You≒I 久しぶりのオフが重なったその日、二人は互いへの理解を深めるためのチャレンジをしようと考えていた。ジュンと茨はまだ恋人として付き合いが浅い。出会ってから数年という時を経てはいるものの、その半分以上はビジネスとしての付き合いだけで成り立っていたようなものだ。互いの出自や仕事外での過ごし方など、まだまだ共有できていないことは多い。そんな小さな悩みを零したジュンを前に茨が考え出したのが今日のイベントだ。それは『互いの生活や行動の真似をする』というものだった。
「ジュンは”ミラーリング効果”を知っていますか」
「聞いたことはあります。無意識に好きな人の真似をしちゃうあれっすよね」
「ええ。これはビジネスシーンでも使われる手法で、要は取り入りたい相手の仕草や言動を意識して真似をすることで、相手への好意を示し、警戒心を解くわけですな」
「それで、これっすか」
ジュンは自分の身なりを全身鏡の前で改めて確認した。いつもの動きやすいスポーティーな服装とは違う、どちらかというとフォーマルな落ち着いた格好だ。ジュンはいつもとは毛色の違う服装にそわそわと落ち着かない様子で鏡に映る自分の姿を眺めている。その服は茨が普段、私服としているものだった。相互理解を深めるための最初のチャレンジは『互いの服を交換し合うこと』だった。
「おおっ、さすが美男子は何を着ても似合いますなぁ♪」
「どっかで聞いたセリフ……でもそういって貰えてうれしいですよぉ。背格好も近いから服の交換するのに何の問題もなくてよかったですね」
「……ここは少しきつそうですが?」
そういって茨の指先がジュンの胸元をつん、とつつく。シャツのボタンはきっちり閉まってはいるものの、中心に皺が寄っていた。ジュンは居心地が悪そうにふいっと視線を知らして言い訳を考える。
「き、気のせいっすよ。そういう形の服だってだけじゃないですかねぇ?」
「いまはそういうことにしておいてさしあげます。……後で実際に『触って』確かめればいい話ですしね?」
一度は納得した様子の茨にジュンは胸を撫でおろしかけた。が、耳元で囁かれる言葉にぴゃっと肩を跳ねさせて過剰反応してしまう。だってそれって『そういうこと』でしょう?ジュンが期待を膨らませて問いかけるより早く、茨は部屋から出ていこうとしていた。
「さて、次は自分の番ですな!コーディネートもジュンに任せますからね~」
意気揚々と部屋を出ていいく茨の背中は、いつもより上機嫌に見えた。
*
ジュンの部屋であーでもないこーでもないと他愛のやり取りを交わしながら互いに身なりを整えたところで、まずは腹ごしらえをすることにした。まだ早朝が故に街へ出ても空いている店が少ないだろうということで、ひとまずは星奏館で朝食を済ませることにした。二人でキッチンに移動し、冷蔵庫の中身を確認する。卵とベーコン、レタスやトマトの野菜類を見つけたので、目玉焼きとサラダを作ろうということで意見が合致した。
茨の服装はジュンが愛用しているオーバーサイズのパーカーに細めのパンツ、ついでだからシルバーのネックレスなんかも着けてもらった。モデルが変わるとぱっと見の印象も変わるな、オレが着ているときよりなんとなく上品に見える……とぼんやり考えながら全身を嘗め回すように見ていると、茨はどれだけ捲ってもするすると落ちてくる腕周りの布が煩わしいのだろう、眉間へ深く皺を寄せていた。
「落ち着きませんか?」
「いつもはボタンでしっかり止められるような服ばかり着ているので……ああ、くそ。やっぱり落ちてくる。料理をするのに不向きすぎませんか」
「オレはもうそれで慣れちゃってますからねぇ。茨、じっとしてて」
ジュンは野菜を洗っている茨の背後に立ち、水が跳ねない程度のところまで袖を捲り上げてからストッパーになるように輪ゴムをくぐらせた。
「アームバンドの代わりです。これで落ちてこないでしょ?」
「……ありがとうございます」
「どういたしまして。オレ、卵やっちゃいますね」
ジュンが茨の背から離れてかき混ぜた卵を手に火元の前に立つ。茨はすっかり捲られたまま落ちてこなくなった袖を、どこか残念そうに暫く見つめていた。
共同作業にて完成した朝食は質素なものではあるが、二人で囲む食卓もゆったりと過ごす朝の時間も珍しいものが故、格別に感じられる。仕事へ出ていく同僚たちが好奇の目を向けてくるが、それ以上に『ユニットメンバー同士で朝食を摂るなんて仲が良いな』という感じの言葉を投げられることのほうが多く、二人きりで過ごしていることに疑問を抱いている者はほとんどいなかった。
