんなに冷たいってのはどういうことだよ、え?サッチよ」
非番と言えど、宴ともなれば返上どころか厨房に押し掛けるのがコック達だ。あのままでは、甲板で酔い潰れて雑魚寝の羽目になっていたと、笑いながら新しい酒瓶の栓を開けるサッチの背中をマルコのグラディエーターの爪先が嘴の様に行儀悪く突っつく。
「足癖悪過ぎるんですけど〜、こんなにも溢れてるじゃん愛情に。そんな酔ってるなら入らない?これ、パイナップルのベーコン巻きも」
「……何でそんな美味そうなもん、もっと早く出さねェんだよ」
「おまえの為の宴って言ったって、皆がフォーク持って集まってくるだろ?とっておきは、取っておくからとっておきなの。ほら、ベッドで寝ながら食わない、ガキじゃねェんだから」
武装色の覇気を纏えば、蹴り飛ばした敵の首が一回転する脚力を誇る脚を、よいせと大根か何かのように横にどかして自分が座るスペースを作る。シャララ、シャリンッ、と鳴った脚飾りは暫く不服であるとベッドの上で跳ねるが、ここまで子供のような素振りは心を許している相手だからこそだ。
「言うようになったじゃねェか、昔はおれが着いててやんなきゃ夜中小便にも行けなかったくせに…」
「何年前の話してんだよ、ほらほらサッチ特製イシナギのフリット、オレンジソース掛けだぜ」
サッチもそれをよく分かっているから、時折手元を妨害する爪先を適当にあしらいながら、今日釣り上げた大魚を早速捌いて仕上げたフリットを口元にちらつかせる。随分な大魚とあって、刺身に、煮付け、ガーリックの効いたソテーに鍋、カマ焼き、あら煮と毒のある肝臓以外全て食べ尽くしたようなものだった。
「………んあ」
「おまえさぁ〜、シーツに零したらマジで怒るからな、おれ」
「んまい」
「当然」
「これ、オヤジの分もちゃんとあるんだろうな…、」
「あるよ、だから安心して食いな」
サッチの掌が、横着して横になったまま肴を頬張るマルコの頬をそのまま撫でる。微かに聞こえる笑い声は、主役が居なくなったことを気付いているのか。口元にあてがい傾けられる酒の瓶、掴む指先は繊細な料理人のそれで。
部屋の灯りを受ける案外密度のある睫毛の影に、思わず指先を伸ばしていたのはマルコの方だった。
「何なのよ、マルコ。マジでおねむ?」
柔らかで、伸びやかな声色。
おおらかで、人との距離を詰めるのが得意な男。
努力家で、根性も体力もある。
それだけであればどこか一抹の胡散臭さも感じるだろうが、料理馬鹿と来て丁度よくバランスが取れているのだろう。
引き攣れた皮膚に残る、生々しい縫合痕。
ヴァレリーを恨んではいないが、サッチの傷跡に触れる度に自分の慢心さを恥じる気持ちが船医の思惑なら狙った通りだと噛み締めるしかない。
「……今夜の月みてェだな」
「おぉ…それ今度島の姉ちゃん達への口説き言葉に使って良い?」
「おまえは顔に傷のある女を口説く予定でもあんのかよ」
「美人のボインちゃんなら大歓迎よ」
マルコは身を起こして、結局は落とされないベッドに頬杖を着いたまま酒瓶を傾ける。
サッチが女ならば良かった、外堀を埋めた後にワインが時間を掛けて熟成するように腕の中に沈めていくことが出来ただろう。消えない傷跡に口付けて、冗談ではない言葉で責任を取ると口説き落とすことが出来たのかもしれない。
男だの女だの。
関係ないと言いながら差別こそないが区別する自分は居る。海の男は皆馬鹿だ、女の為に死ぬなら犬死は絶対にない。女を守る自分でありたい。それをヒロイズムだの平等だのの秤を持ってくると意味が分からなくなってしまう。
女に振られるのは名誉なことで、男に振られるのは立ち直れないことだと、マルコ自身サッチが男でも女でもどちらでも良いとしておきながら数年間の接し方で明白にしてしまった気はある。おかげで、臆病者と呼ばれても仕方がない腰抜けだ。
