呑まれたるや 忍びとしてあらゆるものに体を慣れさせる。それは忍たまとて同じなのだろう。しかし当然のことながら初めから慣れているはずもなければ、体質的に慣れない者もいるものだ。
「………………お邪魔だったかな?」
「あ、雑渡さん。ちょうど良かった」
夜分遅くではあるが、先日借りた包帯を返しに、というしっかりとした建前を元に保健委員長である伊作くんの部屋へ入れば、酒を飲んでいるところだった。その程度であれば気にせずに居座れるが、彼と同室であり一応は私と関係を持つ人間がべったりと引っ付いている姿を見れば、出直した方がいいかと考えてしまうものだろう。
「保健室に行って薬を調合したいんですけど、留三郎が離してくれなくて……」
この様子じゃ絶対薬必要になるのに材料が手元にないんです、と困ったように言う伊作くんは、恐らく酒に強いのだろう。一方で無言のまま伊作くんの寝間着を強く握り締めている彼は、間違いなく酒に弱い。
「いっそのこと一緒に保健室へ行ったらいいんじゃないかな」
「前にそうしようとしたら大泣きされちゃって、大変だったんですよ」
そういう情報を暴露してしまうのは如何なものか──というのは今更だろう。それだけ信頼されているのだと思うことにして、伊作くんへ包帯を手渡す。すると伊作くんの髪に顔を埋めるようにしていた彼が顔を上げた。
「…………ざっ、と……こんな、もん……?」
「留三郎、ちょっとだけ雑渡さんと留守番してもらえるかい? すぐ戻ってく」
「やだ」
ぼんやりと私を見上げているのを好機だと思ったのか、手を引き剥がそうとしつつ伊作くんが優しく声をかければ、被せ気味に否定の言葉が返ってくる。幼く感じられるその言葉と共に瞳は潤み、ぽたりと涙が溢れ出始めた。泣き喚くわけではなく静かに泣くのかと思っていると、意外なことに伊作くんは笑みを浮かべたまま彼の手を引き剥がし、すっと立ってさっさと廊下へ向かってしまう。
「伊作くん?」
「どうせこの状態じゃ言い聞かせても聞いてくれないので。すぐ戻ってくるから留三郎のことお願いしますね」
私の困惑など気にした様子もないのは、伊作くんも本当は酔いが回っていたということか。気にしても意味のないことに意識を向けていると、無情にも襖が閉まり足音が遠ざかっていく。天井裏などに気配もなく、本当にただその場にいたから任されただけなようだ。溜息を吐き、その場に腰を下ろして静かに涙を流す人物へ声をかける。
「留三郎」
ほとんど呼んだことのない名前を呼べば、のろのろと顔を上げる。見慣れない泣き顔が落ち着かない。手を伸ばせば頬を拭える距離でありながら、涙を流す彼をそのままにしておきたくはなかった。
「おいで」
軽く腕を伸ばして言えば体を引きずるようにして近寄り、すぐ隣に座る。伊作くんにしていたように抱きつけばいいものを、と思いながら濡れた頬を撫で、顔を覗き込む。
「伊作くんはすぐに戻ってくるよ」
「いさ……いさく…………いさく、ひとり、ひと、りで……いさく…………」
伊作くんの名前を出したのは失敗だったか、大粒の涙が溢れて手を濡らしていく。静かに涙を流す様子が伊作くんがいなくて寂しいのだと訴えているようだ。
それが少し、面白くない。
「……私がいるだろう」
これだけ酔っているのなら、何を言われても忘れてしまうだろう。そう思って少々大人気ないという自覚のある言葉を吐き出すと、驚いたように目を丸くして見上げてきた。瞬きをすると雫が零れ落ちる目元を指先で拭い、顔を近寄せて普段であれば言うことのない言葉を続ける。
「私では不満だなんて、言わせるつもりはないよ」
言えなくさせる方法はいくらでもある。しかしわざわざそんなことをせずとも、言わないと確信していた。ただ、こうして私が明言してしまえば退路が絶たれることがわかっていたから、言わなかった──というのは建前で、本心は私自身の独占欲を直視したくなかっただけだ。
(いや……まだ逃げ道は残してあげている。今、伊作くんの代わりであることへの不満だと思えばいい)
彼に対してではなく、私にとっての逃げ道であることをわかっていながら、彼自身の意思で全てにおける不満などないのだと言ってほしいと──言うに違いないと思っているのだから、本心を直視したくないと思っても仕方がないだろう。
「……ふ、ふふ…………」
「……留三郎?」
突然笑い出したことを訝しんで顔を離すと、胸元にぽすりと頭を押し付けてくる。擦り寄る体はいつもより熱く、容赦なく体重をかけてくるため足が痺れてきたが、そのまま静かに笑い続ける背中を撫でていると、のろのろと背中へ腕を回された。
