紅を差す 学年が上がるほど女装は難しくなるものだ。体格が良ければ尚更、誤魔化すのは困難になる。
任務や委員会活動などで荒れた無骨な手は袖に隠し、縫い目の位置をずらした着物で肩幅を狭く錯覚させ、帯の位置を調整して膝を軽く曲げて身長を誤魔化す。ここまでしてようやく、男らしさを隠せるのだ。
「よしっ、これで大丈夫だろう」
体勢は少々辛いがこれも鍛練のうちだと思い、拳を握り込む。今回の女装実習の課題は『男に何かを奢らせる』というもので、当然難易度は高い。中途半端な女装では失敗してしまうだろう。
「それのどこが大丈夫だって?」
呆れた声と共に天井板がずれ、見慣れた頭巾と包帯が見える。片方しか見えない瞳には隠しもしない呆れが込められ、思わず眉を寄せた。
「何だ、文句あるのか」
今回は特別に気を使っているというのに、という憤りはあるが、忍びとしての経験は考えるまでもなく相手の方がある。他人の意見を聞き入れてはいけないなどとは言われていないのだから、何らかの指摘があるなら聞いてやってもいいだろう。
腕を組んで男を見上げていると、軽く溜息を吐いて降りてきた。態度とは裏腹に全く音を立てないことに気付き、動きをじっと目で追っていたため、不本意ながら伸びてくる手を避け損ねる。
「化粧が濃すぎる」
忍びとしての能力の高さを見せつけた、俺のことなど簡単に始末出来てしまう男の手が、粉っぽい頬を撫でていく。振り払うことすら出来ずに立ち尽くしていると、目が合った男は小さく笑いを漏らし、机に置いたままだった化粧筆を手に取った。
「少し直してあげよう。まず頬紅が──いや、そのせいではないのかな」
じわりと熱を持つ頬を隠すように手を伸ばせば手首を掴んで阻まれ、促されるままに腰を下ろす。着物を汚さぬように手拭いを掛けられ、筆先で撫でるように顔へ乗せた白粉や頬紅が払われていく。
「く、くすぐった、んぶっ!」
「口紅は自分で落としなさい」
邪魔をしないようにと口と目を閉じていてもむずむずとして耐えられなくなり口を開くと、手拭いを口元へ押し付けられた。何で急に乱暴なんだと思いながらも言われた通りに口紅を落とすと、男は手際良く筆を動かしていく。笑いそうになりながらも必死に耐え、頬と目元にも色を塗られ後は口紅だけだと思い待っていたが、いつまで経っても塗る気配がない。何をしているのかと目を開けてみれば、化粧道具を見ていた男がこちらへ視線を向けてきた。
「口紅はこれだけ?」
「? ああ」
いくつも持っていても仕方がないだろう。そう思って首を傾げていると、しばらく口紅を眺めていた男は塗ることなく化粧道具を片付け始める。
「おい、口紅は……」
「今はもっと似合う色が出てるはずだ。自分の目で見て買ってくるといい」
溜息混じりに言われ、随分前に仙蔵へ適当に見立ててくれと頼んだことがバレたような気がして、視線を泳がせる。しかし実習内容を考えればいい提案だ。
「……口紅なしで、問題ないのかよ」
鏡を見せてくれないから、どう直されたのかわからない。自らの目で確認すべきだとは思うが、わざわざ手直しをしてきた男からの評価が気になった。
目を少し伏せたまま視線を向けると親指で唇を撫でられ、ビクッと大袈裟なほど肩が跳ねる。気まずさと羞恥を押し殺して睨めば、男は指を離して肩を竦めた。
「元々血色がいいだろう」
結局その言葉で丸め込まれてしまい、唇には何も塗っていない。女装をしているのに唇にベタつきがないことが落ち着かず、手を隠しながら袖口で口元を覆い、ゆっくりと町を歩いた。
適当な男に口紅を選んでもらい、その礼として飯でも奢れば丸く収まるだろうと思っていたが、きっかけが思い付かない。さてどうするか、と周囲を見渡せば、痩せた男が一人近寄ってきた。
「どうしたんだい、こんな所で」
「口紅を切らしてしまって、買いたいのだけれどどこに行けばいいのかわからなくて……案内していただけないかしら?」
普通に立つとこちらの方が背が高いと気付き、腰を落として僅かに下から上目遣いで男を見る。男は上から下までジロジロと眺め、女装がバレたのではと冷や冷やしているとニヤリと笑みを浮かべた。
「ああ俺で良けりゃ案内してやろう。ほら、ついてこい」
「っ!?」
