【飯P】その冬はじめての雪の日には あの荒野にいた時、一度だけ雪が降ったことがあるんですよ。ピッコロさんと別れてから三ヶ月の頃だったかなぁ。毎日岩壁に印つけて、ちゃんと日数を数えてたんですよ、僕。マメでしょ? あと何日で六ヶ月経つ、あと何日であの人が来てくれる、って。まだピッコロさんのこと全然知らなかったけど、「六ヶ月経てば」ってことだけが心の支えでしたから。
あそこはなんていうか、代わり映えのしない土地でしょう。秋の内はまだ、花や虫なんかが目を楽しませてもくれましたけど、寒くなるにつれて本当に枯れ草と砂埃だけって感じで。あんなところに子供を放り出すなんて、ピッコロさんのやり方は今考えてみても本当に容赦なかったですよ。ふふ、責めてるわけじゃないですよ。お陰で身体は短期間で強くなったし、生きる術も身に付きました。
でも、気が滅入るのだけはどうしようもなかったんですよね。毎日毎日、目に入ってくるのは茶色いものばっかりで。冬って晴れた空でも色褪せてるし、そもそも陰鬱な曇り空の日が多くて、ピッコロさんのことばっかり考えてました。とっても綺麗な、見たこともない、若葉色の肌だった。白い牙と、尖った耳が不思議で、もっと近くで見てみたかった。早くもう一度会いたいって。
怖くなかったのか? ああ僕、泣きましたよね、はじめて顔を合わせた時。だって、すっごい睨んでたじゃないですか。急に知らないところに連れて来られて、知らない人に睨まれたら子供は泣きますよ。
でも最初だけでしたよ。考え事する時間は有り余るほどありましたから、どうしてピッコロさんが僕を連れ出したのか考えましたもん。戦術を身に付けろ、強くなれ、地球を守れって、悪い人の話す内容じゃないですよね。それが分かったら少しも怖くなかったですよ。りんごも、服と剣も、きっとあの人が助けてくれたんだって分かりましたから。
ええと、なんでしたっけ。そうそう、雪が降ったんです。そのころ僕は、高台で眠るのをやめて、雨風を避けられる岩壁の窪みで寝てました。獣ですか? そりゃあ、夜はうろついてましたけど、たとえ眠っていても虎に猫が襲いかかったりしないでしょう。虎は言いすぎですか? でも、自信はもうそのくらいついてましたよ、僕。動物って分かるんですね、敵う相手かどうか。だから吹きっさらしの高台より、岩壁の窪みで寝てたんです。実際、その頃にはもう、よほど大きな獣以外には襲われることなんてなかったし。
その日は目が覚めたらいつもより空気が澄んでる気がして。空は晴れてるのに、花びらみたいに小さな雪が舞ってました。あれはもしかすると、風花ってやつだったのかな。夜の間はもっとまともに降ってたみたいで、ほんとに少しだけ、ところどころ土が透けて見えるくらい薄くですけど、地面にも積もってたんですよ。寒々しく枯れた寂しい地面ばかり見てたから、視界が明るい色になったのが嬉しくて、走り回ったのを覚えてます。
ひとしきり足跡をつけたり、舞う雪を追いかけたり、枯れ枝に載った雪を揺らして落としたりして、久し振りに明るい気分になって、まずピッコロさんのことを思いました。今頃あの人は何してるかな、って。こんなに楽しい気分にさせてくれる雪を、あの人と一緒に見たかったな、って、何故か強烈にそう思ったんです。雪を見て嬉しいかどうかなんて人によるのに、子供ですよね。
だからね、ピッコロさん。岩壁の印が六ヶ月分になって、もう一度あなたに会えた時も、僕はすぐ雪のことを思いました。もう春だったから、次にまた冬が来る時、一緒に雪を見たいなって。もっと穏やかな落ち着ける場所で、一緒にずっと見ていたいなって。あの荒野で二人で過ごしている間、何度も思ってたのに、なんとなく恥ずかしくて、言えませんでしたけど。
それで、次の冬になる前にあの戦いで……あ、灼かれて死ぬ、って思った瞬間、痛いのは嫌だとか死にたくないとか家に帰りたいとか地球はどうなるんだろうとか修業が無駄になってしまったとかお父さんは生き返ったんだろうかとかの前に、ピッコロさんと雪を見たかったな……って心によぎりました。
でも僕、灼かれて死ななかった。あなたが守ってくれたから。ただ、いずれにしても、冬が来る前に、あなたと別れることになってしまった。まだ、一緒に雪を見ていなかったのに。
ピッコロさんはベッドの傍らで、時おり相槌を打ちながら僕の話を聞いていた。窓の外に、あの時よりもずっとしっかりした雪が降っているのが見える。
もっとよく見たくて起き上がろうとすると、ピッコロさんが手を添えて助け起こしてくれる。避けてあったクッションを背中に当ててくれて、僕はなんとか落ち着いた。
「情けないですね、あんなに鍛えていたのに……年齢には逆らえません」
「仕方あるまい」
「雪、積もるかもしれませんね。今年まで毎年、一緒に見られてよかった」
「……来年も、再来年も、見れば良いじゃないか」
