或日 扉が軽く叩かれ、低く整った声が届く。
「猊下、そろそろ参りましょうか」
ベレトは小さく瞬きをして、話し相手であるディミトリから視線を外し、扉越しに顔を覗かせたセテスに頷いた。
「ああ、もうそんな時間か」
「ええ、割と時間が押してます」
返された声にはわずかばかり焦りの色が浮かんでいたが、セテスのいつもの律儀さと、それでも最後までこちらの時間を尊重して待ってくれている優しさを感じて、ベレトはわずかに微笑を浮かべた。
楽しい時間ほど、過ぎるのは早い。そんなあたりまえの事実に、胸の奥で名残惜しさが滲む。
「すまない。今日のところはこのあたりで。…また、帰る前に立ち寄るよ。無理のない程度に執務をするんだぞ、ディミトリ」
やわらかな声が降る。立ち上がる仕草は静かで美しく、聖衣の長い裾を腕でさっと払うその手つきは、かつては少しぎこちないものだったが、今ではすっかり身についた動作となり、自然と目を引くほどに落ち着いていた。
そんなベレトにあわせて、ディミトリも静かに立ち上がる。
「なんだ、今日は泊まらないのか。皆、楽しみにしていたのに」
皆、といったものの、もっとも残念に思っているのはほかならぬ自分だ。
どこか名残惜しげに呟くその声に、ベレトはやわらかく微笑んだ。
「今夜はカムロス大聖堂にいく約束もあるからな。……こう見えても、大司教だから」
冗談めかして言いながらも、ベレトの瞳は変わらずやさしい。目尻が少しだけ綻び、淡く笑うその顔を、ディミトリは見送ることしかできなかった。
ベレトが去った後、静けさに包まれた執務室に、ドゥドゥーがそっと足を踏み入れ、窓際に佇むディミトリへと歩み寄り、ふと呟いた。
「先生が大司教となられた今となっては……カムロスは少し遠いですね」
その言葉に応えることなく、ディミトリはただ、窓の外を見つめていた。
ブレーダッド領の南西部には、八百年の歴史を持つカムロス大聖堂がある。
ファーガス神聖王国の建国よりもはるか昔に築かれたその大聖堂は、今なお聖地として多くの巡礼者を迎え入れ、街の中心に厳かに佇んでいる。ベレトは王国を訪れるたび、必ずと言っていいほどカムロスを訪れ、長い時間をかけてその地で公務にあたっていた。それは当然の務めであり、彼が担うべき責任でもある。だからこそ、フェルディアでの滞在はごく限られたものになり――ただでさえ時間のないふたりの逢瀬は、いつも瞬く間に終わりを迎えてしまうのだった。
下庭では、ベレトが数人の信徒に囲まれていた。
誰かの話にじっと耳を傾け、ときおりやわらかく笑い、静かに頷くその姿には、人々は惹きつけられる。
大司教となった経緯がやや異例であったことも手伝い、歴代のどの大司教よりも人々に近く、親しみのある存在として、多くの国民に受け入れられている。そのため、どこへ行っても、自然と人の輪の中心に立ってしまうのだ。
少し離れたところに、セテスが控えていた。口を挟むことなく、静かに人々の輪を見守っているが、その表情には先ほどと同じく焦りがにじんでいる。それだけで予定が押しているのは容易に見てとれる。けれど、それを口にせず、ただじっと待っている姿に、ディミトリは思わず微笑んだ。
ここに限らず、どこへ行っても、きっと同じなのだろう。ベレトの周りには、いつだって人が集まる。その様子を横で見守るセテスの焦る気持ちも、理解できなくはない。
すべてを取り仕切る立場として、時間を守り、調整する彼にとって、ベレトの自由な振る舞いは、頭の痛いことの連続に違いない。けれど――ベレトを大司教に据えるというのは、きっと、そういうことなのだ。それをわかっているからこそ、セテスも何も言わず、ただ黙って傍にいるのだろう。
そんな様子をただ、静かに見つめていると、ベレトが何かに気づいたように、ふいに振り返る。そして、ゆるやかに顔を上げ、ディミトリのいる窓を見つけると、かるく手を振った。そして、ベレトの視線を追うように、周囲の者たちも見上げる。そして、そこに国王が佇んでいると知ると、皆一様に慌てて姿勢を正した。けれど、そんな空気を気にする様子もなく、ベレトはただ、穏やかに手を振り続けている。
その、なんでもないような仕草に、胸の奥をそっと撫でられたようなくすぐったさが走る。
ディミトリはそれを押しとどめるように、ゆっくりと息を吐いた。
「……王城の中に、大聖堂があれば」
誰に向けたわけでもなく、ぽつりとこぼれたその言葉は、空気の中に静かに溶けていった。愚かだと自覚している。けれど、それでもなお、心のどこかで願ってしまうのだから、自分でも困ったものだと思う。
「貴方がそういうことを吐露なさるのは、珍しいですね」
穏やかな声に顔を向ければ、ドゥドゥーが、ほんの少しだけ微笑んでいた。
「実に稚拙で、王としての器量に欠けると分かっている。けれど……愚かにも、そんなふうに思ってしまうことがある」
「それは、心に余裕ができたということかと。……想いを素直に口にできるのは、よい兆候ですよ」
ディミトリは何も言わなかった。ただ、掌に残る温もりを思い出すように目を閉じ、わずかに口元を緩める。
「ずいぶんと手前勝手な考え方だが……そういう日が来るよう、一国も早く国を安定させなければならないな」
「そのために、助力いたしましょう」
頭を下げるドゥドゥーにそっと頷き返しながら、ディミトリは窓の外へと目を向ける。遠ざかるその背を、名残惜しむように、ただ静かに見つめていた。