「誕生日、おめでとう」 誕生日を祝われたことがなかった。
成人し、投資家として横のつながりができてから、たまたま会合やパーティの日に誕生日だとバレて飲み歩きに巻き込まれたことはあるが、あれは単に酒の口実にされただけだろう。
オレは誰かに、きちんと、誕生日を祝ってもらったことがない。
だから、恋人の誕生日に何をしたらいいのか、オレには見当もつかなかった。
ネットで調べたところ、付き合って初めて迎える恋人の誕生日のプランとしては、①洒落たディナー、②やや高価なプレゼント、③雰囲気の良いホテルで一泊、などが定番らしい。
ところがうちの村雨先生は、到底定番なんかに納まるようなタマじゃない。こっそり——八割がたはバレている気がするが——尋ねてみたところ、①洒落たディナーよりあなたの作る夕食がいい、②欲しいものは自分で買うし今欲しいのは新しい開腹用の検体、③ホテルのシーツが合わないことがあるので面倒、ときた。
お手上げだ。どうしたらいいんだ。
オレは自分が欠けていることを知っている。まともな子供時代を過ごしていれば普通に分かるようなことが、オレには分からない。誰もがさらっと経験的にこなすことを、オレは下準備とリサーチを重ねてなんとか乗り越えている。オレは世の中の普通をフィクションや周りの人間の挙動で学んできたが、その中に「三十路を迎えようとする、オレが初めての交際相手である、やたら頭が良くて、性格が捻じ曲がっていて、しかし人間と社会の善性にばかでかい感情を抱いており、趣味が手術で、メスを持ち歩いていて、顔が良くて、足が長くて、金を持っていて、やたらとオレのことを好きだという男」の誕生日の祝い方なんてものは、当然なかった。
オレは村雨礼二の誕生日を、どう祝ってやったらいいんだろう。
村雨の誕生日を祝いたい。彼がこの世に生まれてきた日を、オレも一緒に言祝ぎたい。でもオレには正しい方法が分からない。どうするのが正しいのか、どうすれば村雨をがっかりさせないか、できれば少しだけでも喜んでもらえるのか、それが分からないのだ。
真経津たちと出会い、村雨に引き上げられたことで、オレの過去の欠落は、今となってはどうでもいいことだと思い始めて——思えるようになり始めて——いたが、結局こういう時に自分の不出来を噛み締める羽目になる。
村雨に喜んでもらいたい。
村雨が生まれてきたことを祝いたい。
ただそれだけなのに。
ただそれだけのことが、こんなにも難しい。
『一月六日? ああ、その日は兄の家に呼び出されている』
「そ、っか。……仕事の方は大丈夫なのか?」
『前々から調整していたからな。秋口からずっとその日は予定を入れるなと姪たちがうるさくて』
村雨は小さく溜息をついた。いつもと変わらない淡々とした声だが、ややうんざりしているのが見てとれる。そしてその中に潜んだかすかな親愛も。電話越しにも分かるほど、村雨は確かに兄一家を愛していた。
「お前、ちゃんと叔父さんしてんだな」
オレは緊張の汗が冷えた背中を一人掛けのソファにわざと乱暴に押し付けて、からかうように言った。
『まあ、それくらいはな。それで獅子神、その日に何かあるのか?』
村雨の言葉に、オレは微笑んで言った。
「いや、別になんてことはねえよ。金曜でオレも予定はないし、真経津がそろそろ遊びてえって騒いでたから、早上がりできるならあいつら誘ってどっか飯でも食いに行かないかと思って」
『ああ…。悪いが、それはまたの機会に』
「分かった。まあまた今度暇な時にでもな」
それから二、三、くだらない話をして、オレは電話を切った。
緊張して、緊張して緊張してかけた電話で、結局オレは村雨を誘うこともできなかった。
スマホを握ったまま、脱力してソファにひっくり返り、それからゆるゆると膝を抱えて顔を伏せた。
これで良かったんだ。言わなくて良かった。
そりゃそうだろう、村雨には家族がいる。ちゃんとした家族が。村雨があれだけ愛するような家族だ、激務をこなす独身の弟、あるいは叔父を、誕生日に放っておくはずがない。
村雨は正しい家族のもとで、正しい誕生日を過ごす。
良かった。本当に。
オレの下手くそな、正解も分からない自己満足に、あいつを付き合わせることがなくて。