ピッコロさんの表情がわずかに翳る。今年見る雪が、一緒に見る最後の雪になるだろうと、きっと分かっているのだ。
ほんの少しの間、僕らは黙して雪を眺めていた。まだ冬のはじまりで、気温も湿度も高く、綿雪、玉雪といった様相だ。長い年月の中で、こんな雪も、さらさらと積もらない粉雪も、べったりと重いぼたん雪も見た。新雪に二人で足跡をつけたし、綿帽子をかぶった樹を揺らして雪をピッコロさんに落として叱られたりもした。何もかも懐かしく、愛おしかった。
「……ナメック星から帰ったあと、雪が降った日に僕、ピッコロさんを探しに行ったでしょう。その前の冬に荒野で雪を……ピッコロさんのことを考えながら一人で見たから、どうしても一緒に見たかったんです」
子供の他愛ない願望だが、今思えば、いずれ自覚する恋慕の一端だったのだろう。ピッコロさんは、雪を被りながら訪ねて行った僕に驚いてこそいたが、追い払うこともなく一緒に雪を眺めてくれた。
「……今はじめてその話を聞いたから、これまで言わなかったが」
掛け布団の上に置いていた僕の手に、ピッコロさんが自分の手を重ねながら口を開いた。二人分の手の重さが、白いシーツの中へ他愛なく沈み込む。
「荒野に雪が降ったのを、おれも見ていた。自分でも甘いと思うが、時たまお前の様子を見に行っていたからな」
「……ほんとに?」
「雪の中にお前が燥ぐ様子も、見ていた。雪玉を作ろうとして、泥玉になってしまって、残念そうに川へ投げ捨てるのも」
ピッコロさんは呟いて、じっと僕の目を見た。朝まだきの空のような瞳に、僕の姿だけが映っている。幾千度も覗き込み、そしてそれと同じだけのまなざしを返してくれた、僕にとって世界で一番美しい瞳だ。この瞳に、あの日、僕が走り回る様子も、そして雪も、映っていた……。
「ああ……ああ、じゃあ僕ら」
僕は胸がいっぱいになって、涙が零れないよう思わず目を伏せた。
「はじめからずっと、一緒に雪を見ていたんですね……」
返事のかわりに、ピッコロさんの手に力が入る。ひとまわり大きな手は昔と同じく、幅狭くなめらかで、黒瑪瑙のような爪がつややかに光っていた。反して僕の手はずいぶん痩せて骨ばかり目立ち、乾いて衰えている。
「知れてよかったです。本当に。これで」
思い残すことがなくなりました、と言いかけて、僕は言葉を飲み込んだ。きっとピッコロさんは聞きたくない、僕だけが満足する身勝手な言葉だろう。僕は手を裏返して、ピッコロさんの手を握り返す。
「……今も、あの荒野に雪が降ることはあるのかな。また一緒に見たいですね、いつか」
僕は嘘をつく。出来もしない、空々しくて気休めにもならない、この人を置いて行くことになる自分の後ろめたさを誤魔化したいだけの嘘だ。ピッコロさんはそんな僕の卑怯な心持を分かっていながら、気付かないふりで頷いてくれる。
勢いを増した雪は枯れ枝を徐々に白く染め、窓枠の際に貼りつきはじめていた。室内が暖かいだけに、曇天がよりいっそう冷たそうに見える。荒野で一人眺めた冬の空も、こんなには冷たそうではなかった。それは、いずれあの人にまた会えると、希望があったからだろう。今は違う。もう足音すら聞こえるほどに、別れが近付いている。
だが、あの空を本当に冷たく感じているのは多分、ピッコロさんだ。僕は、ただ思い出を胸に去るだけ。重く垂れ込める冬空の下に、ひとり残されるのは、僕ではない。
「あの……お願いがあるんですけど」
「なんだ?」
「何年後か、何十年後か……もしもですよ? 僕がいなくなったら、神殿へ戻ってほしいな……あそこにはデンデもいて、安心だから」
ピッコロさんはすぐには答えず、窓ガラスに辿り着いては溶ける雪を見ていた。金属の窓枠はすっかり冷えていても、ガラスの真ん中では、室内の暖かさが伝わって雪を溶かすのだろう。
暫くの沈黙の後に、ピッコロさんは目線をこちらに寄越し、そうしよう、と穏やかに答えてくれる。察しているのだ。ピッコロさんの今後が安心だという他に、僕が安心して世を去れるという意味が、含まれていることを。
「ただ……その冬はじめての雪が降った時には、一人で地上へ見に来よう。たとえ神にでも、お前との時間を邪魔されたくはないからな」
「そう……うん……そうですね。僕、いなくなった後でも、毎年かならず見に来ます。その冬はじめての雪の日には、ピッコロさんのところへ、かならず」
少し力なく、甘やかに切なく、ピッコロさんは微笑む。その場しのぎの慰めだと分かっていたが、それでも約束したかった。握り合っている手が、暗い空の冷たさに対して、熱いほどあたたかい。
この雪は積もるだろうか。あと何度、こうして触れ合いながら、雪を眺められるだろうか。どちらも口には出さなかったが、きっと同じことを考えていただろう。
窓が雪に覆われてしまうまでの長い間、薄暗い景色を散る花のように彩る雪ではなく、互いの体温に、心を奪われていた。