未定その1
「んで?金が払えないっていうのはどういうこと」
「えっと…その…」
応接室のソファーで肩を震わせながら言葉を濁す男を見下ろす。βの身でありながら運命の相手を探して街中でフリーハグをしていたところを補導された。そのまま告訴されて被疑者となって~ってとりあえずこの裁判は俺が勝った。それでいい。問題は、この目の前にいる松野カラ松被告が勝訴したというのにも関わらず弁護士費用を1円も払えないとぬかしやがる、そのことだ。一応、働く気はあったのかハロワには通っているようだし、まぁそれはいいとしてそもそもいい大人が貯金1円もねぇってのはどう考えても人生なめてんだろ。そんなんだからβなのに運命だのなんだのぬかすんだ。イラついてるのを見せつけるように舌打ちして大きくため息を吐く。それだけでジワリと目に涙を浮かべるのだから格好だってただの見せかけなんだろう。クールだなんだと騒ぐ髑髏の付いたらいだーすじゃけっとも、ダメージって言っていいのかって言いたくなるようなダメージジーンズも異様に胸元の空いた白いシャツもお気に入りらしいサングラスも何もかも。痛々しいっていうかなんて言うか、ワイルドでクールな男はこうだ、という意志の元選んでいるらしいが着ている本人の気質が弱すぎる。俺がちょっと不機嫌なさまを見せただけで半泣きになって、何がワイルドなんだか。
「働けねぇ親にも頼れねぇ、アンタ一体何できるわけ?」
「えっと…歌、とか」
「それに何の価値があんの」
「すみません…」
話に入る前まではきりりと上がっていた眉も今は頼りなく下がるばかりで。黙ったままの相手にらちが明かないなともう一度ため息を吐けば目じりに溜まっていた涙がぼろりと零れ落ちた。いい歳した男が泣くなよめんどくせぇなんて思いながら視線を上げれば目を見開いたまま唇を噛んでどうにか涙を耐えようとする姿が目に入って。なんだか、胸の奥が酷くざわついた。こいつを泣かせたのは確実に俺なのに、なんだかそのことに酷く腹が立った。どうしたらいい。どうしたらこいつは泣き止むんだろう。
手を伸ばそうとして、自分の膝を掴む。まだだめだ、まだ。
ずび、と鼻水をすする音が聞こえてガシガシと頭を掻く。そうして、はぁーとため息をついて見せたところですこしだけ、申し訳なさそうにしてポンコツの顔を見た。
「とりあえず、ここに居てもどうしようもないしそろそろ帰ったら?」
「その、」
「なに」
「えっと…帰れなくて…」
「は?」
◇◇◇
松野カラ松は都内に自宅がある。昔ながらの一軒家は両親が建てたものだそうで築年数にするとおよそ30年は経っているとのことだ。その家に、両親、兄弟2人の5人で暮らしていて兄弟は本人含めニート。父親が健在ってことで甘えてるんだろうけどまぁそれはいい。今日ここに来る前その両親は自分の息子たちにこう言った。
「カラ松の裁判の件もあったけれどあなたたちを甘やかすのはもうやめました。これ以上は内にいくらお金があっても足りないわ」
「お前たちが定職について稼ぎを持ってくるまでわしらはこの家を出ていく。その間家には入れない。わかったか」
話を詳しく聞けばどうやら父親に出張が入ったらしい。今までそういうものは断ってきたらしいけれど腹に据えかねたものがあったのかもしれない。言葉通り朝一、寝ているところをたたき起こされて着替えだけ持たされ両親は大きなキャリーケースをもってでていったそうな。兄と弟は何やらつてがあったようでさっさとどこかに消え、途方に暮れたこの馬鹿はもともと今日会う約束をしていた俺のもとにやってきたらしい。
その話を聞いてわざとらしくため息をつく。俺だって慈善事業をやってるわけじゃねぇんだけど、なんて漏らせば正面の男から小さな声ですまない、と帰ってきた。とはいえ、だ。これはなんだか俺にとって都合のいい展開に転がっているのではないだろうか。ちらりと腕時計に視線を落とす。今日はこいつとの面談以外の予定はなく、終わったらさっさと帰ろうと思っていた。だから、この後のスケジュールはもちろん空いている。
「あのさ、」
ぐぅぅ~
「…」
「…」
「っ、ち、ちが、これはっ、その…!」
泣き出しそうに顔を真っ赤にして盛大に音を立てた腹を押さえるその姿に思わずぽかんとしてしまった。あぁ、そういや起き抜けに追い出されて、えぇと、今は17時を過ぎたところで。親から与えられる小遣いで生きてるようなやつだ。昨日までは金がなくても家に帰れば温かい飯も、寝床も用意されていたからきっと金なんてあれば使ってしまうんだろう。笑いの漏れそうな口元を押さえながら松野カラ松の顔を見て、言いたかった言葉を声に乗せる。
「飯でもいく?」
その2
