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    sima_kabe

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    sima_kabe

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    妹の彼氏×兄
    ※暴力

    ##小説

    別に仲は良くないけど 二つ下の妹である夏帆(かほ)は一般的に見て別に可愛いって訳じゃない。ってかブスだし。
     ……いや、ブスは言い過ぎたわ。クラスでは大人しい中間レベルのグループに属してる感じ? 陽キャとは触れ合わない陰キャよりだけど、オタクとまではいかない感じの。まあ、俺も人のことをとやかく言えないんだけど。
     とにかく地味だし、無口だし、華やかさもない。喋れば喧嘩になるから、正直仲はそんなによくない。
     化粧っ気もなければ本ばかり読んでいるような妹で、子供の頃はまだしも、今はほとんど喋らなくなった。
     でも、兄と妹なんて、そんなもんだと思ってる。
     そんな夏帆が変わりだしたのは、夏帆が大学一年になってからだった。
     通う大学は違うが、俺も夏帆も、実家から大学に通っていた。一人暮らしがしたい、と思わないでもなかったけど、なんだかんだ実家は楽だし、経済的な理由もあった。
     夏帆もそうだったんだろう。だから、大学生になった夏帆とは、顔を合わせる度に少し驚く。
     高校の頃は、化粧なんて絶対にしなかったのに、大学に入った途端、眼鏡をコンタクトにして、化粧をし始めた。
     河童みたいだった黒髪を伸ばし、緩くウェーブがかけられるほどになり、色も茶色くなった。女の化粧ってのはそれなりに変わるとはいうけど、一瞬夏帆じゃない人に見えて、未だにびびる。
     ただ、大人しかった夏帆が、無理して背伸びをしているように見えて、それを母さんに言ったら「大学に入って彼氏でも出来たんじゃない?」なんて楽観的に笑っていた。
     俺はそれを聞いて、なんとなく複雑な気分になった。
     別に、夏帆とはそれほど仲がいい訳じゃない。悪いわけじゃないけど、良くもない。
     けど、夏帆が選んだ男、とか夏帆の彼氏、とか考えると微妙な気持ちになる。だって、あの夏帆だぞ? 彼氏とか出来んのか? 全く想像が出来なくて複雑だし、なんだこの感じ。
     むっとしていると、母さんが笑って「秋尾も彼女作ったら?」と言ってきて、俺は余計むくれた。

    ****
     
     ところで話は変わるが、俺は俺と同じ講義をとっている奴らの一人が嫌いだった。
     嫌いというか、苦手というか、やっぱどっちかっていうと嫌いだった。ついでにいえば、一人じゃなくてグループ全体で嫌いだった。

    「イツキ、この間持ち帰った女どないやった?」
    「ヤった? ヤった?」
    「え~? 何言ってんの。ご想像にお任せしま~す」
    「ほらぁ! な?」
    「ま~た、イツキの一人勝ちかぁ」
    「ってか俺の勝ちじゃん、掛け金よこせ」
    「お前ら人で賭けんな」

     近くの席で奴らが笑う。
     俺は少し後ろの席で頬杖をついたまま会話を聞かないようにしていた。長机の上で、ぼんやりと目線をずらし教卓を見つめる。チャイムが鳴っていないから、未だ教授は来ていない。
     せめてもっと離れた場所で話してくれればいいのに、何故かあいつらはいつも俺の近くの席に座るから、いつだって会話は丸聞こえだった。
     やたらカラフルな髪色の集団が、俺の少し前の席を陣取っている。
     全員話したことはないに等しいが、明らかに他の生徒とは違うオーラを放つその連中が苦手だった。苦手意識を抱いている、というよりも、近くで話を聞いていると理解できないから近寄りたくない。
     特に、リーダー格の金成(かなり)は、苦手というよりも嫌いだった。

    「拗ねるなよ、また今度合コン開くからさ」
    「頼むわ~」

     キラキラと輝く金色の髪を揺らしながら、金成は笑った。俺に出来るのは、彼らを見ないように努めるだけだ。
     グループの中心である金成一生(いつき)は、とんでもない金持ちだという話だ。目の前にいるキラキラグループのリーダーで、そもそも、金成たちのグループは大学内でも知らぬ人なし。
     高校よりも横の繋がりが希薄になりやすい大学内において、誰もが知っているというのは、いい意味でも、悪い意味でも目立っているということだ。
     実際、黒い噂が絶えない男でもある。
     薬をやってるとか、女を風俗に沈めてるとか、反社と繋がってるとか、人の女盗ったとか、碌でもない話ばかり聞く。
     同時に、親が成金だから、犯罪だって親がもみ消しているとか、……良い噂なんて、こうして思い起こすと全然ないな。良い、とわかるのは今のところ見た目だけだ。
     チャラチャラした金髪に、耳にはいくつもピアスの穴が空いている。見ていて痛々しいと思うけど、同時に張り付いた甘い顔立ちは誰もが認める綺麗な造形だ。さぞかし女の目を惹くだろう、とも思った。
     俺は金成と話したことなんてないから、もしかしたら、噂の大半は嘘ややっかみなのかもしれない。
     けど、こうして金成のグループの近くに居て会話を聞いていると、本当かもと思わざるを得ない。とにかくこいつらのグループは女癖が悪い。女癖というか、素行というか。
     あまり関わりたくないタイプだ。羨ましいという感情よりも、怖いという感情が先に立つ。まだ授業が始まる前だし、席を移動しようかと思った所で、グループの一人が言った。

    「そういやイツキ、この間の子いつ回してくれんの?」
    「あ~、誰?」
    「ほらぁ、カホ、やっけ? あの茶髪のロングの。ボク好みやから先に回してよ」

     瞬間、心臓が跳ねた。びく、と肩が跳ね動きを止める。
     カホ、という妹と同じ名前にびびっただけだ。
     でも、冷静になって考えてみると、夏帆なんて名前はこの世の中にごまんと居る。大体、あいつは違う大学だし、きっと違う人だ。
     けれど俺はなんとなく、移動するのをやめて金成達のグループの会話に耳を傾けた。違うとは思うけど、なんとなく、本当になんとなくだ。

    「回すって……、人聞き悪いな~。俺の彼女だよ?」
    「イツキ何人いんだよ彼女」
    「全員俺の彼女だって。だからあげませーん」
    「ひっで」
    「まあ、飽きたらわかんないけど」

     金成の言葉に、周りがどっと笑った。
     最低すぎるだろ。絶対に身内には付き合って欲しくない。つーか関わって欲しくない。バレない程度に金成達に目線を移すと、金成が携帯を操作している。
     遠目からはよく見えないけど、女の子の画像が見えた。あれが、金成の彼女なんだろうか。
     何故か心臓の音が大きく聞こえた。見ない方がいい。知らない方が良い。そう思うのに、俺の目は金成の携帯に釘付けになっている。金成達は、俺の存在には気付いていない。

    「あ、それカホちゃんやん」
    「!」

     金成の友人の男が、携帯を指さした。けれど、角度的に丁度金成の腕で見えなくて、俺は目線をずらした。だが、金成の腕に隠れて見えない
     くそっ、もうちょっとなのに……!

    「結構化粧で誤魔化してる感じするよな」
    「女ってその辺ズルいよな~、でもやっぱ可愛いわ。ハメ撮りない?」
    「ねーよ」

     ゲラゲラと笑う。マジで最悪。
     でも、それよりも今は……、くそっ、もうちょっと! あと少し携帯の位置をずらしてくれたらあいつらの言う「カホ」が見えるのに! 俺は首を横に傾けて、金成の手の内を覗う。
     けど、その時学内にチャイムが鳴り響き、教授が教室に入ってきた。電源消される、と思った瞬間、金成が手を滑らせて携帯を落とした。

    「あ、やべ」
    「ばーか」

     一瞬。
     一瞬だった。
     金成の持っていた携帯の画面が見えて、そこには、夏帆っぽい女が映っていた。でも、確信は持てない。見た目は夏帆に似ていたけど、じっくり見たわけじゃないし。ただ、俺の中に不安の種を植え付けるには充分だった。
     金成達は、もう今のことなんて忘れたかのように別の話に移行している。俺は次の授業が、何も頭に入ってこなかった。

    ****

    「夏帆」
    「うわっ、何……?」

     その日の夜。
     父も母も結構早くに寝てしまうから、夜の十一時に帰ってきた夏帆を出迎えたのは俺だ。正直、まだ二十にもなってない女が夜出歩く時間としては遅いんじゃないかと思うけど、父さんも母さんも何も言わない。
     帰ってきた夏帆に声をかけると、驚いたように俺を見た。

    「何? 起きてたの……?」

     いつも起きてる。ただ自分の部屋に居て鉢合わせにならないようにしてただけだ。

    「お前、帰ってくるの毎晩遅くね? 何してんの?」
    「別に……関係ないじゃん」

     ぶっきらぼうに夏帆は言う。それはまさしくその通りで、実際、俺だって夏帆にそんなこと聞かれたら関係ないだろって答えると思う。
     だけど、今のは話のとっかかりとして聞いただけで、本題はそこじゃない。

    「えーっと……、……俺の通ってる大学に金成って奴がいるんだけど、知ってる?」
    「………………知らない」

     夏帆の答えに、俺は幾ばくかの安堵を覚えた。そうだよな。やっぱり今日のアレは見間違いだよな。
     俺はあからさまにほっとしてしまい、いらない言葉を吐いた。

    「あ、そう。いや、知らないならいいんだ。なんかその、やばいって評判だから……、マジ、女癖とか最悪って噂聞くし、色んな女と付き合ってるとか、そういう奴に引っかかってなくて安心した……」
    「……ってかそれ、お兄ちゃんに関係なくない?」
    「え? や、まあ、そうなんだけど……」
    「平凡でいっつもつまんなそうな顔して噂に振り回されてる人より、人生楽しんでる感ある一生くんのがいいと思う」
    「………………」
    「知った風なこと言わないで」
    「……知ってんじゃん」

     めちゃくちゃ知ってるし庇うじゃん。一生くんて。
     なんだよ、こっちはちょっと心配してたのに。結局話すとこうなるから、いつも話さないようにしてるんだった。
     けど、それ以上口を挟むことも出来なくて、水を飲んで二階に上がっていく妹をそのまま見送った。途中、背中を見せたまま夏帆が冷たい口調で言う。