二人で席に着く。ジュンはいつも通り、目玉焼きにソースを垂らした。いただきます、と両手を合わせてから箸を手に取ったところで「ジュン、待ってください」と茨のストップがかかる。何かしでかしてしまったのかと固まるジュンを前に、茨は自分の皿とジュンのそれを入れ替えた。ジュンの前に置かれた目玉焼きにはソースではなく、しょうゆがかかっている。
「え、と。茨、これは?」
「交換です。互いの味の好みを知るのも、こういう機会でないとできないことでしょう」
「なるほど……」
そういわれてしまえば納得しない他になく、ジュンは同じ色でも独特な和風の香りがする目玉焼きをじっと見下ろした。茨はそんなジュンには目もくれず、いただきます、と一言口にしてから箸を持って料理に手をつけはじめている。ジュンもそれに倣って再び箸を手にした。
まずは交換をした目玉焼きから。焼き加減もお互いの好み合わせている。茨はしっかりと火を通した方、ジュンのものはやや半熟。味の好みとは不思議なもので、その都度、臨機応変に変えられるものもあれば『これだ!』と決めてしまったものは使う調味料や調理法を少しでも変えてしまうと何となく満足できない仕上がりになったりする。しかもそれに個人差があるとなると大変だ。それがはっきりとしている者がそばにいると、尚更。無意識にいつでも我儘放題な相方の姿を思い浮かべていると、椅子の下で茨がジュンの脛を蹴り上げた。
「いってぇ?!」
「箸を持ったままぼーっとしないでください。行儀が悪い」
「机の下で人の脚を蹴んのは行儀悪くないんすかぁ?!」
ジュンの抗議に茨は鼻を鳴らすだけだった。目玉焼きとサラダを交互に食べ進めている。ジュンはこれ以上は何を言っても無駄だと判断し、一つ溜息を零してからしょうゆのかけられた目玉焼きを箸で一口サイズにしてから口に運んだ。
普段、食べているのとは違う、優しいしょっぱさと独特の風味が鼻を抜けていく。どちらかというと味の濃いものを好んで食すジュンではあるが、この味変は悪くないと思えた。茨は黙々と料理を口に運んでいる。味の感想を尋ねてみることにした。
「どうっすか、ソースの目玉焼き」
「別に、普通ですね」
「ええ……?」
想像以上に淡白な感想にあっけらかんとしてしまうジュンを前に、茨は指先で軽く眼鏡を押し上げるような仕草をした。
「そもそも自分、食の好みが曖昧なので。少しまで食えればマシくらいのものしか口にしていなかったですし」
「…………」
茨は時々、ここではない遠くを見るような目で過去を語る。ジュンはその目がなんとなく苦手だった。目の前にいる自分を排除しているような、決してその過去に踏み入れることを許さないと主張している茨の瞳には、ジュンの姿が映っていないから。ジュンが黙り込んでいると、茨はハッとして珍しくバツが悪そうな顔をした。
「それでも、ここ最近は……特に星奏館に来てからはいろんな味を覚えて、誰かにそれを振舞うことで得られる感想から『これが美味しいというものなのか』と意識できるようになりました」
その感覚はジュンの中にもあった。自分の舌だけでは判断できないこともある。特に自身で手掛けた料理に関しては、他人に評価をしてもらうほうが安心できる。自分の作った料理を『美味しい』と言って食べてくれるときの笑顔と、手掛けた料理が並ぶ食卓を共に囲む温かさ。
「茨、これからたまにこうやって一緒にメシ食いませんか。ここで」
「は、」
思いがけない提案に今度は茨が動きを止める番だった。ジュンは最後の一口を飲み込んでから、再び口を開く。
「なんつーか、こうやって食事しながら腰を据えてでしか話せないこともあんのかなって気がするし……茨が作った料理をもっと食べたいし、逆にオレが作ったもんも食べてもらいたいです」
「なぜ?」
「茨のことをもっと理解したいから」
ジュンが素直に思惑を明かすと、数秒の間があって茨が「わかりました」と了承した。お互いに忙しい身の上、もしかしたら次の機会はずいぶんと先になるかもしれない。それでもこうして重ねる約束に意味を見出しているのが自分だけではないと分かっただけで、腹以上に心が満たされていくような心地になった。
*
