夏至南風 大修道院の貴賓室の窓から、夏の光がそっと差し込んでいた。白いカーテンがかすかに揺れ、東方より取り寄せられたという風鐸がひとつ、涼しげに鳴る。音で涼を感じるなどという感覚を持つという東方の人々を、ディミトリはいつも不思議に思っていた。
「……相変わらず暑いな、こちらは」
入ってくるなり、ディミトリは額の汗を拭いながら言った。
フェルディアを出てから、もう何日か。
その道程の長さと南部の暑さが重なって、旅装の彼はどこかくたびれて見えた。普段はきちんと整えている身なりも、今日は上着の胸元をゆるめ、ため息をひとつ落とす。
ディミトリは、額に滲んだ汗を拭おうともせず、それ以上何も言わずに長椅子に腰を下ろした。
「……わざわざ、来てくれてありがとう」
そう言って、ベレトは彼の隣に静かに座った。
「自分が風魔法を使えればよかったんだけど……生憎、不得手でね」
「それを言うなら、俺は魔法全般が不得手だ」
ディミトリはそう言って、口元に笑みを浮かべた。そして、力を抜くように自然とベレトへ身を寄せる。
「まぁ、確かにそのとおりだな。……しかし、暑くないのか? くっついて」
暑いといいながらも寄り添ってくる彼に、ベレトは苦笑しながらも、拒むことなく、静かにディミトリの髪を撫でた。
「不思議と、傍にいると涼やかな気持ちになる」
「都合のいい解釈だな」
ベレトは口元に笑みを浮かべ、少しだけ思案したあと、話を続けた。
「この際、魔力のある者は皆、風魔法を習得したほうがいいのかも。どうして水や氷の魔法が実用化されないのか、不思議なくらいだ。暑さに関しては、魔法の進歩が待たれるところだね」
「俺の魔力程度なら、涼をとるのに丁度いいが……お前くらいの魔力になると、命に関わるぞ」
「そこはまぁ、調整する必要があるか…」
「調整できるほどの技術を、どれだけの者が習得できるかな」
ディミトリは髪を梳かれながら、心地よさそうに目を細めた。
ベレトはそれについて何も言わず、傍らにあった扇を手に取る。それは、以前パルミラ王から下賜されたもので、しっとりとした絹地に金の刺繍が施されていた。
扇をゆるやかに動かすと、ふわりと風が生まれて、ディミトリの髪をやさしく揺らした。
「……少しでも涼しくなれば、いいんだけど」
「お前の声だけで、すでに癒されてるよ」
返された声は少しかすれていたが、その掠れの奥には、ほのかな甘さが滲んでいた。
(ずいぶん、遠慮なく言葉にするようになったな)
まるで当たり前のように、そんなことを口にするディミトリに、ベレトはそっと目を細める。
かつては滅多に見せなかった柔らかさが、今ではこうして自然とあふれてくる。それが、どこかくすぐったく、そして何より――嬉しかった。
「それはずいぶん手軽な涼の取り方だな」
ベレトは、パタパタと静かに扇ぎながら、ゆるやかに流れる空気の中で、穏やかに微笑んだ。
「……自分が、そっちに行けばよかったな」
「いや」
ディミトリは短く首を振る。
「いつもお前に来てもらっていては、立つ瀬がない。たまには、自分の足で……お前のいる場所に行きたかったんだ」
そのまっすぐな言葉に、ベレトの手が一瞬止まった。扇を握る指先に、わずかに力がこもる。けれど何も言わず、ベレトはまた扇ぎはじめた。
「……暑がりの君には、少し酷だったね。もう少し涼しい時にすればよかったのに」
「…でも」
ディミトリはゆっくりと息を吐き、
「こうしてお前に団扇で仰いでもらえるなら、南の暑さも悪くない」
窓から吹き込む風が、湿り気を含んだまま、ふたりのあいだをそっと通り抜けていく。外では蝉が喧しく鳴き、熱を孕んだ夏の気配が、ひたひたと押し寄せていた。
けれど、この部屋の空気は、まるでそれらとは別の季節に包まれているかのように、静かで、やわらかだった。
「……まあ、扇ぐくらいなら、いくらでもできる」
そう言いながらも、ベレトは静かに風を送る。
「そう。これでいい。ふたりの時は、このくらいの風が丁度いいんだ」
涼しさこそ伴わなくとも、その風はたしかに、ディミトリの心に、やさしく触れていた。