シキザキ着地した瞬間ビシャッと水の跳ねる音がして、「げっ」最悪だ、と心の中で毒づいた。いくら“本体“は無事だとしても、服の汚れと濡れた感触はここから抜け出すまでずっと着いてまわる。
「お館様、」までは駆け込めて、気をつけてくださいよは間に合わなかった。
「おお、はは」
上等な着物の裾をしっかり水跳ねで汚したお館様は、水たまりの中で子供みたいに踊ってる。ちょっとちょっと、やめてくださいよ、実害がないからって普段できないことに興じるのは。
データから取り出した和傘を慌てて開くと、「お館様、こちらへ」、強制的にジッとさせる。
「おお、すまない斬」、相傘だな、と無邪気に向けられる笑顔はスルーした。
「ホログラムなのに冷たさを感じるのは、何度やっても矛盾を感じるのう」
「自分からびちゃびちゃになっておいて?仕様に文句言うんですか?」
ていうか冷たかったんじゃないですか。タオル出します?
風邪を引くことはないものの、少し焦って身を案じる。
「いや、いい」。隣に並ぶ春夏秋冬の瞳は、傘の向こうの世界を見つめていた。
かつて、確かに存在していた世界。
しかし今はもう、記憶の中で懐かしむことしかできなくなってしまった世界。
いつからか、彼と自分とはそんな世界を旅している。
旅といっても、ご当地料理に建築物、伝統技術なんかを楽しむソレではない。
鎮魂の旅──妙なところでとぼける節のある春夏秋冬がわざわざ称しているわけではないけれど、斬はこっそりそう呼んでいた。
人類史から姿を消されてしまった“誰かの故郷“、自分にはなんのゆかりもない場所を辿るお館様の隣を「警護」と称して俺も一緒に歩く、それだけ。どれだけ安全が保障されていたとしても、千紫のKINGの単独行動は禁じられている。データで構築されたひとっこ一人いない土地をデータの姿でうろつく行為に、果たして警護が必要なのかはいまだに疑問だけれど。
表向きは『史料から復元した文化や建造物の実地調査』となっているため、どこまで行っても存在する生物は自分とお館様だけだ。空を飛ぶ鳥も、軒先で眠る猫も、駆けてゆく子どもの姿も見当たらない。もちろん、消滅の原因である外敵の影だって。
「今回もオレでいいんですか」と、斬はいつからか尋ねなくなった。万が一、億が一を考えた保険の意味で連れて行かれているわけではないと気がついたからだ。
「ああ、斬と知らない世界を歩くのが好きなんだ」と、春夏秋冬はいつもニコリと答えていた。建前であることくらい、見抜けないほど馬鹿じゃない。
終わってしまった世界の姿を、他の仲間に見せないためだ。
こんな風景は、オレとあんたの胸のうちにだけ秘めておけばいい。
「ここは、繁華街だったみたいですね」
雨でくすぶる視界の向こうへ目を凝らす。
文字は読めないが何かを宣伝しているらしい看板が直角に地面に突き刺さり、端麗な容姿の女性と目が合った。
ヒビの入ったケースの中では偽物の料理──後日運命さんに訊いたら、あれは食品サンプルというらしい──が雪崩を起こし、戻ったらお昼は何にしようかと意識が逸れる。
キチンと整備されていたはずの道路は瓦礫の山で埋まり、ところどころ最悪な通行止めになっている。
これが、この世界が止まった瞬間。
ごく稀にまだ平和だった頃の姿を引き当てることもあるけれど、基本的にはこのザマだ。復元もと史料がGardenの連中からの報告書を最重要視しているため、どうしても凄惨なものになってしまう。
当初は、いるはずのない生存者の声を無意識に探そうとしてしまったっけ。
「ふむ、今日の昼は蕎麦にするか」
「なんで心読んでるんですか」
軽口を叩きながらも、彼の目から笑みは消えている。そろそろ集中しますよ、の証だ。
肩を寄せ合う俺ですらやっと聞こえるか聞こえないかくらいの囁きで、ひっそりと、お館様の鎮魂の儀が始まった。
千紫の中でも自分は呪術にそれほどあかるくない。「ヒューってやって、ヒョイだし〜」といくら説明されたところでさほど理解が深まらなかったため、紫亜さんには匙を投げられた。
けれど、才能はなくても推測はできる。
ここになんの思念も残っていなくても、この行為に意味などなくても、お館様はこの世界で散った命のために祈っているのだと。
普段の任務中がお館様の盾であるなら、今の俺は彼の眼であり脚だ。
視えないものが視えているのか、我が主はこの呪言を唱えだすと、とたんに盲目のようになってしまう。
対話を試みているのかもしれない、というのは俺のまったくの妄想だ。悲しいかな、自分には霊感の類もセンスもなかった。
「たいした術ではないから話しかけてよい」と許可は得ているものの、小粋な会話を嗜みながら巡る景色でもない。
押し黙ったまま、あなたの脚が導く通り、右へ、左へ。
「……あ、」
小さな花屋だった。奇跡的に被害を免れた店舗は、色とりどりの花々が枯れることなく咲き誇っている。
一瞬目を奪われたのがいけなかった。数歩先に巨大な穴が広がっていることに直前で気づき、「っ!お館様、危ない!」「おおっ、」、白い体を思いきり抱き寄せる。データのお館様は冷たい。
「申し訳ありません、余所見をしていました」
黒く口を開けた穴の中へ、架空の雨が音もなく消えてゆく。
別に落ちたところでどうなるわけでもないのだろうが、嫌な汗が止まらない。
ドッドッと暴れる鼓動を跳ね飛ばすように、あっはっは、と腕の中の彼が脳天気に笑う。
「いやいや、完全に呼ばれていたな。斬がいて助かった」
「え?」
「やっぱり知らない世界を歩くなら、隣はお前しかいないなってことだよ」
なっ!と、首をかしげるように下から顔を覗き込まれる。
有無を言わせない、けれど陽の光のようなやわらかさをたたえたお館様の瞳に、続く謝罪は喉の奥で萎縮してしまった。この人の前だといつもこうだ。かばうはずがかばわれて、護るはずが護られて、気にするなといつの間にかくるくる丸め込まれている。
「それはまあ、光栄です……?」
ふわ、と香る花のような匂いに、そこでようやく春夏秋冬との近すぎる距離を意識する。このかぎ慣れた匂いはあの花屋のものじゃない、お館様がまとっている香のかおりだ。
パッと反射で離した腕は、間髪入れずにとらわれる。
どこにも行くなというよりは、さあ行くぞといわんばかりに固く手のひらを結ばれた。
「え、えと、お館様、これだと傘が差しにくいっす」
「ああたしかに。なら、これは私が預かって斬に手を重ねてもらうとしよう」
「えっ!いやいや、あんたにそんなことさせるわけには!」
「はっはっは、大丈夫だよ、ここには口うるさいクイーンはいない」
「私は斬がいないと歩けないんだ」、なんて大げさすぎやしませんか。数分前に、まっすぐ落とし穴にダイブしようとしたこと覚えてます?
抵抗したところで、考えを曲げるような御方じゃない。
「……なら、行きますよ」、傘を掴む春夏秋冬の指を覆うように手を繋いで、斬はふたたび進み出す。
触れる手と手は、ホログラムなのにあたたかい。