    「お兄ちゃんには関係ないから、口出ししないで」
    「…………あっそ」

     まあ、なんていうか、結局付き合ってるんだろうな、って思った。
     普通、気付く。
     そう、普通。だって俺は妹の言うとおり、平凡で枠から逸脱しない。そうしたいわけじゃないけど、枠からズレるのは怖かったし、ズレようという気もなかった。
     つまらそうな顔をしてるって言われるけど、それは多分当たってる。趣味もないし、人と深く関わることもない。そうしたいわけじゃなくて、気付いたらそうなってる。でも、別に俺は、それが嫌いな訳じゃない。今時、その”普通”だって中々難しいし贅沢なもんだってわかってる。
     だから、もし夏帆が金成と付き合ってるなら、やめておけって忠告するつもりだった。
     だってもし、そうして何かがあったとき、後悔するのはきっと自分だ。それに、俺と夏帆の仲はそんなによくないけど、それでも家族だし、妹だから。

     妹には、厄介な目に遭って欲しくなかった。

    ****

     翌日、大学に行くと、席を変えているにも関わらず、金成は俺の前の席に来た。席を移動するなら今だな、と思ったけど、夏帆のことで何かあればというのが気がかりで、結局俺は、そのまま居座り、金成たちの会話に耳を傾けた。

    「イツキ~、この間の話どうなった?」
    「ああ、うまいこと話ついたから、今度渡すわ」
    「マジ? ラッキー」
    「その代わり……」
    「おっけおっけ、わかってるってちゃんとやるよ。てかイツキ、この間の娘どうなった?」
    「え? あー」
    「現彼女」
    「現て。別に~、普通に良い感じだし」
    「もうした? カホちゃん」
    「した」
    「ぎゃははは、早っ」

     あ~~~~~、やっぱ無理かも。身内のこういう話聞くの耐えらんねえ。ぞわぞわとした悪寒が駆け上がり、席を移動しようかと思った瞬間、金成がぽつりと漏らした。

    「で、そろそろ営業させよっかなって」
    「あ~、いいんじゃん? じゃあ俺予約一号~」

     …………営業?
     営業ってなんだよ。何かの隠語だろうか。気になって、俺は席を移動することも忘れ、そのまま耳を傾ける。

    「どういう系にすんの?」
    「ん~、やっぱ羽振りがいいおっさん相手かな~」
    「あー。Pね。今時羽振りがいいおっさんなんている?」
    「俺がちゃんと用意するから大丈夫」

     おいおいおい、なにこの会話。もしかしてアイツ、自分の彼女に、っていうか俺の妹にパパ活させようとしてね?
     気がつけば、俺は自分の立ち位置も忘れて声を上げていた。

    「あのっ」
    「あ?」
    「なに、ダレ?」
    「や、急にごめん、その……」

     なんで、声をかけちゃったんだろう。
     別に放っておけばよかったのに。直接的に言われたわけじゃないし、夏帆だって関係ないって言ってた。そもそも、あまり仲良くないんだから、こんな口挟んだって、余計なことすんなって言われるかも。
     だけど、大学入ってからすげえオシャレ頑張って、たまに休みの日とかに鉢合わせすると、超気合い入った格好して、色々頑張ってる夏帆は見てるんだよ。同じ家だと、嫌でも目につく。
     それ全部無視できないっていうか……。

    「その、さっきあんたらが話してたカホって子、多分俺の妹で……」

     カラカラに乾いた喉で、言葉を紡ぐ。
     冷えた目線が、俺に突き刺さってくるのがわかった。俺だって、本当はこんなこと言いたくないし、好き好んで住む世界が違いそうな奴に声をかけない。
     ただ、これだけは伝えておきたかった。

    「えっと、俺の妹、あの……多分マジで金成くんのこと好きだから、……せめて飽きたら普通に、振ってほしいんだ、よね。あれでも妹だし、出来れば傷つけないでほしいっていうか……」

     額に汗を走らせながら、しどろもどろそう伝えると、俺の周りに沈黙が落ちる。
     金成の友人はいつも三人いるけど、その誰もが声を発しなかった。ただ、金成だけが真っ直ぐに俺を見てきた。
     品定めするような目つきに一瞬謝ってしまおうかと思ったけど、俺は目を伏せて何も言わなかった。すると、淀んだような黒い目が、笑顔に変わる。

    「名前は?」
    「え?」
    「いや、名前、あんたの」
    「あ、俺、黒川……」
    「名字は夏帆と同じだから知ってる。下の名前は?」
    「秋尾……」
    「あき? 季節の秋?」
    「そ、う。それに尾っぽの尾で」
    「へー、アキオ、アキオね。妹は夏で兄は秋なんだ」
    「あ、うん……」

     なんだ? 何が言いたいんだ?
     周りの奴らは、何故か白けた目で各々自分のスマホを触り始めた。俺みたいなのが急に口を挟んできたことに、ムカついているのかもしれない。言いたいことは言ったし、早々に席を移動しようと立ち上がった所で、金成が俺の腕を掴んだ。

    「どこ行くの? もう授業始まるよ」
    「えっ、あ、うん……」
    「俺ねー、イツキって言うの。俺の名字は知ってるっぽいけど、下の名前のが好きだからそっちで呼んでね。一生って書いて、イツキ。な?」
    「じゃ、イツキくん」
    「イツキでいいよぉ。秋尾も長いからアキでいい? クロも可愛いけど、アキのがいいよな。黒髪も可愛いけど、秋田犬みたいな色合いも可愛いと思うんだよね~、名前も似てるし? あー、でもやっぱ黒もいいなあ、首はどうしよっか」
    「……うん?」
    「てかアキ、ラインやってる? なんて今時やってない奴のがいないか! ねー連絡先教えてよ」
    「え、何で……」
    「は?」

     その瞬間まで朗らかに話していたのに、俺が口を挟んだ瞬間、金成、いや、イツキは笑みを消した。
     暗く淀んだ目で、掴んでいた腕に力が加わる。ビビリな俺は、それだけでもう口を挟むことが出来なくなった。ごきゅ、と唾を飲み込むと、無表情のまま金成が言った。

    「なんでとかある? そっちが先に口出ししてきたのに」
    「や、そうなん、だけど……あ、いや、ライン、ラインな。うん、今スマホ出す……」

     イツキの言うとおり敬語のまま話し続けるのもおかしいかと思い、俺は携帯を取りだしてラインのQRコードを示した。
     連絡先の交換を終えると、イツキはにんまりと笑いながら俺の肩を叩く。

    「はい、ありがとありがとー、ほら、妹と付き合ってるからさ。お兄ちゃんとも仲良く的な? 今度用あったら連絡すんね~」
    「は、はは……」
    「大丈夫、ちゃんと妹には優しくするからさ。さっき話してたアレは冗談♡ なーミケ」
    「ん~」

     ヘラヘラと笑いながら俺の肩を揉み、友人に言った。問いかけられた友人は手を振るだけで何も言わなかったが、それを肯定として、イツキが笑う。
     イツキは再び俺の前に向き直った。タイミング良く教授が入ってきて、俺はそれ以上イツキと言葉をかわすことが出来なくなった。

    ****

     家に帰ると、珍しく夏帆がリビングに居た。
     父さんはまだ帰ってきてないらしく、母さんは町内会の集まりがあるとか言って、夕食を作って出かけた。
     リビングで爪を塗っている夏帆は、風呂上がりなのかいつもみたいに強い化粧もしておらず、昔の夏帆に戻ったみたいだった。

    「……なあ」
    「なに」
    「お前、金成のどこが好きなの?」
    「…………は?」

     非常にウザそうな顔で、夏帆が俺を睨みつけてきた。っていうか、実際ウザいんだろうけど。でも、聞かずには居られない。だって、今日少し話しただけでも、なんとなくやばそうなオーラを感じた。
     オーラっつーか雰囲気っていうか、とにかく俺らみたいな小市民は関わるなって感じの。むしろそれに惹かれるんだろうか。

    「顔が格好良いから? それとも金持ってるから?」
    「急に何? ウザ……」
    「いや、気になっただけ……」
    「だから、お兄ちゃんに関係ないよね」
    「今日ライン交換した」
    「は? 何してんのほんと……」

     何してんだろうな、本当に。
     はは、と笑うと、夏帆は俺から目線を逸らして、乾かしている最中の爪に息を吹きかけた。

    「……別に、そういうんじゃないし。お金とか顔とか、そういうんじゃなくて、ふつーに、……可愛いねって言ってくれただけだし」
    「は?」

     思わず聞き返すと、夏帆は顔を赤くしながら唇を尖らせる。目線を反らして、もごもごと口の中で呟いた。

    「だ、だからぁ、ちゃんと私のこと見てくれて、褒めてくれた人、初めてだったの! 私ブスだし……、男って皆外見ばっかり見てくるじゃん。勿論顔も好きだけど、そういう優しい所が好きっていうか……」

     その姿を見て、不覚にも俺は動揺した。
     こいつも、こういう表情が出来るのかと思ってしまった。だって、照れくさそうに話すその顔は、どう見ても恋する女の顔だったから。俺は、あいつお前にパパ活勧めるかもしれないから別れた方がいいぞ、とは言えなくなってしまった。
     ていうか、実際にそんなことされたら、こいつどうなんの?
     胸の中のもやもやが大きくなって、息を呑む。

    「そ、そうか……」
    「ん……。だから、マジで変な邪魔しないでね」
    「わか、った」

     その時、ピコン、と俺のスマホが音を立てた。手持ち無沙汰の為、ちらりと送り主を見てみると、渦中のイツキからだった。
     そういえば、連絡先交換したっけ。

    「げ……」
    「? どしたの」
    「あ、いや、別に!」

     俺はなんだか夏帆に知らせない方がいい気がして、スマホをポケットに突っ込み、二階へと駆け上がった。
     部屋に戻り、ラインを開くと、やっぱりイツキから連絡が来ている。

    【アキ、来週の土曜あいてる?】
    「うわ……」

     用件言わずに空いてるかどうか聞いてくる、一番嫌なタイプの連絡じゃん。用件による、と言いたいところだけど、イツキからの連絡なら大抵空いてないと答えたい。でも、もし夏帆に被害が及ぶような内容だったら、出来れば避けたい。別に、夏帆と大して仲良くないのに、なんで俺がこんなこと気にしてんだろう。
     それもこれも、さっきの夏帆が、あまりにも一途に見えたせいだ。普通に可愛い顔してんじゃねえよ。

    「くそ……」

    【来週の土曜?どうした?なんかあった?】

     とりあえず、空いてるかどうかは伝えずにラインを返した。すると、すぐに既読がつき、返信がくる。

    【今度うちでちょっとしたパーティ開くんだけど、よかったらアキも来ない?】

    「な……」

     ちょっとしたパーティって、存在すんのかよ。
     よくちょっとしたパーティって言葉は聞くけど、どこでやってんのかと思ってた。こういう奴が開くんだな。
     けど、なんで俺? どう考えても場違いだろ。
     適当な理由をつけて断ってしまおう、とスマホに指を走らせようとして、動きを止めた。
     夏帆って、このパーティに誘われてんのかな? 彼女なら、普通誘われてそうだよな。
     俺は念の為階段から顔を覗かせ、未だにリビングで爪を弄っている夏帆に声をかけた。

    「夏帆」
    「うわっ、なに」
    「来週の土曜、なんか予定ある?」
    「土曜……? 友達と映画見に行くけど……なんで?」

     じと、と目を細めてこっちを睨みつけてくる夏帆に、嘘をついている様子はない。誘われてないのか?

