ただならぬ二人 あの二人は絶対におかしい。
南陽航空の少なからぬ社員たちの間で、その認識は共有されていた。
業界でも指折りの中堅パイロット、風信機長。
会社の有望株と名高い、南風副操縦士。
きら星のような二人は、その輝きだけで注目を集めていたのかといえば、それは少し違ったかもしれない。
「南風、どうした」
機へ向かう前にパイロットたちがフライトの確認を行うブリーフィング室。一足先にパソコン画面で雲の様子を確認していた南風が俯いているのを見て、やってきた風信が声をかける。
南風が顔を上げる。その片目は赤く涙でぬれていた。
「あ、風信機長! いえ、さっき外を確認したときに風が強くて、ちょっと目に何か入ってしまって」
南風が目にもっていこうとした手を、風信が掴む。
「擦るな。眼球に傷がつくぞ。目薬もってないのか?」
「いえ」南風が恥ずかしそうに目を泳がせる。
「目薬は、どうしてもうまく目に入らなくて……」
周りのパイロットたちは聞くともなしに聞きながら思った。仮にもパイロットが、そんなんでちゃんと着陸ポイントに着陸させられるのか? 風信も驚いた顔をして言った。
「本当か? 俺もだ」
今度はまわりのパイロット達も、思わず二人を見た。
注がれる視線には気づかず、風信は足元の鞄から小さなケースを取り出し、そこに入っていた袋を破って綿棒を取り出すと、南風の顎に手を添えた。
見せてみろ、という声とともに南風の顎がそっと上へ押しあげられる。瞳を覗きこむ風信の目に、南風の体が固まる。
「ああ、見えた」
風信の指が南風の上下の瞼を指で押さえて、そっと綿棒が動く。
「よし、とれた」
すぐ目の前で笑う笑顔に、南風は瞬きした。
「あ、ありがとうございます」
「目に何か入ったときは絶対に擦るなよ。金属片だったりしたら大ごとだぞ」
そう言いながら風信の親指が南風の頬をそっと撫でる。その間ずっと二人の顔は鼻がくっつきそうな近さにあった。
室内にいた他の便のパイロットたちは思った。
いやいや、どう見ても距離感がおかしいだろ、と。
「えっ、そのチョコレートって……!」
事務フロアであがった声に、デスクワークをしていた社員や通りかかったパイロットたちの視線が集まる。
「あのショコラティエの幻のチョコレートでーす!」
得意げに箱を持ち上げるキャビンアテンダントに歓声があがる。
「おお! 今年のお土産ランキング、ぶっちぎりの一位きたな!」
わいわいと群がってきた社員たちが、我先にと箱に手を伸ばす。
「おい南風、お前もいるか?」
ファイルを抱えて通りかかった南風に、若手社員が手を振る。
「えっ、なになに?! いるいる!」南風が人垣の後ろから覗き込む。
「早い者勝ちだぞ、どれにするんだ?」
箱には、形も色も様々なチョコレートがずらりと整列している。
「えっと、その、ナッツの乗ってるやつ……!」南風が言うが、その手には分厚いファイルがいくつも抱えられている。どこか置く場所はないかときょろきょろ見回す南風の後ろから、ぬっと腕がのびた。
「あ……」
狙っていたチョコレートを摘まんだ指の主を南風の目が追う。「……え、風信機長」
人込みをぬけていく姿を南風が追う。
「ちょ、機長、ひど……」
だが、そこまで言った南風の開いた口に、チョコレートが完璧なタイミングで着地した。
「うまいか?」そう言ってにやりと笑う顔に、南風が頷く。
「よかったな。勉強がんばれよ。試験もうすぐだろ」
南風の手の中のファイルに軽く顎をしゃくり、そしてなにごともなかったかのように部屋を出ていった。
南風も、それを見送ったあと、小さく首を傾げながら反対側のドアから出ていった。
二人とも、室内の視線がチョコレートから自分たちへと移っていることには気づいていなかった。
あの二人、単なる機長と副操縦士としては、ちょっと親密すぎるんじゃないか?
そんな疑念を抱く者は少なくなかった。普通の会社員だったなら、ゴシップで盛り上がるだけだっただろう。だが、哀しいかな二人はパイロットだった。
乗客の安全を背負う者として、そこに馴れ合いや情のもつれがあれば、それは許されないのだ。
フライトを終えて戻ったパイロットが記録を提出する部屋には机が置かれており、パイロットたちが振り返りのデブリーフィングを行う場所にもなっている。夏の終わり、荒れた天候に見舞われたある日、そこに風信と南風の姿があった。
いつになく険しい表情で話す機長の風信に、こちらも固い表情で時折頷く南風。風信の声はよくとおる。部屋の外まで聞こえるような罵倒ではもちろんなかったが、静かな部屋でパソコンに向かっている事務員や、周りの他のパイロット達の耳には届くには十分だった。重い空気が漂う。
しばらくして、風信が立ち上がり、部屋を出ていった。一度立ち上がって見送った南風は、また静かに椅子に腰を下ろした。俯いて固まったまま動かない南風を見かねて、近くにいた年配の機長が近寄った。
「南風、まああまり気にするな」
ぽんと肩に置かれた手に、南風がはっと顔を上げる。
「君の経験値で、あれを判断をしろというのはちょっと無理がある。風信もまだ青いからな」
だが南風は、一瞬考えたあと、首を振った。
「ありがとうございます。でも風信機長は正しい」
ん? と見つめ返す機長の顔を南風は真っすぐに見て、続けた。
「実は本で読んで知ってはいたんです。なのに、とっさに出てこなかった」
南風が視線を落とす。
「今日、初めて指摘してもらえて良かったです」
言葉を選ぶようにゆっくりと続ける。
「だから、今ここで、しっかりと自分の中に落とし込んでおこうと思ったんです」
機長は一瞬目を丸くしたあと、ふっと微笑み、「そうか」と言って、静かにその場を後にした。
そう、確かにあの二人の関係はどうも普通じゃない。
だがそれが問題かと問われれば、誰もそれを非難することは出来なかった。
今は微笑ましく見守ってやればいいんじゃないか? そんな声に異議を唱える者はいなかった。