「嘘吐け、おまえの好みの女は知ってる。いつも同じような感じの女と遊んでるじゃねェか」
「そんなことないって〜」
「髪は長い方が良くて、目の色も髪の色も薄い方が好きだろ、勝気よりふわふわした性格の…女っつうより、オンナノコって感じのやつが好きだろ。素人女みてェなの」
勝気で、強くて、優しい。
"いつぞやの夜"に聞き出した、好みの女が随分と方向性を変えてしまったものだ。
作ったツマミに、自賛のコメントを大袈裟に口にしてから、サッチは華やかなピンで纏めたパイナップルの甘い果実を塩気とスパイスの効いた焼き目の香ばしいベーコンと一緒に纏めてマルコの口元に押し付ける。まるで、そこからの言葉を拒むように。
「…事実だろい」
むっとして、一度唇を拒むも、ぐいぐいと押し付けられる煩わしさに猛禽が餌を食い千切る様に大きく齧り付いて抜き取ってやった。
「そういうマルコは娼館行く時、誘ってくれないよな〜」
「おれはおまえと違ってデリケートなんだよい、…隣の部屋で、おまえがあれこれやってると思うと気が散るし、正直気分が悪い」
気分が悪いどころではない、最悪だ。
船に乗っていれば溜まるものも溜まって吐き出す場所は必要になる。それが商売として成り立っている以上、文句はない。マルコも大抵は処理の為に女を抱く。対価は払うし、互いに利益しかない。そこまで縛ろうとは思っていないが、隣の部屋でおっ始められようものなら流石に情緒どころではない。
マルコの覇気の見聞色は武装色よりは優れていないが、自分が何をやらかすか想像は出来ると口元を抑えていた。
「酷くね!?っつか、想像しないでよマルコのエッチ〜!!」
「……想像だけで吐きそうになるっての、……桶あるか?」
「あるけど、人のベッドで本気でゲロ吐くなよ〜!?」
何に吐きそうになったか伝えれば、サッチはどんな顔をするだろうか。自分を兄弟と慕う男の痴態に?そんなものには自分の執念は、それこそ煮詰めに煮詰められて最早、恋と呼ぶには───、
「なぁ、マジで大丈夫…?」
「流石に吐かねえ、それよりサッチ、おれに話って?」
「だっておまえ酔ってんだもんなァ、朝起きたら忘れてそ…」
「いいから聞かせろって、ほら、おれが起きてるうち…に、」
身体を起こして、隣に座り込んで違和感に気付く。
壁にあれ程貼られていた、"初恋の女"の切り抜きはどこだ───?
本棚に溢れていた調理本もレシピ集も、オールブルーに関する文献も、個人的に買い集めたという使い方が皆目健闘も付かない器具、投げ捨てては期限ギリギリに滑り込ませて当番を怒らせる洗濯物の籠はある。籠はあるが、山積みが常のそこは空だ。
これだけは一目惚れをしたと、どこかの夏島で揃えた色鮮やかな食器一式はどこに?
「お前の部屋、こんなに…こざっぱりしてたか…?」
心臓が早鐘を打ち始める。
その、背に隠す大きなトランクは、なんだ?
嫌な、予感がする。
何かが頭の中で次々に繋がって、弾けていく。
視線が巡る、物にそこまでの頓着がないのは自分も同じだったが、サッチがレシピ集まで仕舞い込むことは、まずあり得ない。
「んー……、そのことについてなんだけどさ、おれ…、」
瞬きを忘れたマルコに、サッチは長く垂れた前髪を掻き上げる。マルコが髪を雑に掻き上げるのは、照れた時の癖だとサッチは笑ったが、マルコは知っている。
サッチが右手で髪を掻き上げるのは───、
「ちょっとさ、降りるんだ。モビーを…」
嫌な予感は、何故こうも当たるのか。
マルコの手元から酒瓶が、溢れる中身を一拍遅れて吐き出しながら落ちて行った。
TO BE CONTINUED_