そして旅立ちの朝 静かな静かな時間だった。雪の降る音すら聞こえてきそうな。けれどベッドに横たわる壮年の女性は寒さも苦痛も感じない。そう、苦痛も感じない。まもなく生を終えようとしていることは自覚できる。占いを生業にできるほどに鋭敏な己の感覚ゆえに。彼女が感じているのは己の生命力の減衰だけではなく、まもなく訪れるであろう”迎え”。
「起きていたのか。いや、起き上がらなくていいから」
彼女の連れ合いである青年にしか見えない壮年の大魔道士が部屋に入ってくる。彼が彼女に施す術のおかげで彼女は苦痛を感じずにすんでいる。少しずつ眠る時間が長くなっていくのは感じてはいるのだけれど。
彼女は連れあいの制止を聞かずに上半身を起こす。彼は苦笑を浮かべながら少し助けてやる。きみはやはりなんだかんだで頑固だ、と零しながら。
「もうすぐですわ」
彼は少し顔をしかめる。
「私はもうすぐこの生を終えます。だから、あなたに少しでも」
彼女は彼の手をとる。彼は空いている手で、彼女の頬をそっと触れる。
「無理をしないでくれ。きっとよくなるから」
彼女は軽く瞬き、肯定も否定もしなかった。きっと自分も若くして亡くなったパプニカの女王と同じだから。女王の隣に在った強い魂と力。その魂と力に少しずつ灼かれ、そして。
「私はずっと幸せでした」
壮年の大魔道士は首をゆるく振る。彼も気づいているのだ。己の存在が彼女を灼いていることに。離れてしまえばよかったのかもしれない。けれど彼女が望むから傍にいることにした。彼女の望みを叶えてあげたかった。いつでも自分を快く送り出してくれた彼女の望みを。強く在ろうとする時も、弱い本音が出てしまう時も、ずっと彼女はただ傍にいてくれたから。
だから後悔も自責もない。それらを覚えれば彼女の望みを否定することになる。
ただ、哀しい。
大きな羽ばたきが聞こえたような気がした。竜がまもなく訪れる。己と同じ強さの魂を持つ存在を迎えにやってくる。彼が独りになるのを竜は遠くでただ待っていた。竜が独りになってからずっと。いや、違う場所で歩むことを選んでから?
「もう少し、もう少しだけ」
彼は祈るように繰り返す。心の底から彼女の生を祈ってくれている。けれど彼女には見えている。心の底にある彼の魂が。
彼はきっとまた駆け出すだろう。休息を終えた勇気に満ちた彼の魂が、純粋で無垢な魂に呼応して強く輝いている。きっと彼は永い時をあの竜と駆けることになる。それは彼が昔とりこんだ竜の血のせいか、彼の強くなってしまった魂の力のせいかはわからないけども。
いずれにせよ彼女には喜ばしい。彼女はまた、彼を送り出すことができるのだ。
「えぇ、もう少しですわ」
彼女が嬉しそうに零すと、彼は彼女を抱きしめた。彼の強い魂の輝きが彼女の命を包みこむ。そして彼女の魂がまたほんの少し灼かれていく。
彼は静かに涙を流しつづける。竜のいななきが空に長く響いていた。