コバルト・プレート 潮風の匂いが、ほのかに鼻をかすめた。
沿岸の町らしい白壁の家並みと、路地裏から覗く多彩な布の影。普段の厳かな巡察とは少し違い、今回の巡察はどこか観光にも似た空気が漂っていた。
海沿いの集会所に急遽設けられた昼食の席には、この地の特産だという魚料理がずらりと並んでいた。蒼に近い青銀、目を惹く赤、そして見たことのない黄色い魚。さらに色鮮やかな野菜が添えられ、多彩なそれらに、ふたりの視線は自然と引き寄せられた。
「……ずいぶんと、鮮やかだな」
小さくつぶやいたディミトリの声に、ベレトはふっと微笑む。
「うん。けれど、すごく美味しそうだ」
ベレトは、はじめこそ、その鮮やかな彩りに目を見張ったが、すぐに用意されたナイフとフォークでひと切れをとると、まるでいつも食べている魚料理のように口に運んだ。
「……うん、美味しい」
その一言に周囲の料理人たちがほっと笑みを浮かべたのを見て、ディミトリも小さく息をついた。そんなベレトの傍らでディミトリはというと、まだ手をつけずにいる皿を目の前にして、どこか思案顔だった。
青、赤、黄色。まるで絵の具をそのまま盛りつけたような魚料理が、皿の上に並んでいる。見慣れないその色鮮やかさと、何よりも生魚ということに、ディミトリは少しだけ気後れしてしまっていた。
とはいえ、隣でベレトが「これも美味しい」「これも少し甘い」と穏やかに口にしているのを見ていると、疑念は薄れていくから不思議だ。この魚頭や尾、骨を残したまま盛り付けられている見たことのない料理に抵抗がないといいきれない。それでも、楽しそうに食べている姿や周囲の雰囲気に次第に覚悟が定まってきた。
「美味しいか?それ……」
ディミトリはベレトにしか聞こえないほど小さな声で囁いた。
「色が鮮やかなだけで、味は美味だよ」
表情からわかるかわかりきった回答が返ってきた。
そもそも、魚を生で食べるという習慣は、王国にはなかった。だからどうしても、最初の一口には躊躇いがつきまとう。けれど、これは現地の人々が、精一杯のもてなしとして用意してくれた料理だ。ここで手をつけずにいるのは、あまりに無粋なことだ。
そんな迷いの最中、ベレトが一口大に切った魚をフォークに乗せ、すっとディミトリの前に差し出してきた。
「ちょっと品がないけど、ひとりで食べられないなら、手伝ってやろうか。国王陛下」
ふふっと喉の奥で笑うように言って、ベレトは気軽な仕草でフォークを掲げる。その柔らかな声音に、ディミトリはわずかに目を伏せた。少しだけ、くすぐったいような面持ちで視線をそらしながらも、差し出されたそれを受け入れるように、そっと口を開け、そして静かに魚を口に運んだ。
噛んだ瞬間、爽やかな風味がふわりと広がり、ディミトリは思わず目を瞬かせた。
「……ああ、本当だ。思っていたよりずっと……軽いな。生臭さも、クセもない」
「うん。むしろ、見た目のほうが驚いたぐらいだね」
ふたりで顔を見合わせ、小さく笑う。
その仕草が、まるで旅先で偶然入った食堂で食事を楽しむ恋人のようで、ディミトリはふと、頬の熱を感じた。
ベレトはどこか機嫌よさそうに、わずかに口元を緩めながら、丁寧な手つきでナイフとフォークを使い、幸せそうな顔で食事を続けていた。浅ましいほどに食に貪欲というわけではない。けれど、初めてのものにも臆することなく向き合い、なんでも楽しむように味わう姿は見ていて心地よく、なによりも惹かれるものがある。
その横顔を眺めながら、ディミトリはふと、自分の視野の狭さを思った。
王である身でありながら、まだ知らぬことも、足を踏み入れぬ世界も、こうして数多くある。そして、自分はいちいちそれに戸惑い、躊躇している──そんな在り方ではいけないと、静かに反省した。
静かに皿を見つめるディミトリを横目で見ながら、ベレトは食事の手を止めた。
「やはり、ひとりで食べるのは難しいか?なら、手伝ってやらなくもない」
わざとらしく肩をすくめながら言うその声音に、ディミトリは苦笑を漏らす。
「いやいや……ひとりで食べられるとも」
そう返しながら、ようやく魚にナイフを通す。
隣に並び、さりげなく笑ってくれる誰かがいる。ただそれだけで、これほどまでに穏やかで、心強く感じられるものなのかと、今更ながらに思う。
青空の下、海の向こうには、どこまでも世界が続いていた。
「世界は……とても広いんだな」
ディミトリの呟きに、隣でベレトがこちらを見て、小さく微笑む。
「魚一匹で、またずいぶんと大きな話になったな、ディミトリ。見たことのない魚も、鳥も、野菜だって、まだまだあるよ。先は長い」
「おいおい、全部食べ物の話じゃないか」
苦笑まじりに返すと、ベレトも静かに肩を揺らした。
「それだけ、まだまだやることがあるってことさ。あまり難しく考えずに、気負いすぎるな。そういうところ君のいいところでもあるが、厄介なところでもある」
ひとつずつこなしていけばいい。そう言って、ベレトはまた料理を口に運ぶ。
その何気ない一言に、ふっと肩の力が抜けた。
そして、そばにあるこの穏やかな笑みがあるかぎり、自分もまた閉じこもることなく、広く物事をとらえる存在でありたいと、ディミトリは静かに思った。