朝のかたち──静かな朝だった。
昨日までの雨が嘘のように、窓から差し込む光はやわらかく、すべてが、しんと穏やかだった。鳥のさえずりが遠くにかすかに聞こえるなか、寝台に残る情事のあとの気怠さだけが、夜の余韻を静かに引きずっていた。
ベレトは、うつぶせのままシーツに半身を預け、ぼんやりと目を開けた。どこかぼうっとして、夢と現のあいだにいるようなまどろみのなかで、思考も感覚もまだ曖昧なまま、静かに身を沈めていた。しかし、肌に残る痛みや、かすかな火照り。それがどれも昨夜、何度も愛された証として身体に刻まれているのだと自覚すると、次第に感覚が、ゆっくりと、呼び戻されていった。
ゆっくりと顔を上げると、窓辺に立つディミトリの姿が目に入った。シャツの袖を軽く捲り、髪はゆるく束ねている。手には温かなカップを持ち、静かに窓の外を眺めていた。
もう、朝の支度は終えてしまったのだろう。部屋には、何かを焼いたあとの香ばしい匂いがかすかに漂っていて、それが、まだ眠たい体にやさしく沁み込んでいく。
おいしそうだな、とは思う。けれど──まだ、もう少しだけ。そんな気分で、身を起こすこともなく、ベレトはもう一度、窓辺の方へと視線を向けた。朝の光に包まれたディミトリの横顔は、どこか緩んでいて、ひどく穏やかなものだった。
その背中に、ベレトはそっと手を伸ばした。声に出さずとも、その気配に気づいたのだろう。ディミトリはふり返り、ふっと微笑んだ。
「やっと、起きた」
「……いつもは、自分のほうが先に起きているだろう? たまには、ゆっくりしたかっただけだよ」
シーツに身を沈めたまま、どこか不服そうにそう言い返すと、ディミトリはほんの少しだけ眉を上げ、意地悪く目を細めた。
「いつものことではない。俺は──今朝の話をしているんだ」
「君が、無体なことをしなければ……もう少し快活に起きられたんだが」
ベレトは、言いながらもどこか納得がいかない様子で視線を逸らすと、ディミトリは一瞬だけきょとんとしたあと、すぐに困ったように笑った。
「それを言われたら、何も言えないだろう?」
「それはこちらも同じだよ。本当に君は容赦ないから…」
そういうと、ベレトは指先を揺らし、ディミトリを手招いた。ディミトリは溜息まじりに笑って、手にしていたカップをテーブルに置くと、ベレトのもとへと歩み寄ってきた。
「朝食、冷めるぞ。せっかくお前の好きなものを作ったというのに……」
そう言って、ベレトの額に手を置く。熱を測るわけでもなく、ただその肌に触れたかっただけのようで、ベレトの前髪を撫でるように優しく揺らした。
ベレトはその指に頬をすり寄せ、まだ眠たげな声でぽつりと呟いた。
「……君の手料理はとても魅力的だが、もう少しだけ、一緒に寝ないか、もう少し…」
そんな言葉がどれほど甘やかで、そして自分にとって抗いがたいものか、それをベレトは分かっていて囁く。時折見せる、こうした無邪気な甘え方はとても自然で、しかしながらどこか確信的で、それだけでディミトリの瞳はふっと揺れた。
「……お前は、ほんとうに……」
嗜めるようにそう言いながらも、ディミトリが本気で制することはなかった。寝台に片膝をつき、ゆっくりと身体を沈めてくる彼に、ベレトはためらいなく腕を伸ばし、そのまま首にそっとすがりつく。少しひんやりとしたシャツの布地と、ディミトリの匂い。そのどちらもが、まだ目覚めきらない感覚にやさしく染み込み、昨夜の熱を、胸の奥に蘇らせた。
「せっかく作った朝食が、勿体ないな……」
ディミトリがぽつりと呟くと、ベレトは少しだけ笑ってそっと耳元で囁いた。
「昼に食べよう。君の料理は、冷めても美味しいから」
