氷菓のひととき 今年の夏は、フェルディアといえど、いつになく厳しかった。
高緯度の冷たい地と侮るなかれ。重厚な石造りの城は昼を越える頃には熱を帯び、風の通りにくい内郭では、ひそやかに、しかし確かに蒸すような熱気が滲み出していた。
――そんなある日の午後。
教会での務めを終えたベレトは、静かに息をついてからディミトリの執務室へと足を向けた。
その歩みは急いているようでありながらも、どこか柔らかな余裕も漂わせている。
「……ディミトリ、いるか?」
軽く扉を叩いて開けると、目に入ったのは、書類の山の傍らに、所在なげに座るこの国の王の姿だった。ディミトリは椅子の背にもたれかかり、額に浮かぶ汗も拭おうとせず、ただ黙って、ぼんやりと天井を仰いでいた。
いつもの凛とした気配はそこにはなく、夏の熱に溶けるような、無防備でどこか頼りない静けさが漂っている。
「お疲れさま。少し早く終わったから来てしまった。……邪魔だったろうか?」
ベレトの声に、ディミトリははっと我に返るように目を瞬かせ、微笑を滲ませた。
「いや……先生。ちょうどよかったよ。あまりの暑さに、もう執務どころじゃなくなっていたところだ」
「なら、ちょうどよかった。君に渡したいものがあるんだ」
そう言って、ベレトはそっと木箱を差し出した。小ぶりなその箱は、見慣れない意匠で丁寧に封が施されており、手渡されるまでもなく、中に特別な何かが収められていることがひと目で伝わってくる。
「信徒のひとりからいただいたんだ。“今年もお変わりなく”と。……よければ、一緒に食べないか?」
そう言って木箱の蓋を開けた瞬間、ひんやりとした空気が肌をつたった。
氷に囲まれていたのは、宝石のようにきらきらと輝く氷菓だった。薄紅、淡い青、透明に近い白磁色、どれも静かな光を宿していて、ひとつひとつが涼をまとった花のように美しかった。その周りにはいくつもの氷片がそれらが溶けないようにと敷き詰められており、少し触れただけでも溶けてしまいそうなその儚さに、思わずディミトリは息を呑んだ。
「……きれいだな」
「涼しげだろう?この色……君の瞳にも似ている気がして」
ベレトがふと目を細め、淡く笑みながら、澄んだ青の氷菓に視線を落とした。
ただの感想のようなその一言に、ディミトリの胸の奥がわずかに揺れた。さらりと紡ぐベレトの言葉に、ディミトリは都度、ドキリとさせられる。込み上げる羞恥のせいか、すぐに言葉を返すことができず、小さな吐息が胸の底から漏れそうになったが、それも喉の奥で静かに飲み込み、ディミトリはそっと目を伏せた。
ベレトが紡ぐ言葉には、いつだってさりげない労りと、惜しみない慈しみが滲んでいた。その声色、そのまなざし、その呼吸の合間にさえ――彼が自分を想ってくれていることが、否応なく伝わってくる。
それが、どれほど嬉しく、そして…どれほど、胸を締めつけるか。
そんなディミトリの胸のうちなど、まるで気づいていないかのように、ベレトはそっと青い氷菓を手に取った。ほんのわずかに笑みを浮かべながら、「これは、自分がいただいてもよいか?」と口にした。その声はあくまでも穏やかで、特別な意図など含まれていない柔らかな響きだった。
ディミトリは何も言えず、ただじっと、ベレトを見つめた。そして、こみ上げる感情を押し隠すように、ゆっくりと頷いた。
暑い。とにかく今年はいつになく暑い。
――ただひとつ、わかっていた。頬に浮かんだ火照りは、決して暑さのせいばかりではないのだと。
(それにしても)
これを捧げた信徒は、ひんやりとした氷菓を氷に守らせて、大司教のもとへ届けたのだ。
この季節、この地でこれだけのものを手配するには、時間も手間も、なにより強い想いがいる。
“変わらぬ信仰”――それが、こんなにも細やかに表現されるものなのか、それとも別の想いでもあるのかと。
気づけば、透きとおる氷菓をひとつ手に取りながら、ディミトリは少しだけ指先に力を込めていた。
「お前は、いつも人から大切にされているな」
「……?」
ベレトが不思議そうにこちらを見たが、ディミトリはそれ以上何も言わなかった。ただ、手にした氷菓を静かに口へ運ぶ。ひやりとした感触が舌の上でほどけるように溶けていく。
