雨を塗り潰す赤 雨を厭うようになったのはいつからだったか。匂いや血痕を掻き消してくれるのはありがたいが、ぬかるんだ地面や水滴で痕跡が残る可能性や、濡れたことで体調を崩す可能性などを考えたら、忍びという立場からすれば元々厭うべきものだったのかもしれない。
それでも任務もなく雨を不快に思うようになったのは、つい最近のことだ。
「……もしかして、火傷の痕が痛みますか」
部下にそう問われ、全く意識していなかったことへの指摘に肩を竦めるだけで答えなかった。目に見えてわかるほどに不快感を露わにしてしまったのは、組頭としては失態だ。もっとも、部下達はその程度のことで失望などしないだろうけど。
立ち上がり、部下達へ指示を出してその場から離れる。木々の合間から降り注ぐ雨粒は忍装束を濡らし、じっとりとした不快感をもたらした。
(仲の悪い二人が仲良くすると雨が降る、か……)
忍者に向いてない保健委員長からのそんな情報は、聞き流したはずだ──聞き流せた、はずだった。それがこのザマだ。たったそれだけの情報でここまで心を乱されたのだから、彼が忍者に向いてないという認識は改めるべきだろうか。
幸いにも雨と共に降り立った塀のすぐ近くで、ここまで来た目的である人物を見つけた。雨が酷くなる前にと、下級生達に長屋へ戻るよう指示を出す声が響く。どうやら面倒見の良い彼は一人で用具を保管する小屋に残るようだ。
戸を閉められる前にするりと中へ入り、薄暗い室内で気配を殺したまま観察をする。手合わせをして怪我をしたような様子もなく、用具委員長として淡々とすべきことをしている姿は少々──否、かなり面白くない。
「ッ!? ! う゛! う゛……ッ、んん…………」
棚から縄を拝借し、縛り上げてから口を塞ぐ。足にまで縄が絡んでいる状態で咄嗟に身を捩り、舌に歯を立ててきたのは流石六年生と言うべきか。しかし至近距離で目が合った途端に抵抗が緩むことに関しては、自惚れても構わないだろうか。
そんなことを考えつつ、捩じ込んだ舌で上顎を擽ると拘束した体が跳ねる。それを支えるように壁へ押し付け、舌を絡ませながら縄を解いていった。
「ふ……ッ、はぁッ、は、ぁ……ッ、なん、だよ……急に……」
唇が離れると同時にずるずると座り込む彼は、赤くなった顔を隠すように口元を覆って僅かに潤んだ瞳で睨む。その手を引き剥がして再び翻弄したい気分になりながらも、目の前にしゃがみ込んで視線を合わせた。
「潮江文次郎くんは?」
「はぁッ、もん、じ……? はぁ……ッ、は……ッ」
必死に呼吸を整えながらも不可解な問いかけをされたと言わんばかりの表情に、どうやら杞憂だったらしいことを悟り表情には出さず安堵する。
「…………んだよ、文次郎に会いに来たのかよ」
拗ねたような言葉に目を細め、顔を背けることを顎を掴んで阻み再び視線を合わせた。
たかが雨でこれほど私の心を乱したというのに、まだ足りぬらしい。
「むしろ視界に入れたくなかったかな」
「はぁ? んッ! ま……っ! んんぅッ!」
素頓狂な声を上げる口を塞ぎ、大人気なくも彼の心を乱すように腰を抱き寄せ、体を密着させる。
もし学園へ訪れた際に見付けていたら、八つ当たり紛いのことをしてしまっていたかもしれない。敵対する気はないと宣言しているのに、私情でそんなことをしては組頭でいられなくなるだろう。それほど危うい状況だったのだと、彼は全く理解していない。
雨音に紛れる微かな吐息を喰らいながら、抱き締めた体を押し倒す。そうすれば彼の手は僅かな躊躇の後に背中へ回されて、濡れた忍装束を撫でた。
「は……ッ、な、ぁ……ぬれ、てると……良くない、だろ……」
今の自身の体勢よりも心配することがそれか、と呆れてしまうが、悪い気はしない。ぐいっと引っ張られるままに脱いでしまおうかと考え、周囲の気配を探っていると彼は起き上がり、顔を顰めて口を開いた。
「伊作呼んで、包帯も替えてもらうか」
先程と同じくこちらを心配しての発言であることはわかっても、今度は少々厭わしい。濡れた唇を指先で撫でても抵抗せず受け入れるというのに、その唇から私以外の名が紡がれることが不快だ。例えそれが、恩のある者の名だとしても。
(……やれやれ、もうとっくに後戻りなど出来そうにないな)
呆れながらも受け入れてしまうのは、彼を逃がす気がないからだ。私と同じように言動一つで、空模様や匂いだけで、心を乱されるといい。そうして私のことが頭から離れなくなれば、彼も後戻りなど出来ないだろう。
彼の手を取り、忍装束の下へと導いて包帯へ触れさせる。布越しであっても熱い手のひらは、焼け爛れ引き攣る皮膚へ熱を移していく。雨で冷えた体温を上書きするかのような熱に口角を上げ、戸惑いと羞恥が混じった顔を眺めて再び口を塞ぐ。
屋根を叩く雨音は口内で響く水音に掻き消され、漏れる吐息が、控えめに爪を立てる指先が、心を満たしていく。
「んッ……ふ、ぁ…………!?」
唇を離し、指を這わせた鎖骨へ少々強く歯を立てると、彼は体を強ばらせ包帯越しに強く引っ掻いてきた。宥めるように舌を這わせ、唇を軽く押し付けることを繰り返せばゆっくりと全身から力を抜き、引っ掻いた辺りを控えめに指先で撫でる。恐らく感触で血が滲んでいることに気付いたのだろう。彼の瞳が一瞬揺れた。
「人に見えるところではないよ──服を乱さなければね」
気にしていることはそれだけではないとわかりつつ、言葉を封じ込める。
雨音を掻き消す水音を、指先を染めた赤を、鎖骨に残る痛みを、雨が降る度に思い出せばいい。
我ながら大人気ない。そう思いながらもやはり逃がす気などなく、早く囚われてしまえと願いながら彼の鎖骨につけた赤を指でなぞった。