突然腕を掴まれそうになり、反射的に弾いてしまった。流石に服越しでも掴まれたら男だとバレる。いや、今のでバレたかもしれない。そう思いながらも掴まれそうになった腕を庇うように身を捩り、怯えた様子で半歩下がって素早く逃げ道を探す。
「いってぇな!」
「あ、あなたが急に掴みかかってきたのでしょう……!」
「何だと!?」
逃げ回るよりも脇道へ入って気絶させてしまった方が早いか? などと考えていると、俺よりも遥かに長身な、日笠を被り腕に包帯を巻いた男が逆上した男の肩を掴んだ。
「……っ!?」
「私の家内に何か用かな」
ほとんど笠で隠れているが見たことのない顔と、聞き慣れない声と、嗅ぎ慣れた──つい先程まで近くで感じた、薬草の匂い。まさか、と目を見開くと笠の下で男の口元は弧を描き、俺は咄嗟に弾んだ声を出す。
「旦那様!」
ピクリと指先が動いたのは動揺したのか──いや、きっと周囲への何らかの指示だろう。ここまで一人で追いかけてきたわけではないはずだ。そう思って周囲の気配を探ろうとすると、手を離された男が焦った様子で逃げ出し、肩をぶつけられた。中途半端に腰を落とした体勢では踏ん張れずよろめくと、するりと手を掴まれて腰を抱かれ、『旦那様』の胸に収まる。
「っ、すみません旦那様……」
「いや、怪我がないなら良かった」
「……せっかく旦那様がお帰りになる前に口紅を買おうと思っていたのに……」
「口紅は一緒に買いに行けばいい」
人目を気にして拗ねたように言いながらどういうつもりかと視線で問うが、男は楽しそうに目を細めるだけだ。それなら俺は俺で利用させてもらおう。
「まあ! 旦那様が買ってくださるの?」
「ああ。お前が気に入ったものを、ね」
この男はどうしても俺に選ばせたいらしい。まあ課題を達成出来るのだから、と深く考えずに胸から離れようと手を付けば、ぐいっと抱き寄せられる。
「だ、んな、さま……?」
「……あんな男について行って、もし口紅を買ってもらったとして、見返りを求められたらどうするつもりだったのか……聞いてもいいかな?」
唇は弧を描いたまま、先ほどとは違い少々鋭い瞳を向けられて戸惑う。どう見ても俺一人で制圧出来る程度の男だっただろう。それが出来ないと思われるほど見くびられているとは思わないし、そんな態度でもないように思える。
「えっと……お食事でも……?」
「……………………はぁ……危機感がないな」
明らかに素の声で言われ、何のことかと顔を顰めると腕を緩められ、胸から離れて隣に立つ。細かい話は今することでもないだろう。兎にも角にも、課題を達成せねばならない。
「行こうか」
「……はい」
この長身の男の隣ならば、普通に立っていても遠目からはおかしく思われなさそうだ。などと思っていたら手を差し出され、少し迷って袖口を掴む。自分の手を晒すことを躊躇した結果であり、別に恥ずかしかったわけではない。くつくつと笑う男を軽く睨みながらも、課題のために恥ずかしがるフリをして顔を袖で半分ほど隠し、歩みを進めた。
化粧道具を売っている店は当然のことながら女性が多く、周囲に合わせて背丈を調整して口紅を探す。いくつか種類があるが、紅は紅だろう。そう思っていると、気配薄く近寄ってきた『旦那様』はそのうちの一つを手に取った。
「これは日が出ているうちは艶やかに見えるだろうが、夜になれば色が濃く見えすぎる」
場所や時間帯によって色を変えれば魅せ方を変えられるのだと教えられ、目を瞬かせる。女装の実習は基本的に日中にしか行わないので、それ以外の状況下でどうなるかなど考えたことがなかった。敵に見つかりにくい武器や布の色などは、用具委員として当然知っている。化粧に活かせるとは思ってもいなかった知識が役立つことに心踊り、じっくりと口紅を見比べ、様々な角度から色味を確認した。
「…………め、留。聞いてるか」
「はいっ!?」
肩を抱かれて声をかけられ、裏返った声が出た。慌てて振り返ると笠の下で見開かれた目を直視してしまい、焦って目を逸らす。
「す、すみません旦那様、突然名前を呼ぶものですから、驚いてしまって……」
留って何だ。いや名前をそのまま言うわけにはいかないから、ちゃんと呼んでいることがわかる上で女性らしい名前となっているため問題はないが、急に呼ばれたら驚くに決まっている。