    「や、なんでも。たまには一緒に出かけないかなー……って」
    「え、やだけど……」
    「はいはい」

     そりゃそうなるよな。ありがと、と礼を言って首を引っ込め、再び部屋に戻り、スマホの画面を開くと、俺が返信する前にイツキから追いラインが来ていた。

    【もし用事があるようなら、夏帆誘うから、アキが選んでいいよ】

    「………………」

     これは、どういう意図なんだろう。普通、彼女の兄誘う前に、彼女誘うよな? 選んでいいよ、っていう言い方も、なんだかおかしい。
     まるで、俺か夏帆、どちらかを選べって言ってるみたいだ。両方行くという選択肢は、イツキにはないように思える。
     イツキが普通の男なら、俺は迷わず遠慮して夏帆を誘ってやってくれと言っただろう。けど、この前の会話が気にかかる。
     羽振りのいいおじさんを用意して、とかなんとか。その前も、散々どの女の子とセックスしたとか、不穏な会話ばかり聞いている。ちょっとしたパーティが、もしかしたら乱交パーティかもしれない。
     そう考えると、やっぱり夏帆は行かせたくない。
     俺が断れば、きっとイツキは本当に夏帆に連絡するだろう。夏帆は、友達と映画に行くとは言っていたけど、あの様子を見る限り、イツキに誘われたらそれを断るとは思えない。

    「…………はぁ……」

     迷った末に、俺はイツキにラインを返した。

    【俺が行くよ】

     ぴこん、と音が来て、すぐにラインが返ってきた。

    【オッケー、じゃあ当日は十一時に家までポチが迎えに行くから】

     ポチ? 誰? 犬?
     っていうか俺、家の住所伝えてな……、ああ、夏帆と同じだから知ってんのか。……ん? でも俺、実家暮らしとは言ってないけど、夏帆に聞いたのかな。あ~~~、ってかなんだよちょっとしたパーティって。何すんの? そんなのに着て行く服もねえよ。
     頭を抱えながら重いため息を吐いたが、今更やっぱり無理とも言えず、とりあえずパーティに見合うような服があるか確認すべく、クローゼットを開いた。

    *****

     それから次の土曜まで、あまりイツキを見かけることもなく過ぎていった。
     大学に来ていなかったのか、それとも俺がみかけなかっただけなのか、あれ以降ラインも動かない。夏帆は朝早く友達と遊びに行くと出かけていったし、父さんは仕事。母さんもパートで誰もいない。
     俺も出かける、と伝えると、しっかり鍵をかけていってね、と言いながら出ていった。
     正直、俺だって行きたくない。ちょっとしたパーティとか、行ったことねえし。
     結局持っている服の中で一番キレイめの服にしたけど、その「パーティ」とやらが、どういう規模のもので、何をするのかさっぱりわからないのだから、これでいいかという検討もつかない。
     イツキにどういう格好でいけばいいか聞けば、適当でいいよ、というテキトーな返事しか返ってこなかった。
     最悪、場にそぐわないという理由で帰ることもできるかも、という下心があったので、もうそのまま行くことにした。当日なら、夏帆だって友達をドタキャンなんてしないだろうし。
     なんなら、このまま連絡も来ず迎えも来ない、という展開があるかもしれない。
     けれど、俺の望みに反してインターホンが鳴り響いた。

    「……はーい……」

     玄関のドアを開けると、ぬっと大きな影が俺を覆った。玄関を俺を見下ろしてくるそいつは、いつもイツキのグループに居る一人だった。あのグループの中では寡黙な方で、積極的に喋っているというよりは、イツキのボディガードみたいな印象がある。
     イツキはポチとか言ってたけど、勿論そんな名前じゃない。
     俺はへらりと笑いながら、手を振った。

    「あ、富士……くんだっけ。迎えに来て貰ってごめん……」
    「車、あるから乗って」
    「う、うん」

     特に挨拶もなく、淡々とした様子で、富士が促した。俺は家の鍵を閉めると、富士の後をついていく。すると、俺の家、というよりは、この集合住宅街には不釣り合いな外車が停まっていた。すげー、このエンブレム、確か高級外車の……。

    「おい」
    「っ!」
    「早く。後ろに乗って」
    「うん、ごめん」

     思わず車に見惚れてしまったが、富士は時間が気になるらしく、厳しい口調で言われ慌てて車に乗った。

    「よぉ~」
    「あ、どうも……」

     車のドアを開けると、別の人が足を組んだままスマホでゲームをしていた。ゆるくかけられたパーマは三色のカラーが入っており、ふわふわと揺れている。えーと、三家(みつや)……だっけ?

    「三家くん、だよな?」
    「そうそう、三家ことミケでーす。お前はクロだっけ?」
    「あ、うん……黒川……」

     クロ? 言ってる途中で、じろじろと値踏みするように三家が俺を見てくる。車のドアが閉まり、車が発進すると、三家が初めて俺に笑みを見せた気がした。

    「ってか、そのカッコで来たの? 普段着?」
    「あ…ごめん。ちょっとしたパーティって言われて、どういうので行けばいいかわかんなくて、イツキは適当でいいって……」
    「ふーん」

     ぐい、とシャツを引っ張られた。

    「わっ、な、なに」
    「あー、あんまカホちゃんと似てねえなー。いや、化粧落としたらこんな感じ? まーどっちみち、雑種って感じ、はは」

     けらけらと笑いながら、三家がネクタイを離して俺の肩を押した。

    「…………っ」
    「何? 怒った?」
    「いや……、その通りだなって」

     別に、元々期待もしてないし、場にそぐわないというなら、そういう格好をしてきた俺に落ち度があるのも確かだ。
     三家も、富士も、俺とは違う、明らかに格式張った感じの格好をしている。ちょっとした所に遊びに行く用の普段着、というよりも本当に格式ばったパーティに行くような洒落た格好。三家も富士も、確か親が議員だか弁護士だかで、金持ちだって聞いてる。
     それを血統付きと表すなら、俺は雑種なんだろう。
     大して関わる気はないし、と目を逸らし、掴まれていたシャツを整えると、三家が丸い目を瞬かせた。怒りはしない。しないけど、変に萎縮するのもやめようと思った。

    「俺、この服なら帰ったほうがいい?」

     できればそっちのが助かるんだけど。

    「まさか。連れてこいって言われたのに連れてこなかったら俺ら沈められちゃうよ。クロ、思ったより根性ある?」
    「は?」

     沈められるって、何? と聞こうとしたところで、運転席から富士の声が飛んできた。

    「三家」
    「あいあい」
    「あまり喋るな」
    「保智は喋らなすぎじゃん? 怒られるよ」
    「……うるさい」
    「あーははは、短気短気」

     苛ついた富士の声に、三家がけらけらと笑った。不穏な空気の中、俺は富士の下の名前を思い出していた。そうか、富士って保智(やすとも)っていうのか。ひょっとしたら、読み方を変えて、ポチなのかもしれない。
     しかし、なんでそんな動物みたいなあだ名つけてんだ?
     気になったので聞いてみる。

    「なあ、なんでミケとかポチって呼ばれてんの?」

     瞬間、三家が笑い声を引っ込めた。

    「え……」

     しんと静かな空気が車内を包み、言ってはいけないことを言ってしまっただろうかと不安になったが、次の瞬間三家がぷっと吹き出した。

    「そんなの、俺らがペットだからだよ」
    「は……?」
    「なーんて、ね~ぇ」

     そう言って再びけらけら笑ったかと思えば、急に真顔になり、眠いから寝る、とそのまま眠ってしまった。自由人かよ。
     恐る恐る富士の方に目線を飛ばしてみたが、富士は俺なんてまるで居ないかのようにこっちを見ることも、喋ることもなかった。
     ペット、っていうのは、普通にペットってことだよな。友達じゃないのか?
     改めて、イツキのことを思い出す。俺はいけ好かないと思っているけど、完璧すぎて怖いくらいに優秀な奴だってことはわかる。
     女癖はとことん悪そうだけど、夏帆が惚れるくらいなんだから、外面は良いんだろう。実際、俺にだって当たりは悪くなかった。ちょっと怖いところもあったけど……。
     笑顔を消したイツキの表情を思い出し、一瞬体が震えた。もしかしたら、やっぱりこのパーティとやらに行くのは間違いだったのかもしれない。でも、今更やっぱりやめますと言えるような空気でもなくて、会場に着くまで緊張しっぱなしだった。

    ****

     その場所は、結構入り組んだ場所にあった。
     というか、こんな所に屋敷なんてあったのかっつーか、そもそも現代日本にはちょっと不釣り合いなんじゃないかってくらい、西洋的な屋敷が森の中に佇んでいた。

    「着いたぞ」
    「ああ、ありがとう」
    「三家、起きろ」
    「ん~、はいはい……」

     眠っている三家を起こして、俺たちは屋敷の前に立つ。正確には、屋敷の前にある門の前に立った。見張りというか、出迎えの人みたいなのが、俺たち、正確には三家と富士の顔を見て、一礼した。それから、門が開く。

    「なんか、外国の家みたいだな……でっか」
    「あー、昔どっかの金持ちが建てた家を、イツキんちが買い取ったらしいよ。この辺の森も全部あいつの私有地だし」
    「へぇ……」

     噂には聞いていたけど、本当にとんでもない金持ちなのかもしれない。富士は相変わらず黙ったままで、俺は気まずくなり、富士に話しかけた。

    「えーと、富士くんって、車好きなの?」
    「…………なんで?」
    「や、だって、なんかこんな規模なら、普通に迎えの人とか居そうだし、富士くん達が迎えに来るにしても、運転手とかつきそうじゃん? 自分で運転するってことは、自分の車で好きなのかな~って……」

