シマフクロウと湖 夜の森を歩き進めていく。今日おちたばかりの落葉をふみしめて。
昼間に歩いて回るときと同じなのに、夜の雰囲気によって音が少し違って聞こえる。ひんやりと乾燥した空気が耳元を過ぎていき、わずかに服にも入り込んだ。日々深まる秋のなかに、冬の気配が混ざり始めていた。そろそろ毛皮の服がほしい時期になっていた。
「毛皮の服が欲しいな」
「そうだね」
同じことを考えていたらしい声がすぐ近くから聞こえた。口元で笑ったが、きっとそこまでは見られていないだろう。
話したのはそれくらいだった。
夜の森の、深いところを進んでいく。ふたりで、ほとんど言葉を交わすことなく。最初、道はゆるやかな上り坂だった。言われなければ気付かないくらいの傾斜で、なおかつ道は舗装されていない。落葉をふみしめ、たまにパキンと小枝の折れる音もたてながら、少しずつ高いところに進む。さっきよりも寒くなっている気はするが、体温が上がっているから冷えはない。
羽京が半歩前を歩き、龍水がほんのわずか斜め後ろにいる。子どもたちと歩く時と違い、歩調を気にすることなく、羽京は自分の歩幅で歩いていた。龍水の足音はさっきからずっと聞こえている。振り返る必要はなかった。耳がいいと、こういうときも便利だ。
上を見上げれば、まだ葉をつけている木々によって空が遮られている。ちらちらと月明かりがのぞくだけで、足元を照らしてくれそうにはなかった。
どれくらい歩いたか分からないほど、それほど歩き続けていると、やがて視界の先がふわっと明るくなった。夜の色にすべて染まったままだったが、視界を遮る木々があけて、満月によって明るい夜空が見え始めた。
「そろそろだ」
ぽつんと呟いた。近くからの返事はない。
ゆるやかな上り坂はいつのまにか終わっていた。森の終わりが見えて、そこに進み続けて、ようやく出口に立つ。
龍水もそこで立ち止まった。
急に終わった森の淵で、今まさしく視界に広がっているのは、視界におさまるほどの湖だった。
夜の湖に、満月の空が映りこんでいる。視界の中にまるく輝く金色がふたつあり、空も水面も光っていた。
羽京は景色をじっと見つめる。夜とは思えないほどのまぶしさだった。昼間の明るさとは異なって、確かに夜の色につつまれている。
「どう?」
横に立っている相手に羽京は言葉を投げかける。しばらく経って、息を吐く声だけが聞こえた。羽京はひっそり笑った。
言葉が出ないような光景は世界中に存在している。そして意外と身近にもある。
「よく見つけたな」
「偶然だよ」
龍水がそこに腰をおろしたので、羽京もその隣に座った。
水面の月は、ときどき揺れる。魚が顔を出すときだろうか、湖に波紋がうまれて、それがどこまでもどこまでも広がっていくのだ。海にもなく、川で見ることもない、時間を忘れて眺めていられる光景だった。
龍水がなにか言おうとしたのを察して、羽京は人差し指を自分の唇のまえに立てた。静かに、の合図だった。
耳を澄ます。きわめて静かな湖畔を、風がよぎる。
「フクロウがいる」
そっと龍水を見た。目を丸くして、驚いている表情があった。
ほとんど音を立てずに空気をきるフクロウの、翼がはためくときの低い音を、羽京の耳は拾っていた。
しばらくして水面の月を、黒い影が一瞬だけ裂いた。
「これだけだよ」
後ろ手をついて、空のほうを見上げながら羽京は答えた。
「そのようだな」
「納得してくれた?」
「貴様がときどき夜中に急にいなくなる理由は分かった」
ふ、と龍水が隣で笑っている。この場所のことは誰にも教えないつもりでいたのだが、龍水の勘の良さを前にすると隠すことができなかった。
騒ぐような場所でもないから大勢でくることは無いだろうし、子供を連れてくるには足元が危ない。当分はひとりで過ごす場所になると思っていた、今日までは。
「どうする?」
「なにがだ」
「みんなに教える?」
龍水と視線が合う。龍水はしばらく考え込むように空を見て、光る水面に視線をうつした。
「羽京が」
「ん?」
「貴様が、静かに過ごすことに飽きたら言え。賑やかな奴らを呼んでやる」
「……ふふ。当分は大丈夫かなあ」
「そうか?」
「きみが話し相手になってくれるからね」
じっと見た顔が、なにか伺うようにこちらに向けられている。いつもならばすぐに何か言いそうなのに、今は言葉をなくしている。
あかるいふたつの月に照らされた、無防備な龍水の顔は、きっとここでなければ見ることができないだろう。そう気が付いて、羽京も言葉をなくしていた。
言葉がでないような光景は、意外と身近にあるのだ。