そんなディミトリを、ベレトはじっと見つめていた。感情を表に出すことは少ないその面差しは相変わらずだったが、その瞳だけは、確かに何かを探るように、ディミトリの胸の内にそっと触れようとしていた。
やがて、ベレトがふと言葉を落とす。
「君だって、大切にされているじゃないか。ディミトリ」
その声は静かで、どこまでもやさしかった。耳に届いた瞬間、ディミトリはふっと小さく笑う。
――わかっている。わかっているさ。
自分が大切にされていることも、支えられていることも、十分すぎるほどに。
これは、わずかな…ほんのわずかな嫉妬だった。かつて自分たちの“先生”で、ある意味自分だけの存在でもあったベレトが、今や多くの人に慕われ、敬われている。その姿を目の当たりにして胸の奥にわずかによぎった、子どもじみた感情にすぎない。
そんな自分を、情けないと内心でたしなめながら、そんな思いを誤魔化すようにディミトリはまたひと口、氷菓を口に含んだ。
冷たい甘さが、そっと胸の熱をなだめるように広がり、ささやかな嫉妬の熱は、何も言わずに、静かに溶けていった。
「これは……本当においしいな」
「気に入ったなら良かった。暑さで君が参っていそうだったから、早く食べさせてあげたかったんだ。……急いだ甲斐があるよ」
――また、そういうことを言う。これは本来、お前がもらった供物だろう?
そう思いながらも、ディミトリの胸の内には、ふわりと何かあたたかなものが満ちていく。おかしなほどに単純明快な思考回路だ。
先ほどまでの暑さとは違う熱が、腹の奥からゆっくりと湧き上がり、じんわりと全身を包んでいった。
自分を最優先にしてくれている。
そんな想いを、あくまでもさりげなく、穏やかに伝えてくるベレトのやり方に、ディミトリは知らず知らずのうちに甘やかされ、絆されていく。
そうして、なんとも単純な自分に呆れながらも、気づけば自然と笑みがこぼれていた。
「……そういうところが、ずるいんだよ、君は」
「何か言ったか?」
「いや、何も」
不思議そうに首を貸してるベレトを見つめながら、ディミトリはそっと氷菓を口に含みなおす。ゆっくりと、音もなく溶けていくその涼味が、喉元にするりと落ちた。
「ところで、さきほどの話だが、ディミトリ」
ベレトが、囁くような声で静かに告げた。
「君は……誰よりも、大切にされているんだ。そこだけは、どうか理解してほしい」
ベレトはそう言って、ひと息の間を置いたあと、氷菓にそっと匙を通す。一瞬だけ視線をこちらに向けて、また何事もなかったかのように手を動かすその仕草を、ディミトリは黙って見つめた。
「君は時々、本当に勘が鈍いんだな」
「……?」
「こんなに大事にされていて、気づかないとは」
「……わかってるさ。皆、俺を支えてくれている。もちろん、お前だって…」
そこまで言葉にしたところで、ベレトは軽くわらったあと、ジッとディミトリを見つめた。
「……やっぱり、わかっていないな」
ベレトは匙を置いて言葉を続けた。
「いいか、ディミトリ。自分が君に抱いている想いは、皆以上の特別なものなんだ。自分は普段、君の傍言いてやることが出来ないのだから、そこはちゃんと自覚しておいてくれ」
淡々とした声音の奥に、確かな熱があった。
「だからこそ、この氷菓だって、皆に配ればいいところを……すべて、君に持ってきた。特別な想いがあるからこそ、こうして一緒に食べている。その“特別”を、君にはちゃんと汲み取ってもらいたいんだ」
ディミトリは目を瞬き、わずかにうつむいた。込み上げてくる照れと戸惑いを紛らわせるように、氷菓をひと口、口に運ぶ。
「……そうか。沢山食べたかったのかと思ってたよ」
その言葉に、ベレトは肩を揺らして笑った。
「まあ、それも一理ある。時には、二人じめしてもいいだろう?」
その声は、どこまでも静かであたたかかった。まるで氷菓を通して、心の奥にほんのりと広がっていく涼風のように。
城の外では、蝉が遠くで鳴いていた。けれど、この部屋のなかには、それとは別の、涼やかで穏やかな時間が流れていた。
匙を入れるたび、氷菓はゆるやかにくずれ、鮮やかな色が溶けあいながら、静かに形を失っていく。
胸に込み上げる想いとともに、その心地よさは、ディミトリの胸の奥にずっと残り続けていた。