     適当なことを言ったけど、案外当たりだったらしく、富士は一瞬目を見開いて小さく頷いた。

    「そうだ、俺は俺の車が好きだから、あの車以外乗りたくないし、誰も運転させたくない」
    「こいつ車馬鹿だからさー」

     隣で三家が笑う。

    「黒川、だったか」
    「あ、うん。黒川です。よろしく」
    「くんはいらない。富士でいい。ただ、ポチとは呼ぶなよ」
    「いや、呼ばねえって……」

     逆にそんなあだ名で呼ぶ方がおかしいだろ。すごい仲がいいなら別だけど。そうこうしている内に、玄関の方に近づき、そこにイツキの姿が見えた。

    「ポチ~、ミケ~、おっ、アキも来たか。いらっしゃーい、待ってたよん」

     にこにこと、相変わらず人当たりのいい笑みを浮かべながら、イツキが近づいてくる。俺は少しだけ頭を下げたが、富士と三家は近づかないまま、後ろで手を組んで頭を下げた。……友達にする動作じゃないよなあ、どう見ても。

    「んじゃ、行こっか。てかアキ、その格好何?」
    「えっ、や、ごめん。パーティって何着てけばいいかわかんなくて、普通の服で着ちゃった……」
    「あはははっ、何このシャツ、かわいいね。いいよいいよ、俺んちにある服貸すし」
    「………………」

     普通の服のつもりだったけど、やっぱりそんなにダメだったんだな。
     後ろから富士と三家がついてくるかと思ったけど、二人とも別の方向に移動してついてこない。

    「あの、富士と三家は?」
    「あぁ、あいつらは別にやることがあるから。それより……、おーい、タマー、ちょっと服見繕って~」
    「今忙しいねんけど何ぃ? あ、なんや、くろかーくんやん。何やの君ぃ、そのヘンテコな格好」
    「あ、ははは……すんません」

     関西弁に八重歯が目立つ短髪の眼鏡男。こいつも金成と同じグループで……児玉、だっけ? タマって、猫みたいな呼び名だな……。
     げんなりしているとイツキが俺の隣に立って言う。

    「ちょっと似合いそうな服見繕って着せたげて」
    「あ~、はいはい、ええよ。ほなくろかーくん、こっちきてぇ」
    「え? ちょっと……!」

     そんなに? そんなにダメだったかこの服 俺の中ではまあまあ綺麗目の服なつもりだったんだけど!
     というか、イツキもどこに行くんだ。初対面の人と二人きりにされるの、普通に気まずいんだけど!

    「じゃあ、俺は準備あるから、あとよろしく」
    「はいな~」
    「また後でな、アキ」

     俺の不安をよそに、イツキは手を振って笑うと、そのまま部屋を出て行った。
     にこにこと人好きしそうな笑顔で笑っていた児玉は、イツキがいなくなると今度は俺に笑顔を向けてきた。

    「ほな、くろかーくん! お着替えしよか~」
    「あの、俺の格好そんなにダメっ……?」
    「ん~、個性的でボクは好きやけどねえ、ちょっと似つかわしくないなあ。いや、ある種似合うてはおるんやけどね。TPOって言葉もあるやんかぁ、それとも君、皆が決めはる中に一人だけその格好で混ざりたいタイプ?」
    「………………いや……」

     富士と三家もだけど、イツキも、それに目の前にいる児玉も、想像していたようなホームパーティ的なもんじゃなくて、ガチパーティに出そうな格好をしている。その中にこの格好で混ざるのは流石に恥ずかしい。そのくらいの羞恥心は持っている。改めて自分の格好を見てみると、シャツにジャケットにパンツって、死ぬほど普通の格好してるな。

    「ごめん、頼む……」
    「ええて~、別にボクの服やないし、イツキくんのご所望やから」

     なんだか引っかかる言い方だけど、服を貸して貰う手前、滅多なことも言えず、俺は話を別の方向に持っていくことにした。

    「そういえば、この部屋ってめちゃくちゃ沢山服あるけど、誰の部屋なんだ?」

     イツキに連れてこられて入った部屋の中は、部屋全体が衣装ケースといわんばかりに、部屋中が服でぎっしりだった。女物から男物まで、格式張った物からきわどいものまで、よりどりみどりだ。
     誰かの部屋なのか、それともイツキの持ち部屋なのか。
     
    「さあ? ボクもようわからへん~、あ、君にはコレが似合いそうやねえ」

     児玉は、はぐらかしているのか、俺の質問には答えてはくれなかった。ただ俺の体型を見て、似合いそうなスーツを体に押し当ててくる。

    「それ着て。着たら髪ちょい弄るから。あ~、でも君髪短めやからなあ、イツキくんはもうちょっと長い方が好みやで?」
    「……なんでイツキの好みが関係あるんだよ?」

     俺の髪が長かろうと短かろうと、そんなのイツキには関係ないだろ、じとり、と睨みつけると、児玉はぱっと身を翻した。

    「せやね! 失言や~、気にしんといてー」
    「………………」

     なんか、疲れるな。なんだここ? 夏帆になんかあったら嫌だと思って来たけど、普通のパーティっぽいし、服も貸してくれるとか親切だし、心配する必要なんてなかった、か……? 別に夏帆だって、このくらいは許容出来るだろうし。
     児玉が選んだ服を着ると、自分でも不思議なほどにしっくりきた。濃いネイビーのスーツは、着ているだけで身が締まるような気がする。鏡を見せて貰ったけど、ぴったりだった。
     似合ってる、のか……?

    「どう?」
    「高そう」
    「あはは! せやねん、それ高いから汚したらあかんよ」
    「肝に銘じる。そういえば、児玉くんはなんでこういうことしてんの? イツキになんか頼まれてるとか?」
    「ん? いやいや、ボクが服好きなだけやって」

     髪の毛を弄りながら児玉が笑う。その時、部屋のドアがノックされた。

    「タマ、終わった?」
    「もうすぐ終わるでぇ~」

     ドアが開き、イツキが顔を出した。そして、俺を見た瞬間パッと顔を輝かせた。

    「おっ、いいじゃん! 流石タマ~」
    「喜んで貰えて何よりやわぁ。ほな、ボクはこれで。じゃあくろかーくん、頑張って~」
    「え? 児玉くんも行くんじゃ……」
    「ボクはまたやることあるから」

     ぴしゃりと言い除けらて、俺の返事も待たずに児玉は部屋から出て行った。
     なんだ、何を急いでたんだ? というか、イツキの友達が全員総出でこのパーティの準備とやらをしてるなら、俺も手伝った方がいいんじゃないだろうか。

    「なあ、イツキ。俺もなんか手伝うことがあれば……」

     かち。
     と首元から音がした。

    「へ」

     間抜けな声を出して、俺は首元を見る。けど、自分の首元なんて当然見えない。けど、首に何かがついてる。なにかっつーか……首輪? 首元に締められた首輪から、丈夫そうな太いリードが伸びていて、その先をイツキが握っている。
     ぎょっとして声を荒げた。

    「は……えっ おいっ! なんだよこれ!」
    「いい……!」
    「は?」
    「すげーイイ! 似合う! 俺ぇ、やっぱアキには赤が似合うと思ってたんだよねえ~! 服の差し色にもなってるし、首にハマっててよく似合うよ、うん」
    「いや、何言ってんの……」

     ドン引きした。
     そんなに仲良くもない彼女の兄に首輪つけといて最初の発言がそれってどういうことだよ。家帰ったら絶対夏帆に別れた方がいいって伝えよう。

    「いいからこれ外……っ」
    「んじゃ行こうか、アキ」

     そのまま首輪に繋がったリードを引っ張って歩き出そうとするイツキに、俺はキレた。普通キレるだろこんなの。どうかしてるってさ。
     リードを掴み、イツキの歩みを止める。

    「っいい加減にしろよ! 悪ふざけかなんか知らないけど、趣味が悪すぎる!」
    「………………」
    「こんなことするなら、俺はもう帰るから、早くこれ外せよ」

     イツキは振り返ると、黙ったまま俺を見つめていた。暗く淀んだ瞳は、どこか暗澹たるものを感じで背筋がぞっとしないが、このままついていくわけにもいかない。

    「あ、帰んの?」
    「…………ああ」

     何か言われるかと思ったけど、意外にもイツキは冷めた目でわかった、と頷いた。

    「本当に、帰んのね」
    「そうだよ、だから早く……」
    「じゃ、夏帆呼ぼっと」
    「…………っ」

     カホ、という名前に、俺はびくりと身を縮めた。イツキは、俺が帰るのを止めようとはしない。それは、俺がいなくなればカホを代わりに使えばいいと思っているからだ。
     そして、夏帆は実際ここに来るだろう。こんなことをされて恋も覚めればいいが、覚めなかったら最悪だ。いやそもそも、こんなことをされる時点で最悪だ。
     俺は、昨日の夏帆の顔を思い出していた。別に、兄妹仲が良いわけじゃない。むしろ、悪い。なのになんで、あの嬉しそうで、恥ずかしそうな、夏帆の顔が頭を過るんだろう。
     別に自分のことを兄らしいと思ったことはないけど、ただ純粋に、夏帆にはこんな目に遭って欲しくないと思った。

    「……ま、待った!」
    「ん?」

     だから、スマホを操作する手を見て、俺は言った。こんな訳のわからない状況とはいえ、こいつが危なすぎる奴だってことは充分わかる。だから。

    「やっぱり、帰らない……!」
    「………………」
    「だから、夏帆には連絡するな……」

     こいつが連絡したら、きっと夏帆はココに来るだろう。いや、その前に、俺の時と同様に富士が迎えに行くのかもしれない。そうしたら、こんなことをされるのが夏帆になる。信じていた男にこんなことをされたら、きっと夏帆はすごく傷つく。
     それは、避けたかった。気まずそうに目を伏せる俺を見て、イツキが目を輝かせた。

    「あ、ほんと? やー、よかったよかった! 俺も、アキのがいいなって思ってたから、それにしてもその首輪似合うなあ。ちゃんとアキの名前入ってんだよ。あ、見えねーか。にしても俺センス良っ!」

     数秒前とは打って変わって、別人のような陽気さで俺に笑顔を向けてきた。その笑顔があまりにも明るくて、逆にぞっとした。無自覚なのかそれともただの変人なのか、二重人格なんじゃないかとも思えてくる。