串焼きの皿が2枚、ホッケ、シーザーサラダにから揚げはたっぷり3皿。お茶漬けは鳥、それからキュウリの一本漬け、他は何食べてたっけか。そんなに値段のしない居酒屋は事務所と俺の借りてる部屋のちょうど中間くらいにある。酒は薄目だけど料理のボリュームはあるからそれなりに客も多い。大体ここに来るの、自分で飯作るのが面倒なときとかそういうのが多くてまぁそもそも飯食うのも面倒なときはここにすら来ずに家で寝てるんだけど、って、今はそんなことどうでもいいか。俺の前に置かれてるのはアルコールじゃなくジョッキのお茶。対してポンコツの前に置いてあるのは小さめのジョッキだけれどコークハイ。それでもコンビニで買えるものよりもずいぶん薄く作られているであろうそれを飲んで顔を真っ赤にしてぐでぐでになっているのだから、きっとこいつは俺よりも酒が弱いんだろう。腹を空かせているといったこいつにとりあえず好きなだけ食えばと言って俺はフライドポテト片手に恐る恐る飯を食い始めたこいつを見てた。最初は俺と同じでお茶飲んでたんだけど、酒飲まないのって言ったらコークハイを頼んで。まさかこんなに弱いとは思いもしなかった。依然聞いたときはウィスキーがどうのとか言ってた気がするからこれもカッコつけの一端だったんだろう。まぁ、それは置いておいて。
酔っぱらったこいつは頬を微妙に赤らめ眉をへにゃんを下げたままさっきから何が楽しいのかへらへらと笑っている。思っていた通り朝から何も食べてなかったから、助かったぜ、なんて口調すら少し幼く聞こえる。こういうやつって、そういう界隈で需要ありそうだよなぁとか馬鹿なこと考えて頭を振って思考を掃った。そんなにも広くない座敷の中、周りの客の喧騒だとか有線放送だろうBGMだとか。耳に入るべき音はたくさんあるはずなのにさっきから俺の耳に心地よく響くのは目の前のポンコツの声ばかりだ。
どうしてこんなにのどが渇くんだろう。ジョッキを傾けてウーロン茶を流し込むけれど、渇望が潤うことはない。どうしてこんなにも歯がうずくんだろう。そのたびにポテトを口に放り込むけれど疼きがましになることはない。
一体、と考え込んでいるうちにポンコツがトイレに立って行った。あんなふらふらしてんのに大丈夫かよとも思うけどまぁいい大人なんだし放っておくかとため息を吐いた。ここ数日、俺自身にも不調が出ている。無駄にいらいらしたり、攻撃的になったり、さっきから感じる渇きとか歯の疼きとかもそれだ。今までこんなことはなかったのに、どうして、ともう一度ジョッキを傾ければふすまが開いてポンコツが座敷に戻ってきた。さっきと違い、少し眠そうにしているのを見てまた溜息を吐いて見せたのにどうしてかこいつは俺の隣にしなだれかかるように腰を下ろした。
「まつの、べんごし」
「ちょっと、ここで寝んなよ。めんどくせぇ」
「いじわるだぁ」
「いじわるもくそもねぇよ」
「んむー」
「ガキじゃねぇんだから」
「やぁだ。ふふふふ」
なにがやぁだだ。あぁ、確か兄貴がいるって言ってたっけ。そもそもこいつは俺より年下で兄に甘えるようなそんな戯れなのかもしれない。その時だった。ふわり、とどこからか甘い花のようなにおいがした。その匂いの甘さに脳がしびれるような、口の中から唾液があふれるような、そんな気配を感じて慌てて手の甲で口元を押さえる。今までに感じたことって言えばあぁ、何年か前の依頼人に裁判後モーションかけられた時だ。Ωの依頼人は面倒なことになるからあまり相手にしたくなかったのだけれど世話になった先生からの紹介っていうのもあって断り切れなくて。それでも、あの時だってここまでひどくはなかった。もしかしたら近くに発情期のΩがいるのかも、と考えてカバンの中から抑制剤を探す。俺が中てられてんだから店の中阿鼻叫喚なんじゃ、なんて思ったけれど店の喧騒は先と変わりなく。じゃあどうして、と思ったところでポンコツの腕が俺に抱き着くように動いた。
「せんせい、いい匂い…」
「、っは、」
「あつい…」
ポンコツの鼻先が俺の首筋に触れて、スゥ、と空気が冷える。そうして、不意に思い出したのだ。俺たちαと違ってそもそも差別対象になっていたΩは今でこそ普通に暮らしているものも多いが、βに紛れて暮らすものの中にはΩとして覚醒できないまま過ごすものがいることを。近年それは第二次成長期以降覚醒のないと思われていた、成人後のファーストヒートを街中で起こして、大問題になっていたことを。松野カラ松はβの家庭で生まれ、育った。自分がΩであるなどみじんも思わずに。
けれど彼は運命を求めて動いていた。それはきっと隠れていた本能が覚醒の兆しを見せていたせいなのではないだろうか。
そうして、その運命として選ばれたのは、
「まじ、か」
腹の下が熱い。触れてもいないはずの自身が今までにないくらいいきり立っている。こんなになるのを見るのは初めてだった。ということは多分、そういうこと、で
俺に触れる、松野カラ松の体のあらゆるところから、甘い甘い匂いがする。その白い首筋にかみつきたくて、わずかに桃色に色づいたその唇にかみついて口の中を蹂躙して唾液を飲んで、飲ませたくて、無防備なその体を暴いて、奥の奥まで熱を擦りこんでやりたくて。
「あぁ、これ、ラットか」
そうして俺は自分の不調の原因にようやく思い至るのだった。