森の中で魔王軍の襲撃に合い交戦となった。躊躇うことなくマトリフへと向かって来たガンガディアの攻撃を避けながらマトリフはトベルーラを使い木々の間を器用に駆け抜けていく。しかし器用さはガンガディアも十分に持ち合わせており不敵な笑みを浮かべながらマトリフの後方から追い上げていく。初めてサババの町中でそうしたようにその後も何度もトベルーラで追い追われを繰り返していた。
しつけえな、とマトリフは内心で呟きながら少しでも仲間たちから引き離すためにスピードを上げた。魔法力には自信があるが体力に関してはそうでもない。自他ともに認めるところであるそれを思いながらマトリフは舌打ちしつつ肩越しにガンガディアを見遣る。
マントで隠しながらバギマを唱えて不意をついてからのベギラマを撃つ戦法に対してはすでに警戒されているだろうから、マトリフは少し考えてニヤリと笑った。頭の固いガンガディアの意表を突くのにうってつけの呪文を思いついたマトリフの笑みはとても勇者の仲間とは思えないほどに黒い。
悪巧みを思いついた餓鬼のような顔を見てガンガディアの額にビキッと青筋が浮かぶ。
「なにを笑っているのかね?君はもう今すぐにでも私に捕まるというのに」
棍棒を持っていない方の左手を伸ばしたガンガディア。その指先がマントに触れたことでマトリフ以上にあくどい笑みを浮かべたガンガディアは一気に速度を上げて、ついにマトリフの身体をその手に掴んだ。大きな手で細い胴体を鷲掴みにして引き寄せる。高速トベルーラの勢いを弱めてガンガディアはマトリフの小柄な身体を木の幹に押し付けて、二人はようやく止まった。
「ついに捕まえたぞ大魔道士!!」
歓喜の声を上げるガンガディア。
しかし、
「誰を捕まえたって?」
マトリフのその声と共に、ガンガディアの手の中にあったはずのマトリフの身体が四散した。
「!?」
瞠目するガンガディア。ピンクの煙を撒き散らし姿を消してしまったマトリフ。間違いなく捕まえたはずが、どういうことなのかとガンガディアの手だけでなく全身が打ち震えた。
「どこに行った大魔道士!?」
「オレァここだぜ」
背後から聞こえた探し人の声にガンガディアは反射的に振り返る。ピンクの煙が充満していくその場所で、トベルーラでふわふわと浮いていたのは紛うことなくマトリフだった。
「いつの間に」
「ここにもいるぜ」
「なに!?」
ガンガディアは再び目を見開いてさらに声の聞こえた横を向く。すると何故かそこにももう一人のマトリフの姿があった。
さらに驚きは続いた。
「おいおい何言ってんだ。オレはここだぜ」
「こっちだっつーの」
「ばーか。こっちだよ」
「ほら、どうしたよ、オレはここにいるぜ」
「オレを早く捕まえてみせろよ、なあデカブツ」
ケケケッ、と笑い声までが至るところから重複してその場に響き渡った。
呆然とするガンガディアだったが、すぐに原因に思い至る。
「マヌーサか!!」
「おお!正解!!」
「本物のオレを見つけてみろよ」
「できるもんならなぁ」
何人ものマトリフがそよ風の如く浮遊している。どのマトリフもおかしそうに笑っており危機感がまるで無い。端からガンガディアに見極められるとは思ってはいないようだ。そのことも相俟ってガンガディアはさらに全身の血管をビキビキと盛り上げていく。
「あーあー」
「そんなんじゃダメだダメだ」
「もっとクールにいこうぜ」
「なあ、インテリトロルさんよぉ」
あきらかにガンガディアを挑発する台詞を何人ものマトリフが口々に吐いていく。
「――ガンガディア」
不意に、その声は他と違い凛としてガンガディアの聴覚を震わせた。バッ、と声の主へと顔を向けたガンガディアだったが、そこにもやはり何人ものマトリフがふわふわと浮いていた。
「今のは……」
スッとガンガディアの頭から血が引いていく感覚がした。冷静になれと自分に言い聞かせる。何人いようがマヌーサによる幻覚だ。本物のマトリフはたった一人しかいない。そう、ガンガディアが心の底から憧れてやまない存在は、たった一人しかいない。
「大魔道士……」
ガンガディアは目を閉ざす。右手に持っていた棍棒を手放す。ドン、と重い音がしたが気にかけることもなくガンガディアは意識を集中させた。
身動きせずに佇むガンガディアの周囲を何人ものマトリフがふわりふわりと軽やかにくるくると緩やかに纏わり付く。ある者はガンガディアの肩に触れ、ある者はガンガディアの耳に触れ、そのどれもが熱を持たないただの幻によるもの。それでも、誰一人としてガンガディアに攻撃を仕掛けてくる者はいなかった。
ふと、ガンガディアの唇に触れるぬくもりがあった。
意識を集中していたガンガディアはその感触を受けて、一瞬の間を置いて、勢いよく目を開いた。
視界には光の粒子。ゆるりと見上げれば光の筋の名残が僅かな軌跡を残していた。
「……せめて答えを聞いてから逃げたまえよ……」
ガンガディアが本物のマトリフを見つける可能性があると踏んだのだろう。ルーラを使った痕跡を見遣ってガンガディアはその場に胡座をかいて座り込んだ。周囲に霧散していたピンクの煙が消えていった後にはその場にはガンガディアだけがいた。
マトリフがその気になればマヌーサで動揺しているその隙を狙ってガンガディアを倒せたはずだ。ベタンでもベギラマでもなんでも攻撃呪文を撃てば良かったのだ。
それなのに、
「いや、お互い様か……」
ガンガディアは右手で目元を覆って項垂れた。その右手には先程まで棍棒が握りしめられていた。トベルーラで距離を縮めた時、手を伸ばせば届く距離にまで迫った時、左手を伸ばして捕まえるのではなく右手に持った棍棒を振り翳して叩き落とせば良かったのだ。それだけでマトリフを倒せていたかもしれないのだ。しかし、ガンガディアはそうしなかった。
目元を覆っていた手を今度は口元へと移動させて、下唇を指先でなぞった。
憧憬だけでは留まらなくなっている自分の感情に名前を付けられない。マトリフに問えば、なんと答えるだろうか。先のマヌーサの折、ガンガディアの名を呼んだあの声は本物のマトリフの声帯によるものなのだろう。
ガンガディアの唇に触れて、そして逃げていったマトリフ。勇者一行がいる場所へと戻れば、そこにマトリフもいるのだろう。否、もしかしたらもうルーラで仲間たちを連れて別の何処かへと移動してしまったかもしれない。
次の指示を待っているであろう部下たちに命令を出さねばと思いつつも、ガンガディアはもうしばらくその場に座り込んでいた。
ガンガディアの唇に触れた温かい濡れた感触。少しカサついたそれが、僅かに感じた吐息が、マトリフのどこがガンガディアの唇に触れたのかと、考えれば考えるほどにガンガディアは自分の顔が沸騰しそうなほどに熱を帯びていくのを自覚していった。
ひょっこりと現れた悪魔の目玉をガンガディアが叩き潰すのはこの5秒後のことである。