    「あの、俺の頼みは……」
    「ああ、連絡はしないよ。アキが一緒に来るんならいらないから」
    「そう……」
    「でも、その前に」
    「……?」

     乾いた音が頬に響いた。
     数秒して、イツキに頬を叩かれたのだと理解した。

    「っ、え……?」
    「両膝をついて、目線は下」
    「え、何」
    「早く。5、4、3……」
    「…………っ」

     なんだかわからない内に、カウントダウンが始まった。俺はとにかくこれ以上イツキの機嫌を損ねるのはまずい気がして、言われたとおりに床に膝をつく。目線を下に傾けると、ピカピカに磨かれたイツキの靴に、俺の蒼白な顔が歪んで映っていた。

    「連れて行ってください、ご主人様だろ?」
    「………………っ」

     上から降ってくる楽しそうな声に、顔を上げると、黒い瞳が俺を見て笑った。
     瞬間、腹にさっきまで目線の元にあった靴がめり込んだ。鳩尾にひっとした靴先に、俺は腹を押さえて転がった。

    「う゛っ、…… げほっ……! っ……!」
    「あれ? 俺目線は下って言ったよねぇ?」
    「なっ、すっ……!」
    「はい、もっかーい、やり直しっ」
    「がっ……!」

     おまけ、とばかりに肩を蹴られて、無理矢理起こされた。やばい、こいつマジで頭おかしい。ぐるぐると回る頭でどうすればいいか考えながら膝で立つと、上から指示が飛んでくる。

    「両手も地面について」
    「………………っう……」

     痛む腹に顔を歪めながら両手をつくと、無機質な感触が伝わってくる。ほぼ土下座に近い格好になりながら、目線を下に落とした。俺、何してんの。つーか何させられてんの? 何コレ、いじめ? 成人したのに……?
     情けなくも震えていると、イツキが首輪のリードを引っ張った。

    「うぐっ」

     下を向いているので、当然上を向かなきゃ首が絞まるが、上を向いたらまた腹を蹴られそうで、向かなかった。向けなかったという方が正しい。どういう表情をしているのかわからないが、上からは楽しげな声が降ってくる。

    「なあアキ、もっかいチャンスあげるよ。選ばせてやる。おうち帰りたい? アキの代わりに夏帆を呼ぶから、アキは帰してやってもいいよ」
    「………………、ぐっ」

     く、首がっ、締まって、息っ、できな……っ!
     酸素の回らない頭で、なんとか言葉を捻り出す。空気の入らない肺が震える。喉が掠れて、頭に血が昇っていくみたいだった。夏帆、夏帆、子供の頃の思い出が、走馬灯みたいに蘇った。昔は、今よりも大分仲がよくて、よく一緒に遊んだりしてたのに。なんでか、昔一緒に遊んだ近所の空き地が頭に浮かんだ。でかい入道雲が広がった夏の真っ盛りで、二人でかくれんぼして遊んでたっけ。
     朦朧とした意識の中、俺はぐっと唇を噛みしめた。だめだ、ここで逃げたら。

    「おねがっ、ま、すっ……! れ、もっ、づ、づれていって、ぐっ、くださいっ……! ごしゅっ、まっ……!」

     ほぼ土下座に近い形で言い終えると、上に持ち上げられていたリードから力が抜けた。俺は一気にその場に崩れ落ちる。

    「げほっ、っ、はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ、はっ……げほっ、げほっ!」

     肩で息をしながら、酸素を吸い込んで吐き、吸い込んでは咳き込んでいると、上から手のひらが下りてきて、優しく俺の頭を撫でてきた。頭のてっぺんから側頭部を滑り、耳の裏を指が撫でる。

    「いっかいで覚えるなんて賢いね。物覚えが良い子は好きだよ、アキ。よくできました」

     偉い偉い、と言いながら、イツキが俺の額に唇をくっつけてきた。
     ……これはなんの悪夢だろう、と思いながら、ようやく顔をあげることを許されると、イツキが左から五番目のクローゼットを開ける。

    「それじゃ、行こうかアキ。楽しいパーティに!」

     イツキが笑って開けたクローゼットの先は、何故か暗闇が続いている。……やっぱり俺は、ここに来るべきじゃなかったのだ。


    *****

     クローゼットの裏が隠し扉になっているようだった。
     薄暗い通路の中、リードを引っ張られて進んでいくと、一枚のドアがある。イツキは解除キーのような所に手のひらを押しつけて解除すると、そのドアを開いた。

    「…………っ」

     ドアの先は、異様な光景だった。
     暗い部屋の中、天井ではなく、床にいくつかの灯りが点いている。小さな灯りなので、立っている人間の姿は見えない。その代わり、床に這いつくばっている人間の顔は見える。
     そう、這いつくばっているのだ。
     まるで、動物みたいに、四本の手足を床につけ、俺と同じように首輪を付けていた。俺みたいに普通の服を身につけている人もいるが、裸同然の格好をしていたり、エロい格好をしていたりする人も居た。男も女も年齢も、様々だ。あまりに異様な光景に、目眩を起こしそうだった。
     ……なんなんだよ、これ。
     緊張から唾を飲み込むと、イツキが再びリードを引っ張った。引っ張られる度に、首輪が首に食い込む。

    「っ……!」

     コツコツ、と靴音を響かせ、ぽつぽつと光る床の灯りを頼りに前へと進んでいく。体の奥に芽生えていた恐怖心から、進みたくなくて、その場に踏みとどまった。けれどイツキは止まらない。俺を待つつもりもない。結局引きずられるようにして、イツキの後を追った。
     壇上だろうか、階段をあがると、ファンファーレにも似た謎の音楽が鳴り響き、一気に会場が明るくなった。
     暗闇に慣れていた目を明るさに一瞬細めると、次に俺は目を見開くこととなった。
     さっきまで暗闇の中にいた人たちは、全員顔が解らないように顔に仮面のような物をつけている。けれど、その出で立ちは、イツキや富士達と同じように、まさにパーティに相応しいような出で立ちだった。ドレスにタキシード。和装洋装、装飾華美な服装は、普通に暮らしていたらまず見ない。テレビの中の世界だ。
     俺のこの高い服ですらラフに見える。確かにここに最初の格好で居たら、みすぼらしいことこの上なかったかもしれない。
     部屋の中は、まるでダンスホールの様に広く、壁にはいくつかのドアがあった。どれが出口に繋がっているのかは解らないが、もしかしたら、あそこを出たら逃げられるのかもしれない。

    「紳士淑女の皆様、ようこそおいでくださいました!」

     その時、イツキの声が部屋の中に木霊した。マイクを持ったイツキだけは、顔に仮面を付けていない。自前の甘いマスクに笑みを乗せ、意気揚々と挨拶をする。

    「本日は私主催の”ちょっとしたパーティ”にお越し頂き、誠にありがとうございます。父の代を引き継ぎ、無事、こうして再び開催できて、感激の限りです。ご参加頂いた皆様には、全身全霊の感謝と共に、大きな喜びも感じております」

     淀みなくすらすらと構文のようなことを口走るイツキを、俺はじっと見つめていた。
     イツキの言葉に耳を傾けている「紳士淑女」とやらは、リードを手に持ち、その先には裸の人間がいたりする。何が紳士淑女だよ、変態の集まりじゃねえか。
     連れられている人間達は皆俯いていたり、連れている人間をじっと見つめていたりした。その光景は、現代日本とは言い難い。
     どう考えても狂っている。背中に冷や汗をかきながら、目線をさっき入ってきたドアの方へと向けた。

    「本日も、皆様自慢の愛らしいペットを心ゆくまでご堪能、お戯れ下さい。また、プレイルームは右扉奥となっておりますのご自由にご利用下さい。ご不明な点はスタッフまで、遠慮なくお問い合わせ下さいませ。それから――……」

     イツキは未だ喋ることに意識を向けている。
     ……今なら、走ればここから逃げられるかもしれない。こんな姿を見れば、きっと夏帆だって意識を変えてくれる。というか、普通に警察案件だろこんなの。こっから逃げて、警察にいって、夏帆とも一切縁を切るように言えば、また日常に戻れる。俺は自分で自分をそう勇気づけた。
     どう考えてもアングラな光景に、拳を握り、頭の中で言い聞かせる。絶対に、日常に戻れるから、と。
     首輪を付けられている人間達は、皆目に生気がない。傷だらけの人もいるし、欠損しているヤツもいた。というか、ここって本当に日本だよな? それくらい現実感がない光景だ。
     どくどくと暴れる心臓を落ち着けるべく、俺は目線を右扉奥へと向けた。さっき来たドアは、イツキが指紋認証っぽいことをしていたから、こっちからじゃ出られないかもしれない。
     でも、プレイルームとやらは出入り自由と今言っていた。なら、そこを突けば……。

    「本日の目玉であるオークションの開催は、時間になりましたらご案内致します。お支払いは現金のみとなります、あ、電子決済はできませんのでご了承くださいませ」

     ははは、と会場に笑いが漏れた。
     なんのブラックジョークだか知らないが、逃げるなら今だ。俺はリードを引っ張り、イツキの手から持ち手の部分を外した。

    「皆様に新しい出会いと芽生えがございますよう……――っ」

     外れた!
     俺は一気に駆け出した。
     幸い、客達は俺を捕まえようとはしてこなかった。むしろ、ニヤニヤと笑いながら俺を見ている。気持ち悪い奴ら。なんなんだよこいつら。イツキも、追いかけてくるかと思ったけど、後ろから走ってくるような気配はない。右奥扉……!
     児玉に見繕って貰った、走りにくい革靴で会場内を走りぬけ、ドアに触れようとしたところで、首からバチッと電気のような音がした。

    「っ ぁぁぁああああぁぁっぁぁああっ!」

     鋭い痛みと熱さに、俺はその場に崩れのたうち回った。クスクスと含み笑いのような声が会場を包み込む。不気味な仮面を付けた連中が、俺を見下ろしてきた。俺と同じように首輪をつけた奴が、能面みたいな顔で俺を見下ろしている。

    「……くそっ……」

     体が痺れて動かない。全身の筋肉に電気が走ったような感覚だった。首輪を外そうとしても、手に力は入らず、ぶるぶると震えながら、床に這いつくばっていた。伸ばした手を掴んでくれるような優しい人は、誰も居ない。その時、後ろからリードが引っ張られ、俺の体は無理矢理持ち上げられた。