良かったんだ。
だから淋しくなんて、ないんだ。
遠くでインターホンが鳴って、オレは微睡から覚めた。
一月六日の朝のことだった。
真経津と叶とは結局昨日一日遊び倒し、オレは彼らに散々文句を言われながら、二人の要求するまま諾々とパンケーキを焼き続けた。
二人とも、誕生日はオレと村雨が一緒に過ごすと思い込んでいたらしい。そうではないと分かったのが昨日の朝で、勢いのまま二人はオレの家に突撃してきたのだった。邪魔しちゃ悪いから昼間にパーティして夜は村雨さんと二人っきりにしてあげようと思ったのに! そうだぞ、礼二君のお誕生日おめでとう配信するつもりで枠だってとったのに! 別にそんな話一度もしなかっただろと言い返すのも億劫で、はいはいすみませんねと流していると、二人は顔を見合わせて口を尖らせ、急に話題を変えてテレビゲームを広げだし、ついでのようにオレにパンケーキを焼かせた。彼らなりに気分転換をさせてやろうと考えたのだろう。オレはその気遣いをありがたく受け取って、二人の対戦を眺めながら時々劣勢の方に口を出して、ひたすらパンケーキを焼いた。賑やかな彼らと過ごせるのは、やっぱり少しありがたかった。
二人が明け方に帰って行った後、急に静かになった家の中は、まるで隙間風が吹くようだった。オレは片付けもそこそこにベッドに潜り込み、何も考えずにただ眠った。
眠っている間に、今日が終わってしまえばいいと思いながら。
それから数時間も経たないうちに鳴ったインターホンの音に気付けたのは、偶然だった。たまたま眠りが浅いタイミングだったんだろう。
寝ぼけ眼でのそのそとベッドを這い出して、リビングのモニターを覗く。
途端に目が覚めた。
小さなモニターの中に立っていたのは、村雨礼二だった。
慌てて通話ボタンを押す。
「お前、何してんの?! 今日お兄さんとこ行くんじゃなかったのか」
『そうだ。だから迎えにきた。開けるぞ』
何を言っているかひとつも分からない。混乱したまま、ばたばたと玄関へ向かう。村雨には合鍵を渡しているから、別に急ぐ必要はないのだが。
実際、玄関にたどり着いた時には、村雨は作りつけのベンチに鞄を置いてすいすいとスマホをいじっていた。
転がるように出てきたオレを見て、村雨は眉を顰める。
「何をしている? さっさと着替えてこい。その格好で表に出たいなら別だが」
「いやいやいやいや待て! なんなんだよ! なんでウチにいるんだお前」
「迎えにきたと言っただろう」
「なんで?!」
すると村雨はさも当然のように言った。
「あなたも共に行くからだが」
「……はあ?!」
オレが唖然と口を開けていると、村雨は勝手知ったるとばかりに上がり込んで、すたすたとオレの寝室へ向かった。
「前に箱根へ行った時のボストンがあるだろう。どうせ泊まれと言われるからあれに一泊分詰めていけ。アメニティはあちらに用意がある。あなた、常用している薬はないはずだな? それから…」
「待て、待ってくれ、……村雨、オレをお兄さんの家に連れて行くつもりなのか」
村雨は肩を掴んだオレを振り返って、当たり前だと頷いた。
「今日が何の日か知らないのか? 私の誕生日だ。だから兄の家に呼び出されている。彼らは誕生日は家族で祝うべきだと考えているからな。だが私の誕生日なのだから、あなたも当然そこにいるべきだ。獅子神、あなたは私の恋人なのだから」
オレは絶句して立ち尽くした。
村雨はオレを見上げて首を傾げ、それからかすかに微笑んだ。
「…そうか。あなたは分かっていなかったんだな。すまないことをした。獅子神、私はあなたに兄と、——私の家族と会ってほしい。私の誕生日を、家族として共に過ごしてほしい。もちろん、無理にとは言わない。兄や兄の一家と反りが合わないこともあるだろう。だが、もしあなたが許すなら、私は私の家族と私の恋人に、私の愛する人々に囲まれて、誕生日を過ごしたい」
それから村雨は、少し背伸びをして、オレの頬を濡らす涙にキスをした。
びしゃびしゃの顔をためらいなく両手で包んで、村雨はオレの目を覗き込んでねだった。
「獅子神、私はまだあなたから大事な言葉をもらっていない」
オレは鼻をすすり、涙をはらって、恋人をきつく抱きしめた。
「——誕生日、おめでとう!」