──調子のいいことを。そう思いながらも、自分からこうして身を寄せてくるベレトは、そう多くはない。その素直さがことさら愛しくて、胸の奥をくすぐられるような気持ちになる。
ディミトリは黙ったまま、そっと手を伸ばした。ベレトの顎に指を添え、軽く上向かせると、そのまま、言葉の代わりのように唇を重ねた。朝の空気にはそぐわないほどの熱を、この唇に注ぐ。ベレトは驚いたように目を瞬かせながらも、何も言わず、わずかに唇を開いて、それを受けとめた。重なる息と、かすかな湿度。深くてやわらかな沈黙が、ふたりのあいだを満たす。ベレトはその胸に額を預け、まぶたを閉じた。
重ねた体温と、ふたりぶんの呼吸の音だけが、部屋のなかで息づく。互いの体温が触れ合うところに、確かなぬくもりを感じながら、ふたりは静かに身体から力を抜いた。肌と肌のあいだにあるやわらかな距離が、心までほどいていく。ふたりのあいだに残る熱は、まだ──静かに、おさまる気配を見せなかった。
「ディミトリ」
「……なんだ?」
「あとで果物も切ってほしい。君が切ったものが食べたい」
「形状がいびつになっていいなら」
そう言って、ディミトリはベレトの首筋にそっと唇を触れさせた。そのまま、まるで肌のぬくもりをなぞるように、鼻先をゆっくり滑らせる。くすぐったそうに身を縮めるベレトの肩に、ディミトリの手がまわり、指先がやわらかく鎖骨をなぞった。くすくすと笑いながら身をよじるベレトに、さらにもう一度、唇を落とす。
「綺麗な形状を求めるなら、お前が切ればいいのではないか?」
からかうようにそう囁くと、ベレトは布団のなかで軽くディミトリの胸を押した。
「遅く起きた日は、君に任せたいんだ。それに、形よりも味だよ。君が準備してくれたら、なおのこと美味しくなる」
ふわりと笑うベレトの頬に、ディミトリは軽く口づけを返す。
「形が崩れたら、いっそ絞ってジュースにでもすればいいか」
その言葉を聞いた瞬間、果実をそのまま手で握りつぶすディミトリの姿を想像してしまい、ベレトは思わず肩を揺らして笑い始めた。くすくすとこぼれる笑い声は小さく弾けて、寝台の上にさらなる甘やかな空気を運んでくる。いつになく素直に感情をのせるベレトを眺めながら、ディミトリは、こんなふうに、ただ笑い合って朝を終えてしまうのが、名残惜しい。と思った。
「……なんとでもしてやるから、今はこちらに集中してくれ」
ぽつりと、低く押さえた声でそう告げたディミトリは、ゆっくりとベレトの額に唇を落とす。続けて、頬に、こめかみに。ひとつひとつ、唇を這わせながら愛しさを重ねていく。
くすぐったいような、やさしい口づけが、淡い痺れとなって静かに肌へ沁み込んだ。
のしかかってくる身体の重みと、あわいの熱に小さく息をのむ。この後自らに降りかかるであろう一連の出来事を、ベレトは察している。それはわずかに痛みを伴うものの、互いの心の襞をなぞることができ甘やかな営みだ。それを求めていたからこそベレトは逃げようとはせず、むしろその熱を閉じこめるように──ゆっくりと、自分の脚を絡めた。
言葉は、もう必要ない。
朝の光がゆるやかに差し込む寝台のなか、再びともった熱のままに、互いの肌を摺り寄せ、指を絡め合う。
(これは…昼までに終わるだろうか)
ディミトリは、ふとそんな思いが脳裏をよぎったが、すぐに首を振った。
これから先、いつだって──何度でも、朝食は作ればいい。時間は、まだ、たっぷりとあるのだから。
だから今はただ、求めるままにそばにいて、互いの存在を、静かに確かめ合っていたい。
それもまた、ふたりだけに許された、しあわせな朝のかたちなのだから。