    「う゛、ぐぅっ……! かっ……」

     苦しさに一瞬顔が歪んだ。俺はイツキの足に背中を預ける形で床に座り込む。イツキは全く気にしていない様子で、つらつらと話す。

    「申し訳ございません皆様、彼は本日が初めてでして、これから躾けて参りますので」

     周りから、「あら可愛らしい」「イツキ様のペットにしては雑種っぽいわ」「オークションに出るのか?」「間抜けなヤツ」「こういうのを見るのが楽しみなんだ」だの、好き勝手聞こえてくる。
     ペット……? だから、なんなんだよそれ、なんの話してるんだ。締まる首輪に、顔を歪めると、不意に背中を蹴りつけられた。

    「っ!」

     床に顔面を打ち付けたかと思えば、頭の上にイツキの靴が降ってきた。額を床に擦りつけたまま、イツキの声を聞く。

    「アキ、ごめんなさいは?」
    「………………」
    「ごめんなさいって、言ってごらん」
    「………………っ」

     言ってたまるか、というプライドが、俺の中にあった。すると、上から大袈裟なため息が聞こえる。

    「……もうちょっと賢い子だと思ったんだけどなあ。まあでもいたずらっ子も可愛いか」
    「…………っ!」

     そのまま強く背中を蹴られた。けれど、リードがついているので、どこかに転がっていくことは出来ず、ダメージを後ろに流すことすらできなかった。

    「ぎゃっ……っ……っぐ……っ!」

     吐きそうになるのを堪えていると、イツキがテーブルの上にあった何かを手に取った。それがフォークやナイフだと気付いたのは、俺の上からばらまかれ、床に突き刺さってからだった。

    「ひっ!」

     目の前に、食事用とは言えナイフが刺さった。それも、数本。あと数ミリズレたら、手に刺さっていた。

    「ごめんなさいは?」
    「………………ご……」

     掠れた声を無理矢理捻り出し、喉を震わせた。
     怖い。さっきまで、逃げてどうにかしてやろうという勇気が、急激に萎んでいく。目の前の男が、怖くて仕方ない。
     心の中の、恐怖の比率がどんどん大きくなっていく。唇が震える。

    「ごめん、な、さい……」

     かろうじて吐き出した俺の言葉に、イツキはにこやかな笑みを見せ、リードを引っ張った。再び壇上に戻ろうとしているのだろう。抵抗はできなかった。

    「さて皆様! お騒がせ致しました。それでは、ささやかな時間ですがお楽しみ下さいませ~~~っと」
    「あ、う……」

     最後あたりは適当に喋りながら、どんどん先へ進んでいく。俺は未だ力が入らず、痺れる体でなんとかついていく。立てないので、両手両足の四足歩行で、ふらふらと。無様な姿でついていく俺を嘲笑する声が会場内を包んでいた。
     どうしてこんなことになったんだ。
     俺は、昨日まで普通に大学生で、平凡だけどまあまあ楽しい日々を送っていたはずだ。平和だった。それなのに、なんで。こんな突然世界が変わるなんておかしいだろ。悪夢だ。泣きたい気持ちでついていくと、ふと、視界に見知った顔が映った。
     顔は仮面で覆われているが、髪型や髪色、背格好でわかる。
     壁際に立っている三人。
     あれは富士と三家と児玉だ。

    「た、たすっ……!」

     呂律の回らない舌で助けを求めようとして、やめた。
     三人並んだ奴らの首には、俺と同じ首輪が嵌まっていたから。

    ****

    「ほら、アキ。あーん」
    「………………」

     壇上で挨拶を終えると、近くの席に座りながら、イツキが俺の口元に料理を持ってきた。高級そうな料理は、こんな状況じゃなければ喜んで食べていたかもしれないが、今は何も食べられそうにない。
     俺が食べないことにイラついたのか、口を噤んだまま視線を外すと、イツキは笑顔のまま俺の顔を掴んだ。

    「あーん。ほら、口開けろって」
    「…………っ……!」

     だからなんで、お前の言うとおりにしなきゃいけないんだよ!
     俺が何したってんだ。頬に食い込む指が痛いし、食欲も湧かない。でも、食べなかったらまた殴られるかもしれない。
     俺は平和主義で、争いごととは無縁で生きてきた。だから、こんな風に殴られたことだってなかった。
     泣きたくなりながらも、口を開けようとしたところで、別の声が割り込んできた。

    「これはこれはイツキ様、ペットの指導中でしたか?」

     俺の頬を掴んでいたイツキの手から、力が抜ける。さっきまでの楽しげな笑みとは違う、事務的な、営業っぽい笑顔に切り替わった。

    「……ああ、新倉様、何かご用でしたか?」
    「せっかくですから、ご挨拶にと思いまして」

     目線の先には、仮面をつけた少し小太りの中年のおっさんがいた。
     その傍らには、リードを付けられた美少年が立っている。色素の薄い肌に金糸のような髪。薄い布を身に纏っているが、透け感の強い服だから肌まで見える。悪趣味だ。
     イツキは冷めた目を笑顔にして、そのおっさんを出迎えた。

    「いえいえ、いつも私の戯れにお付き合い頂き、感謝致します」
    「ははは、ご謙遜を……、それより、そちらのペットは今日の競りに出されるのですか?」

     競り?
     不穏な単語に、顔を青くすると、イツキが床に座ったままの俺の頭を撫でてきた。

    「いえ、コレは私の個人的なものですので、外に出すつもりはありませんよ」
    「そうですか、いやなに、普段イツキ様が連れられている子からすると随分毛色を変えてきたと思ったので、てっきり競り用かと」
    「それなら尚更、こういった雑種は用意しませんから」
    「ははは、確かに!」

     何を言ってるのかわからないけど、なんとなくわかる気もしてムカつく。ムカつくが、その謎の競りに出されないだけマシなのかもしれない。競りって言い方してるけど、つまり言い方を変えたら人身売買だろ。オークションとか言ってたし、内情はわからないけど、ここにいる首輪をつけた人たちがその競りから落とされた人たちだとしたら……。冷たい汗が背中を伝う。
     なんだよここ、犯罪の温床じゃん……。
     クスクスと笑う中年のおっさんは腹立たしいが、状況が状況なだけに、何も口は挟めなかった。

    「新倉様のペットは、随分と可愛らしいですね」
    「ああ、わかりますか! 最近新調したんですよ。前のはもうダメになってしまったので……ほら、挨拶しろ」

     おっさんに促されて、美少年は恭しく頭を垂れてきた。所作の一つ一つが様になっているし、指先一つまで優雅だった。なるほど、俺が雑種とか失礼なことを言われるのが、こういうのを血統書とかって言うからか。
     つーか、男なのにめちゃくちゃ色っぽい。顔も綺麗だし。……なんでこんな所に居るんだろうな。もしかすると、俺みたいに突然連れてこられたのかも知れない。そう考えると、同情する。
     中年の男は下卑た笑みを浮かべながら、イツキに近づいた。

    「美しいでしょう」
    「ええ、とても」
    「どうです? イツキ様なら特別に今晩お貸し出し致しますが……その代わり融資の件をですね……」

     肉の乗った顔を歪めながら、中年の男が耳打ちしてきた。しかし、イツキは笑顔でそれをかわす。

    「生憎、本日は予定がありまして。新倉様も、どうぞパーティをお楽しみ下さい」

     ばっさりと断られ、男の顔から笑みが消えた。

    「え……あ、そ、そうですか。それは失礼。気が変わりましたらいつでも。おい、行くぞ……!」

     断られるやいなや、慌てたように男はリードを引いて退散していく。男が視界からいなくなると、イツキがため息を吐いて呟いた。

    「はぁ~~、キッショ」
    「………………」
    「何が一晩だよ。ペットに欲情するわけないのになぁ?」
    「え……と」
    「アキは、飼ってる犬や猫とセックスしたいと思う?」
    「………………」

     俺は緩やかに首を振った。昔、猫を飼ってたことがある。子供の頃の話だ。
     俺も妹もそれはもう可愛がってはいたけど、そんなことを思うことはないし、今も思わない。つーか、それはもう特殊性癖の類いだろう。
     ペットはなんていうかこう、愛でる為に居て、一緒に居ると癒やされるからで……。そこまで考えて、俺は自分が今ペット扱いされているのだと思い出した。
     こいつ、俺と一緒に居て癒やされるのか? まさかね。さっきめちゃくちゃ蹴られたしな。俺がペットなら動物虐待だし、保護団体に訴えられてもおかしくない。
     まだ腹はズキズキ痛み、体を動かすと鈍痛が響く。そもそも、なんで俺がこんな目にあっているんだろう。

    「あの……」
    「ん?」
    「なんで、俺にこんなことすんの……?」
    「え? だから、別に帰りたいなら帰してやるよ、と言いたいところだけど、もうアキは色々見ちゃったからなあ。ここで見たこと聞いたこと、全部公言しないなら、逃げてカホと変えてもいいよ」
    「っ、だからそれが!」

     思わず声を荒げていた。一瞬、周りの人間が俺たちを見た気がしたが、すぐにまた興味なさげに、元の歓談へと戻っていく。

    「……だからそれが、なんでだよ……、俺も夏帆も……、別に特別な人間じゃない、こんなところに居るようなキャラでもないだろ……なんで俺……」

     住む世界が違う、なんて言葉、実際使う機会があるとは思わなかったけど、そう思うんだから仕方ない。
     俯く俺に対して、イツキは何も言わなかった。そもそも、俺と対話する意思もないのかもしれない。だってこいつは「ご主人様」気取りだから。「ペット」の要望全てに答える義務はない。
     ただ、じっと俺のことを見つめてきた。その黒い瞳が不気味で、俺はイツキの顔を見れなかった。

    「アキは妹想いなんだな。優しい性格だ」
    「別にそんなんじゃ……」

     ってか、普通こんなの誰でも断るだろ。優しいとかじゃない。けど、イツキはそうは思わなかったらしい。

    「よし、じゃあゲームしようか」
    「は……?」
    「これから三十分、アキを自由にしてあげる。首輪も外してあげるから、電撃も食らわない。だから、その間に屋敷から出られたらアキの勝ち。アキが勝ったら、もう、アキにもカホにも関わらない」
    「…………マジ?」
    「うん。その代わり、捕まったらアキには選んでもらう」
    「選ぶ?」
    「このまま俺のペットになるか、それとも逃げて夏帆を差し出すか。優しいから二択にしてやるよ」
    「………………」
    「どうする? やる?」