片づけをしてから、せっかくだし街まで出てみようという話になった。なるべく目立たないように帽子やマスクを着用することになるし、ましてや普通の恋人のように手を繋いで歩いたりなんてこともできないけれど、二人きりで過ごす時間がなによりジュンと茨に充足感をもたらす。肩が並ぶように合わせる歩幅、中身のない言葉の応酬、ときどき触れ合う手の甲の熱さ。全てに感情が突き動かされ、見慣れているはずの景色がいつもより増して色鮮やかに見える。不意に止まる会話、その間に流れる沈黙すらも心地良くて、愛おしい。
気が付くと陽が沈みかけていた。冷たくなった北風が頬を撫でていく。そろそろ屋内に入るべきか、と悩んでいると、隣で茨が一つくしゃみをした。一日ほぼ休まず歩き回ったせいだろうか、陽が傾き始めてから茨の口数が少なくなった気がして、ジュンは顔色を窺うように軽く身を屈めた。
「大丈夫ですか。寒くなってきましたもんねぇ……お腹すいてきたし、そろそろどっか店とか入ります?」
「んー……」
「それとも帰ってゆっくりしましょうか」
「……、ん」
軽く鼻をすすりながら頷く。茨なりにはしゃいでいたのだろう、すでに省エネモードに入っている。明日も朝から撮影だ。無理はさせられない。誰にも邪魔をされず二人きりで過ごした時間に思いを馳せながら歩く帰路も、なかなかに良いものだ。
「ジュン」
ふたたび歩き出すジュンの背を茨の声が引き留める。ジュンが振り返るとその場に立ち止まったまま、無言で片手を差し向ける茨がいた。ジュンは驚きで暫く思考が停止してしまいつつ、足早に茨の元へ向かってその背を思い切り抱きしめた。
「ちょっ、違う、そうじゃないです」
「わかってます、わかってるけど!」
人通りが少ない場所だとはいえ、いつ誰が見ているかわからない。茨は慌ててジュンの背をばしばしと叩き離れるように促した。それでもジュンは離れるつもりがないのか、寧ろ抱きしめる腕に力を込める。茨が諦めたように手をぶらんと下げた。
「……なに、」
「……好きだって、伝えたかったから」
「急に?」
茨からしてみれば予想だにしないことだったのかもしれない。ジュン自身も普段は発揮しない自分の積極性に戸惑いながらも、心の中では納得していた。ずっとこうして、溜め込んでいた茨への気持ちを発散させたかったのだと。
人はそれぞれ異なるサイズのコップを自分の心に持っているのだと、誰かが言っていた。上手く発散できないと、どうしたって溜め込んだものが溢れてしまうことがある。溢れ出したまま受け止める皿なんてどこにもなくて、そのまま垂れ流し続けては自分の存在の意味を忘れてしまうこともある。良くも悪くも、人が一人では生きられないというのは、そういうことなのかもしれない。二人で過ごす時間を積み重ねるほど、一人でいる孤独の恐怖に怯える夜に、思い出すのは今日のことであってほしい。それはジュン自身も、そして茨も。
「ジュン。自分、今日いろいろと試してみてわかったことがあるんです」
「なんですか?」
「好みとか、考え方とか……合うものもあったし、すり合わせてみてもやっぱり理解できないものもありましたよね。それって当たり前っちゃ当たり前のことなんでしょうけど、……ジュンと過ごしていると不思議と、特別に思えてきたんです。その違いすらもジュンが今まで培ってきたものの蓄積だと思ったら、なぜだか……、」
茨が言い淀む。ジュンはそれまでは大人しく茨の声に耳を傾けていたけれど、次に茨が口を開いたとき、咄嗟に片手でその口元を覆った。レンズ越しの瞳が不満げに細められる。
「なにするんですか」
「いや、いま言わないでください……」
「は?なんで」
「さすがに屋外で恋人を襲う変態にはなりたくないから」
「馬鹿じゃないんですか??はぁ……なんだか興醒めしました。とっとと帰りましょうよ、もう」
ジュンの太腿を蹴り上げて離れた茨が、ふん、と鼻を鳴らしてジュンに背を向ける。冗談じゃないですか~と表情が緩みっぱなしになるジュンは茨の片手を取る。ぎゅっと指を絡ませて繋いでも、茨はそれを振りほどかなかった。
「茨ぁ」
「なんですか、ジュン」
「あとでさっきの言葉、また言い合いっこしましょうねぇ」
へらり、と月光より優しく笑うジュンの声に、茨は何も答えない。ジュンと同じくらい熱くなっている体温を交換しながら、月明かりて照らされた夜道に肩を並べて再び歩き出した。