「あー…………おれ、ふうんだ……」
「不運?」
それは伊作くんのことじゃなかったか、と問おうとしてまた泣かれても困ると思い直し、言葉を待つ。すると抱きついたまま顔だけ動かし、まだ潤む瞳で見上げてくる。
「だって、もっといっしょに、いたい、のに……いれなくて、ふまん、なんて……いえない…………な、おれ……ふうんだ、ろ……」
言うだけ言って意識を飛ばし、重みの増した体を抱えて僅かに抱き寄せる。
確信していた通り、不満を言う気がなかったことはわかった。その一方でもっと一緒にいたいなどという、ささやかな我儘を抑え込んでいたこともわかってしまった。そして私が不満を言わせる気がないと理解しているからこそ、それを伝えられないことが不運なのだと思っていることも。
今度会った時にさり気なく言葉を引き出すべきか、などと考えていると廊下から足音が聞こえ、襖が開かれた。
「ただいま戻りまし……うわ、留三郎……雑渡さんにそんなことして……明日後悔しても知らないよ」
「……流石にこれだけ酔っていれば記憶なんて残らないだろう?」
私達の状態に目を丸くした伊作くんは呆れたように言い、部屋へ入って襖を閉める。調合してきたらしい薬を机へ並べる様子を見ながら、確認も兼ねて問いかけると伊作くんは首を傾げた。
「え、お酒で記憶なくすことなんて本当にあるんですか? 僕はもちろん、留三郎だって一度もなくしたことありませんけど……」
今日は飲んだ量が少ないから間違いなく覚えてると思いますよ、と言われ、顔が強ばったことを自覚する。どうせ記憶に残らないだろうと思ったから好き勝手に言ったというのに、伊作くんという記憶が残ることを知っている者がいては私も彼も誤魔化せなくなってしまう。内容に関しては聞かれていないのだから、私自身がなかったこととして振る舞えば彼も合わせてくれるだろうか。そんな考えが一瞬頭をよぎったが、忍装束を握り締めたまま眠る姿を見下ろし、彼のささやかな我儘を思い出して長い溜息が漏れた。
「……伊作くん、布団を敷いてくれるかな。流石にこのまま寝続けられると困る」
「え? あ、はい。ちょっと待ってください」
衝立の向こう側でごそごそと動くのを確認しながら、しっかりと抱きついている腕を振り解き、運びやすいように改めて抱え直す。意識がないはずなのに再び抱きついてくる様子に、まさか相手が誰でもこんなことになるのではないかと考えそうになって思考を止めた。流石に伊作くんの前で下手なことは言いたくない。
「そういえば、留三郎やっぱり泣いてました?」
「キミが行く前から泣いていただろう」
「まぁそうですけど……あれ、僕が不運に巻き込まれても助けに行けないから泣いてるらしいんですよね」
酔って体がまともに動かないという自覚があるせいで、助けたいのに助けられないことが悔しくて泣いているのだ、と酔いが覚めた時に教えてくれたらしい。悔し泣きというには随分と悲しそうに泣いていたが、伊作くん自身が踏み込んで聞いていないのなら指摘するのは野暮だろう。しかしそんな理由で泣いていたのに、私は伊作くんに嫉妬したような発言をしたことになるのだが、本当に記憶が残るのだろうか。今から私の発言に関する記憶だけを消す方法はないものか。
「雑渡さん、留三郎連れて来れますか?」
「ああ」
多少物騒な記憶を消す手段を考えていたことなどおくびにも出さず、連れてというよりも抱えてではあるが、伊作くんが寝かしやすいようにしてくれたおかげで難なく布団までは運べた。問題は、抱きついたまま離れる気配がないということだ。
「留三郎……本当に明日どうなっても知らないからね?」
「流石に今は記憶に残らないんじゃないかな。寝てるわけだし」
「…………まぁ、そうですね……」
ついでにそのまま全ての記憶をなくしてくれ、と願いながら腕を振り払ったが、引き止めるように伸ばされた手を拒み損ね、忍装束を掴まれた。
私の発言は忘れてほしいが、こちらは酒も飲んでいないのだから言われたことを覚えていても問題ないだろう。そう開き直ることにして、伊作くんへ視線を向ける。
「急いで戻る必要はないから、しばらくここにいるよ」
「そうですか?」
不思議そうな顔をしながらも受け入れる彼は、やはり忍者に向いていない。それでも今は、それに助けられたとも言える。
伊作くんが衝立の向こうへ消えていくのを確認し、微かに涙の跡が残る顔へ顔を寄せて囁く。
「もっと一緒にいてほしいなら、いてあげようじゃないか」
聞こえてなどいないはずなのに、嬉しそうに緩む表情を見てしまったら、記憶が残ることなど些細な問題と思えてしまった。