     罠だ。
     だってわざわざご丁寧にこんな首輪までつけて、俺をここに連れてきたくせに、そんな簡単に逃がすような真似をするだろうか? イツキの性格を考えるに、そんな優しいタイプとは思えない。というか、優しい人間は人に首輪をつけてボコボコ蹴ったりしない。
     もしかしたら、絶対に逃げられないと踏んでいるのかもしれないし、それこそ、周りの人間に協力させて……。

    「心配しなくても、追いかけるのは俺一人だよ。ポチもミケもタマも協力しないから」
    「っ」

     まるで人の心を読んだように言われ、俺は息を詰まらせた。
     
    「イツキが、う、嘘ついてるかもしれないだろ……」
    「あ、それ言う? 嘘じゃないけど、信じることもできないもんな。じゃあ、やめとくか~」
    「っ、待って! いや、待って、ください」
    「ん?」
    「やる……」
    「やる? 頼み方がなってないなー」
    「や、やらせて、ください……」

     結局俺は頭を下げた。
     だって、どんなに胡散臭かろうが、俺にとって不利だろうが、助かる道が少しでもあるなら、それに縋るしかない。

    「オーケー、じゃあ、これから三十分。頑張って逃げてね、アキ」

     俺の首輪を外しながら、イツキが俺の額に口づけしてきた。ぞわ、と鳥肌が立って後ずさる。

    「な、なにっ……」
    「? 何が?」
    「いや、今…………、なんでもない、です。外してください……」

     なんで今額にキスした? と思ったけど、コイツからすれば、俺は人間ですらなく、ただのペットで、キスというつもりもないのかもしれない。動物にキスするような感覚だ。それより、早くこの違和感ある首をどうにかしたかった。イツキの手が俺の首に触れる。
     急所に触られると、首筋に鳥肌が立った。その様を見つめながら、イツキが笑みを漏らす。
     う、ゾワゾワする……。
     カチリ、と音がして首輪が外れると、ようやく空気が首に触れた気がした。首筋を指で撫でると、少しヒリつく。赤くなっているかもしれない。

    「………………」
    「俺がスタートって言ったらスタートな~」
    「その前に、確認がある」
    「ん?」
    「俺が、屋敷から出られたら俺の勝ちなんだよな?」
    「うん」
    「三十分経って、俺が屋敷から出られず、お前も見つけられなかったら?」
    「あはは、そんなことは、三十分経ってから言えよ。はいスタート。五分経ったら俺も行くから」
    「えっ」

     いや、確認させろよ、と思ったけど、時間は有限だ。
     歯がゆく思いながらも、俺はパーティ会場を駆け出した。

    *****

     パーティ会場の壁には、沢山のドアがあった。けれど、どこも鍵がかかっていたようで、開かない。そもそも、ダミードアのようなものもあったし、全てのドアを試しているような時間はなかった。
     結局俺は、イツキが言っていたプレイルームとやらに続くドアを開け、そのまま階段を駆け上がっていった。
     紫とピンクの照明が足下を照らし、一本道はどこかへと繋がっている。でも、地上に出られたなら、最悪窓をたたき割れば外に出られる。
     最初は携帯で外の誰かに連絡しようと思ったけれど、電波が通じなかった。もしかしたら、山奥だからか、あるいは妨害電波的なもんがあるのかもしれない。

    「はぁ……っ!」

     もう、イツキは追いかけてきてる頃か? ていうか、この屋敷から出た所で、どうやって帰ればいいんだ。
     今何分経った? あと何分?
     腕時計を何度も確認しながら、足を走らせる。不安と恐怖ばかりが胸に募った。けれど、それに怯えてばかりもいられない。
     駆け抜けた先には、長い廊下と、壁にはまたいくつかのドアがあった。一番最奥にもドアがある。
     ……どれだ? どれが出口に繋がっている? 今のところ、窓の一つもない。けれど、部屋の中には窓があるかもしれない。俺は一番近くのドアの前に立ち、ドアノブを握った。しかし、鍵がかかっているのか開かない。ということは、誰かが中にいるってことだ。

    「あの、誰か居ませんか……!」

     ドアを叩くが、誰も出て来ない。

    「…………居ない……?」

     いや、居ないにしては、中から物音が聞こえてくる。誰かが中に居るのは確かなはずだ。いけないと思いながらも、俺はドアに耳を這わせた。すると、ドアの向こうから僅かに人の声が聞こえる。

    『あぁっ、……いいっ……そこっ……! あっ、あんっ! 素敵ぃ……っ』
    「………っ!」

     慌てて耳を離し、そのドアの前から離れた。女の人の声だった。しかも、艶のある嬌声は、明らかに行為の最中だった。
     夢中になりすぎて、俺のドアを叩く音も聞こえていないのかもしれない。

    「くそ……っ」

     あのドアは見なかったことにして、次のドアへと向かう。

     けれど、結果はどれも同じだった。
     ドアはすべて閉ざされており、奥では誰かの喘ぎ声か、または無音。プレイルームっていうのは、そういうプレイをしているって意味だったのかもしれない。何がプレイルームだ。悪趣味の極みだ。ラブホかよ。
     舌打ちをしながら、俺は最後に、一番奥のドアへ向かった。
     正直、このドアが開かなければ時間のロスだし、次どこに向かえばいいのか解らない。
     頼む、開いてくれ、という気持ちでドアを開くと、あっさりとドアは開いた。

    「…………!」

     よし、開いた!
     勢いよく足を踏み出し、中に入ろうとしたところで、足を止めた。むっとした甘い匂いが充満した部屋の中は、どこか汗と精の匂いが紛れていた。入り口のドア前に、薄いカーテンの様な物が下りていて、中の人の顔まではまだ見えない。

    「うっ……」

     反射的に鼻と口を腕で押さえると、ドア横に立っていた使用人らしき男二人が、俺の背中を押し、ドアを閉めた。

    「お一人ですか?」
    「あ、いや俺は……、あの、た、助けてくださいっ。俺、この屋敷から出たくて……! じ、自分の意思でここに来たんじゃないんです!」
    「お飲み物をどうぞ」

     ここのスタッフなら、もしかしたら屋敷からの逃げ方を教えてくれるかも知れない。そう思って片方の男に訴えたが、男はにこりと笑って、カクテルのような物を差し出してきた。顔に仮面は付けていない。

    「いや、いらないです。それより俺、今逃げてて……!」
    「中へどうぞ」
    「あ、あのっ、俺別に中に入りたいわけじゃなくてですね!」

     とはいえ、ここを出たところでまたあのパーティ会場に戻るしかない。この部屋の中に窓があれば、そこから出られるかもしれない可能性はある。

    「………………っ」
    「お飲み物は何に致しますか?」
    「……水で……」
    「畏まりました」

     そのまま奥へ案内されると、再び異様な空気だった。薄いヴェールのようなものを潜ると、部屋の中にもそのヴェールが天井から下がっていて、いくつかの部屋のようになっている。ピンクやら紫色の照明でやたらとムーディに飾られた室内は、熱気と甘い匂いに溢れていた。
     なんだか、嗅いでいると頭がぼうっとしそうな匂いだった。
     はっきりとは見えないが、部屋の中に居る奴らは、仮面を付けている人間と、首輪を付けている人間のどちらからしい。俺はビクビクしながら、案内人の後ろをついていく。
     カウンターにはバーテンダーのような人も居て、イカれたバーみたいだ。今のところ、部屋の壁に窓らしきものは見当たらない。

    「あの、出口とかってどこに……」
    「お冷やをどうぞ」
    「あ、だから……」
    「どうぞ」
    「………………」

     ずい、と進められ、俺は目を泳がせた。こんな所で出された飲み物なんて、絶対に飲みたくない。けど、飲まなきゃ進まないような雰囲気だった。

    「……今、喉が渇いてなくて」
    「どうぞ」
    「……出口を」
    「どうぞ」
    「………………」
    「どうぞ」

     不気味だった。なんだこいつ、NPCかよ。同じことしか言わない取り決めでもあるのか。何もかもおかしいけど、ここに来てからずっとそんな感覚だから、もう麻痺してしまった。おかしいのなんて、全部だもんな。
     仕方ない。飲んだふりをして、そっと吐き出してしまおう。

    「じゃあ、いただきます……」
    「どうぞ」

     一口だけ口に含むと、冷たい水が口の中に広がった。よし、あとはわからないように袖の中にでも出してしまえば……。
     そう思った瞬間、突然後ろから羽交い締めにされた。

    「っ!?」

     驚く俺を余所に、目の前に居た男が、俺の鼻と口を押さえつけてきた。

    「んぐっ……!」
    「はい、飲んで下さいね」
    「んーーーっ!」

     は、吐き出せない……! 息が、続かないっ! じたばたと手足を暴れさせたが、すごい力で押さえつけられ、吐き出すことは敵わなかった。
     ごく、と喉を通ると、男が満足そうに笑って手を離してきた。

    「な、何……飲ませた……?」
    「お冷やですよ」
    「首輪のないペットは、自由にしていい取り決めとなっていますので」
    「は……? うわっ!」

     体が掴まれ、手のひらが無遠慮に俺の体を触った。気持ち悪さに鳥肌が立つ。なんだよその取り決め? そんな話聞いてない!
     男の手が、痕が残っているであろう俺の首に触れた。

    「それにしても誰のペットだ?」
    「捨てられたんだな」

     違う、俺はペットじゃないし、捨てられたわけでもない。ただ、ただここから逃げたいだけなのに!
     恐ろしさのあまり、その手を振り払い逃げ出した。

    「あっ」
    「逃げたぞ!」
    「…………っ!」

     なんで、どうしてこんなことになったんだ!
     出口はどこだ 帰りたい! 早く家に帰って、ご飯を食べて、暖かい布団で眠りたい。それがどれだけ幸せなことだったか、今更思い知る。目元にじわりと涙が浮かんだ。

    「はぁっ……はっ……!」

     さっき飲まされた変な水のせいだろうか。それとも、この部屋を漂う甘い香りのせいだろうか、妙に体が熱くなって、足に力が入らない。それに、うまく呼吸も出来ない。でも、逃げないと。ここから早く逃げないと、あいつが追ってくる。

    「うっ……!」

     一瞬、足が縺れて、俺は垂れ下がっていた近くの布を引っ張った。中にいた人たちと目が合う。太った男と、ガタイのいい男。
     二人とも衣服は乱れていて、明らかに行為中なのはわかったけど、こっちだってそれどころじゃなかった。