急激に上がった体温にパタパタと顔を扇ぐと、周囲から生暖かい眼差しを向けられさらに体温が上がる。今すぐこの場から立ち去りたくて見ていた口紅を手に取り、『旦那様』の方へずいっと押し出した。
「えっと、その、これが、いいと思うのですが……旦那様は好みですか?」
「……留に似合うのならそれがいいと思うが」
「と……っ! だっ、で、ですから、お、いや、私に似合っても、旦那様がお好きでなければ意味がないでしょう!?」
何故またその呼び名で呼ぶのか、と胸を軽く叩いて半ば叫びながら睨めば、手で顔を覆った『旦那様』は深く溜息を吐いた。何か文句でもあるのかと口を開こうとすると指で塞がれ、店主へ声をかける。
「この口紅を買おう」
「まいど。こんなに嫁さんに好かれてるんだから、あんたももっと頑張りな!」
からからと笑う店主は一体何を見てそんなことを思ったのか。どう見ても留なんて呼んでくるこの男の方が、好意を示しているだろう。疑問はあるが唇に指を押し当てられたままであるため、何も喋れないまま目を瞬かせる。そんな俺に一瞬視線を向けた男は笑みを浮かべ、店主へ視線を戻した。
「あまり頑張ると私以外にも可愛いところを見せてしまうからね、外で頑張る気はないんだ」
「おや、何だい。お似合いな二人ってことかね」
お熱いことだと楽しそうに笑う声を背に、腕を引かれて店から離れる。顔が熱いのは、羞恥のせいだ。あれだけの人の前で名前を呼ばれただけで動揺した姿を見せたことが、顔から火が出そうなほど恥ずかしかったというだけのことだ。その羞恥を抑え込むことに必死で無言のまま歩き、町の外れまで来てようやく振り返った男は、頬を撫でるように触れた。
「やはり頬紅はもっと薄くすべきだったかな」
「……何で、来たんだよ」
触れる手が冷たくて気持ち良くて、聞き慣れた声が心地良い──そんなこと、絶対に言ってやらないが。そう思いながら当然の疑問をぶつけると、握り締めたままだった口紅を取られ、指先に色を移す。塗られるのだと思い黙れば、予想通り男は丁寧に唇を彩っていく。
「少し用があってね。そしたら変な男に絡まれてたから……まったく、乱暴されたらどうするつもりだったのやら」
まさか本気であんな男程度に負けると思われていたのか。不快感に顔を顰めると「君が考えてる乱暴とは別物だよ」と呆れたように言われ、ひとまず不満を飲み込む。人通りがないとはいえ、一応は実習中なのだから減点となり得る行動は避けたい。
「さて、こんなものか。やはりこの色の方がいいな」
満足そうに言うが、出来上がりの差を確認出来ない俺からすれば反応に困る。少しだけ唇を尖らせると指以外のものが触れ、直後に耳元で囁かれた。
「……留に似合っていて、私好みの色だよ」
一瞬見えた男の唇は微かに赤く染まり、言い返す暇もなく姿を消す。言い逃げなんて卑怯だ。そんな憤りを抱えてずかずかと歩き、学園に戻ると偶然仙蔵に会った。
「留三郎は実習だったのか。課題は……またダメだったか?」
「またってなんだよ。ちゃんと達成してるぞ」
証拠として口紅を投げ渡すと、仙蔵は口紅と俺の顔を見比べて片眉を上げる。
「その化粧でよく化粧道具を買ってもらえたな。頬紅が濃いといつも言っているだろう? それに口紅が剥げているぞ」
仙蔵の指摘により、まだ顔色が戻っていないことがわかり顔を逸らす。この程度でそんな指摘をされるのなら、頬紅なんて一体いつ使うものなのか。そもそも口紅は塗られた直後にあんなことをされたせいであって、俺のせいじゃない。
「無事に終えられたんだから、別にいいだろ」
目を合わせないまま口紅を取り返し、化粧を落とさず部屋へ戻る。机に出したままだった鏡を手に取り覗き込めば、真っ先に掠れた口紅が目に入り、部屋を飛び出して水で化粧を洗い流した。
これから口紅を塗る度に、再認識させられてしまう。あの男が好む色なのだとわかっていて、あの色を塗るということを。
いや、前の口紅を使えばいいだけの話だ。今日買ったものは、普段は使わなければいい。そう考えてからまるで特別扱いしているように思えて、化粧を落とし終えた顔に再び水をかけた。