「常闇くん」
夕陽に照らされた鉄塔の上、師匠に報告を入れて仕事から上がろうとしたときのことだ。呼びかけと同時に何かが放られた。前触れのない飛来物を、新米ヒーローは黒影に頼らずパシリと捕まえる。ナイスキャッチ、とホークスは満足げだ。
握った手の内には硬い感触。指を開けば、スポーツモデルの腕時計が鎮座していた。
「あげる」
「……は?」
「俺のお古で悪いけどね。精確さと頑丈さは保証する。ヒーロー稼業にも耐えるから、ガンガン使い潰してやって」
目を白黒させる常闇の頭に、今朝方メッセージアプリの「A組」のグループに押し寄せてきた祝いの言葉がやっとで浮上した。
改めて掌に視線を落とす。銀の時字がオニキスに似た文字盤に乗っている。質感も色合いも、丁度ホークスの耳元を飾る石そっくりだ。ところどころに抜けを設け、精緻な内部機構を覗かせる黒。矯めつ眇めつすると、そこには翼の図案が浮き上がる。時針と分針も黒で統一されているのだが、針に施されたマットな赤の縁取りに遊び心があった。
そんじょそこらに転がっている品ではない、ということくらいは常闇にも分かる。
「不満などあるわけがないが、これは……」
「もう君のなんだから、好きにしてくれていいよ。まぁでも、……そうだな。こういう仕事だから、なくしたって、真っ二つにしたって全然構わない。ただ、仕舞いこまずに使ってくれたら嬉しいな」
一方的に告げて翼を広げようとしたホークスは、あ、と呟いて動きを止めた。
「いや真っ二つはやめとこう。それ、めちゃくちゃ頑丈なんだ。そいつが真っ二つになる状況、絶対、君が無事じゃない」
「……承知した」
勝手に話をすすめる様子は、常闇が大いに尊敬し、かつ大いに困らされている師匠の、この上なく「らしい」姿で、それが嬉しい常闇は笑い含みに頷いた。
「大切に、使い潰させて頂く。ありがとうホークス」
常闇の返事に口の端を上げた彼は、今度こそタンッと鉄塔を蹴って空に舞った。
「じゃ、明日もよろしくね。……誕生日、おめでと」
常闇が祝福に礼を述べるより速く、赤い翼はもう豆粒大だ。肝心の要件が最後の最後まで口にされなかったのは、彼らしくないのか、それとも逆なのか。
「相変わらず、青嵐が人型になったような御方だな」
ぼやく常闇から、黒影がにゅっと顔を出す。もう夜の声の聞こえる刻限だというのに、闇に君臨する影の口調は幼気だった。
「カッコイイ時計ダネェ、フミカゲ」
「……うん」
歯車の美は、闇の美学とはちょっと違うものなのだが、ご近所には違いない。尖ったデザインは彼の心を思い切りくすぐったし、それが「本物」の質感を備えている様は、分不相応と思えるくらい素晴らしい。だが、それより何より。
堪えきれない笑みを零して、常闇は、ホークスが刻んできた時間を手首にきっちりと巻きつけた。
◇
そんな時計の検分を最初にせがんだ人間は、意外というか緑谷だった。前倒し忘年会と称して十一月に開催された、同窓会もどきの席のことだ。
曰く、デザインにどことなく見覚えがあるのだという。かっこいい時計だね、で終われない彼のオタク気質は、当人が世界有数のヒーローになっても変わっていない。
ウィングヒーロー手ずからの贈り物に目を輝かせ、隣の轟と常闇に発見を一々嬉しそうに伝えていた彼は、やがて、何かに気づいたように押し黙った。時計を凝視する大きな瞳が「もしやそれはなにかの訓練なのか」と尋ねたくなるくらい忙しなく瞬いている。
「緑谷。……その、大変な面相だが、どうかしたか?」
「ボクハモトモトコウイウカオデスヨ?」
「そんな面白い人間がいてたまるか……」
額を押さえた常闇は、なにか知らんが聞かないから安心してくれ、と続けた。
「あー……っと」
「説明なく私物をくれるというんだ。何か曰くがあるだろうとは思っていた。そう身構えずとも、ホークスが話す必要がないと判断したことを、掘り返そうとは思わない」
緑谷は店の天井の隅と長らく見つめ合ってから、ありがとう、と常闇に手を合わせる。彼は、軽く手を振ってそれを制した。
「構わん。……あのひとが妙なところで発揮する稚気には、慣れているさ」
常闇としては、全く困ったものだ、という顔をしたつもりだったのだが、どうにも周囲の視線の温度がおかしい。彼は、はて、と首をひねった。
◇
「ありゃなんだったんだ?」
駅に向かって歩きながら、半冷半熱のヒーローは隣を歩く親友に声をかける。
「……凝ったディテールが目を引くし、印象はかなり違うけど、たぶんあれVINTAGE Wから出たホークスモデル。当時から噂はあったんだよ。世界に一本だけ、ホークス用のナンバリングゼロのモデルがあったって。本人がなんにも言わないからそれっきりだったんだけどね」
「ゼロ……ああ、じゃあ裏面のNはひょっとして、nullaとか、nihilとか?」
「これ見よがしにナンバー入れるの、ホークス、趣味じゃなさそうなもんねぇ……」
緑谷は、たぶんね、と苦笑まじりに頷いた。
「……それ、高価なもんなのか」
「一番安いのでも十万超えてたと思うけど、常闇くんのはそもそも、値がつけられないんじゃないかな。……でもホークスはきっと、気負わず使ってほしいからなんにも言わなかったんだろうし……」
しょげる緑谷の肩を、轟は「お前、プライベートだと全部顔に出るからな」と笑って小突いた。
そんな話題の時計は、それから三年ばかり常闇の時間を精確に刻み続けた後、何の因果か文字通り真っ二つになる。
鎌鼬の個性から市民を庇って、咄嗟に手を差し入れた常闇の身代わりだ。材料技術の粋を集めた特注強化ガラスのおかげで、常闇本人の傷は皮一枚。時計の犠牲がなければ、今頃彼の手首から先は機械仕掛けだっただろう。
常闇としては感謝に堪えない話だったが、ホークスの方はというと「縁起でもないたとえ話なんてするもんじゃない」と珍しく頭を抱えて猛省していた。
殊勲を立てた時計は、手首から退いて、現在の居場所は飾り棚の一角。
彼ら二人が暮らすマンションの、一室である。