    「た、たひゅ、けて……」

     呂律の回らない舌で手を伸ばしたが、太った男に手を踏み潰された。

    「ぎっ!」
    「なんだ? 誰のペットだ? 首輪の痕があるが逃げ出してきたのか? 丁度いい。お前も可愛がって……」

     俺は溜まらず駆け出した。
     足が痛い。いや、力が入らない。心臓の音が頭に直接鳴り響いて、おかしくなりそうだった。視界が霞み、自分の呼吸音だけがばかみたいにデカく聞こえてきた。

    「はっ……、はぁっ……うあっ……!」

     途中、無様に転んだ。
     テーブルの上に座っている女と目が合った。半裸の女は上から俺にワインをぶっかけてきた。

    「キャハハハハハハハ!」
    「っ……うぅっ……!」

     びちゃびちゃと音を立てて赤ワインが俺の顔にかかる。這うようにして、逃げ出した。児玉に見繕って貰った高級そうなスーツは、赤ワインで見る影もなく赤く濡れた。

    「っ」
     
     地面を這っていると、今度は見知らぬ男の靴が、顔に当たる。そいつは気付いていなかったのか、そのままどこかに行ってしまった。鼻が熱い。
     床に赤い点が落ちたとき、鼻から血が出ていることに気付いた。

    「うぅ……」

     痛い。
     体も痛けりゃ、鼻も痛いし、手も痛い。それに、視界が回るように頭も痛い。なのに、下半身にはやけに熱が集まってくる。あいつらに飲まされた水のせいか。今何時だ? イツキとの勝負の時間は、あと、どのくらい残ってる。
     腕時計を見ようと腕を動かしたところで、頭を床に押しつけられた。ごつっ、と鈍い音がして、頭が揺れる。

    「会場内を汚さないで下さいね~」

     さっきの入り口にいた男だ。振り返る事も出来ず、涙が出てきた。

    「う、うぅ……っ」
    「ああ、泣いちゃったよ」
    「部屋に連れて行こう」
    「何号室にする?」
    「どこでもいいさ」

     だから、どうして俺がこんな目に遭わなきゃいけない。どこで間違えた? あの日、イツキに声をかけなきゃよかったのか? そうしたら、今ここに居たのは夏帆だったんだろうか。
     そんなことを考える自分にも嫌気が差した。
     まるで、夏帆を犠牲にすれば自分は助かったのに、と思ったみたいで。確かに仲はよくないけど、別に夏帆にこんな目に遭って欲しいと思ったことなんてないのに。

    「うーーーっ……うっ……ぃやだぁ……」

     ぼろぼろと涙を溢しながら、ずるずると引きずられていく。鼻血とワインで薄汚れたスーツが惨めに見えた。いや、惨めだ。
     せっかくセットして貰った髪も、服も、ズタボロで傍から見たら、惨めなことこの上ない。誰か助けて。
     誰でもいいから、頼むから。お願いします。
     助けて。

    「た……」
    「助けて欲しい?」
    「………………?」

     コツ、と革靴の音が聞こえた瞬間、俺を引きずる男達の足が止まった。

    「あ、イツキ様……」
    「どうか致しましたか?」
    「助けて欲しい? アキ」

     イツキは男達を無視して、俺に声をかけてきた。
     それから、嬉しそうな顔をして、俺の前にしゃがみ込む。その明るい笑顔は、表向きのイツキの顔だった。
     整った顔に溌剌とした笑顔。ズタボロになった男に向けられる顔じゃないけど、俺はもう余裕なんてなかった。このままここに居たら、どんなことをされるかわかったもんじゃない。
     いや、少しだけ予想がつくから余計に恐ろしかった。

    「ほら、もうすぐ時間切れだよ」

     イツキが、腕につけていた高そうな時計を俺に見せつけてくる。確かに、もう三十分まで間もなかった。

    「助けて欲しかったら、助けてやるよ、アキ。俺にお願いしな?」
    「なんで……」

     こいつが、何を考えているかわからない。お前が始めたことなのに、助けるってなんだよ。けど、助けて貰えなかったら、俺の未来はもっと絶望的なものになる。
     助けて貰えるなら、と俺はプライドをなげうって、口を開こうとした。

    「たす……」
    「助けてって言ったら、夏帆と交換してあげる」
    「………………」

     けれど、その言葉を聞いた瞬間、言葉を止めた。
     あまりに明るく、世間話でもするようにさらっと言われたので、俺は言葉を失ったのだ。

    「交換……?」
    「そう。そもそも、最初は夏帆の予定だったしね」

     こいつは、思えば最初からそればっかりだ。まるで、俺が妹を売るのを望んでいるみたいに、夏帆と変わるか聞いてくる。

    「別に仲良しじゃないんでしょ? 夏帆も言ってたよ。お兄ちゃんのことが好きじゃないって。それなのに、庇う必要なんてなくない? ここでアキが助けてって言っても、アキは悪くないよ」
    「………………」

     まるで、悪魔の囁きだった。
     ……そうだよな、別に仲良しじゃないし、そもそも、俺が口だししなけりゃ、ここに居たのは夏帆のはずだった。なんで俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだ。
     助けて、って、そう言えばいいだけなんだ。それに、とりあえず逃げて、後から警察に訴えるって手だってある。だから、とりあえず助けてって……。

     言えば助かる? 本当に?
     今まであったことを思い返して、そうして、先日夏帆と話した記憶を掘り起こした。
     本当に好きなんだって、言ってたよなぁ。あの地味だった夏帆が、すげえ変わった。イツキのこと、優しいとか言ってたっけ。
     ふ、と気がつけば口元に笑みを浮かべていた。

    「は……ははっ」
    「ん? 壊れちゃった?」
    「あははははっ!」

     そういえば、大学のイツキの噂、なんつったっけ? 女を風俗に沈めてるとか、薬やってるとか、ヤクザと繋がってるとか、だっけ? なーんだ……全部噂より悪いじゃん。もういっそのこと笑えてきた。
     笑ってる俺を、イツキは困惑気味に見つめている。

    「おーい、アキ? 早く助けてっていいな?」
    「…………助けなくていい」
    「は?」
    「誰がお前に助けてなんて言うかっつったんだよ、死ねクズ野郎! 夏帆はお前のことマジで好きだったんだ! あの愛想も可愛げもない女が、お前の為に努力して変わったんだ! それを……っ!」

     悔しい。
     マジで悔しい。なんでこんな男好きになったんだよ。
     あいつ男を見る目ゼロだろ。大体、男なんて思ってなくても口から適当なこと言って、可愛くなくても可愛いとかなんとか言うんだよ。あっさり騙されてんじゃねえよ馬鹿夏帆。
     涙が溢れる。でも、これは痛くてじゃない、悔し涙だ。
     イツキは、さっきまで浮かべていた明るい笑みを打ち消して、無表情で俺を見下ろしてきた。

    「はぁ~~~……アキって馬鹿?」
    「馬鹿はそっちだろ」
    「なんで別に仲良しでもない妹を庇うわけ? 意味わかんねえ」
    「お前が馬鹿だからわかんないんじゃね? 仲良くなくても、妹なんだよ。家族だから! こんな目に遭って欲しいわけねえだろ……! ああわかった、お前家族仲悪いんだ。性格悪いし、家族から嫌われて、……っ!」

     ごっ、と鈍い音がして、腹を蹴られた。
     肋骨がミシミシと音を立てる。俺を押さえつけていた男達は、狼狽えたように後ろへと下がっていた。セックスをしていた周りが、興味深そうに俺たちに目線を飛ばす。

    「それが答え? なあ」
    「っ、ぐっ、ぎゃっ……」
    「つまんな」

     ぐりぐりと骨を圧迫され、痛みに顔を歪めた。けれど、イツキは踏みつけてくるのをやめない。けど、今更屈する気もなかった。
     こんな最低野郎に、頭を下げるなんて、まっぴらごめんだ。

    「たった一言、助けてって言えばいいだけなんだ。それだけで、お前は救われるのに、どうして言わないの?」
    「………………はは、お前マジで頭悪いだろ、そんなこともわかんねえの? ――っぐっ」

     強く蹴られた。
     やばい、頭がくらくらする。絶対体中痣になってる。鼻血がぼたぼたと床を汚し、呼吸に空気の漏れるような音が混じる。

    「わかんない。教えて?」
    「………………」
    「おい、気絶しようとすんな。ちゃんと答えてけよ」

     ぺちぺち、と頬を平手で叩かれる。俺は朦朧とした意識の中、掠れた声をあげた。

    「……後悔するから……」
    「………………」
    「お、れが助けてって、言って、夏帆が、こういう目に、あ、あったら、後悔、する……」

     理由なんて、それだけだ。
     本当は、怖いし、痛いし、助けて貰えるなら今すぐ助けて下さいって土下座したい。相手がこいつでも、土下座して、靴でも何でも舐めて、頭を擦りつけるくらいはできる。でも、こいつはどうせ助けない。
     逃がしてもくれない。
     そんな甘いヤツじゃないことくらい、ここに来るまででわかっている。 だから、俺が自分の身かわいさに夏帆を売ったら、きっと俺は死ぬまで後悔する。今まで俺が体験したことが、全部夏帆に降りかかる。そう考えただけで、嫌な気分になる。
     それに、夏帆は女だぞ。男とは体のつくりも違うし、俺より力だって弱い。守ってやらなきゃ、とは思ってないけど、こんな目に遭わせるつもりはなかった。
     初めて恋する女の顔をしていた妹を踏みにじるほど、人間終わってないんだよ、こっちは。
     俺を踏みつけるイツキの足から、力が抜けた。
     圧迫感が消えて、思い切り咳き込むと、元々ぼやけていた視界が更に歪む。気持ち悪い。体が熱い。ぐにゃぐにゃと歪んでいく視界に、頭の奥が冷たくなって、意識が遠のいていく。

    「げほっ……、かはっ……っ」
    「………………」

     イツキが俺の首に手を伸ばしてきた。擦れた痕をなぞったかと思えば、カチリ、と首輪の嵌まる音がする。
     抵抗はできなかった。そんな気力も、体力も、何も残ってない。体に力が入らない。
     瞼が重くて、もう目を開けていられない。そのまま閉じると、暗闇の奥から声が聞こえる。

    「イツキ様、あの……」
    「これ、俺のペットだから」
    「えっ」
    「あとで触ったヤツ教えて」
    「………………は、はい……」

     どこか怯えるような声が聞こえた。
     体が揺れて、持ち上げられる感覚があったけど、意識が途切れたから、その先は覚えていない。

     
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