【飯P】夏を抱いて爪を立つ 細く鋭い三日月が、天頂に頼りなく貼り付いている。空は橙と紫の間にあり、夜がすぐそこへ迫っていた。辺りには、若葉の青い匂いと梅雨前の湿った土の匂いが満ちている。連山を望む草原はほの暗く、叢立つ露草の青が、初夏の風に揺れていた。
腕の引っ掻き傷を眺められていることに気付いたのか、悟飯がピッコロに笑いかけた。
「……大丈夫ですよ、痛くもなんともなかったし」
「すまない、注意不足だった」
ここへ着いてすぐ、突然飛んできた虫を躱して悟飯は大きくよろめいた。咄嗟にそれを支えようと手を出したピッコロの爪が、悟飯の手首から肘まで届く長い傷を作ってしまった。
「注意不足は僕の方ですから……却って、ピッコロさんに怒られずに済んでよかったです」
茶化して話す悟飯に、ピッコロも漸く安堵する。細く長い引っ掻き傷は、少し赤みがさしている程度で、出血を伴ってはいない。
「動物の爪って、大まかに三種類に分けられるの、知ってますか」
「いや……」
荷物を拾い上げながら口を開いた悟飯に、マントを身につけたばかりのピッコロは首を傾げた。真昼からずっと動き通しで、身体には快い疲労が満ちている。自分との組手では、悟飯はもはや全力を出せていないのは明らかだった。それでも誘いに来るのは、悟飯なりの気遣いなのだろうか。
「僕らみたいに物を掴む生き物の『扁爪』に、狩りをする動物や鳥の『鉤爪』、それから長距離を走る動物の『蹄』……」
話しながら、悟飯はさり気無く手を伸ばしてくる。持ち上げられたピッコロの手の爪は、悟飯の腕に引っ掻き傷を作ってしまったように鋭く尖ったものだった。しかし、いまの分類に当て嵌めるならば『扁爪』にあたるのだろう。
「出しっ放しの僕らの扁爪と違って、豹や虎、猫も……彼らは獲物を追い詰めるまで鉤爪を隠して、いざとらえる時だけ爪を立てるそうです」
「……どういう意味だ?」
「追い回して追い詰めて、もう逃がさないと確信したその時にはじめて爪を立てることで、より鋭く、効果的に食い込ませることができる」
悟飯の指先が、迷いなくピッコロの爪をとらえる。黒い爪を上下から摘まんでいる指には、全く力が入っていないのに、ピッコロは何故か引き抜くことができない。普段意識することはないが、爪というものは思っている以上に敏感で、こうして固定されると指自体を動かせなくなる。
「ピッコロさん」
爪は解放され、代わりに指と指が絡み、手全体を握りしめられる。抵抗する気は起きず、ただ体温の差を感じた。悟飯が子供の頃から、手を握られることは度々あったが、あの頃と比べると少年の手はずいぶん大きくなり、力も強くなった。
「……ピッコロさんはずっと、僕を善良な弟子としか見ていませんよね」
「他に何がある?」
「何も……そう思っていて、もらいたかったので、上手くやれてたんだなって」
悟飯が微笑む。握られていた手の甲に、悟飯の唇が降ってくる。吐息の熱に触れた途端、ピッコロは気付いた。
爪を隠していたのだ、悟飯は。
年月の中で少しずつ距離を詰め、決して無理に押し付けるような交流は求めず、そのうえで逃げ道を塞ぐように寄り添ってきた。元々ないようなものだった悟飯への警戒心など完全に消え失せ、どれほど触れられようとも、いつしか違和感を覚えなくなっていた。
「……おれを獲物にするつもりか?」
「もう遅いですよ、爪を立てるところだから」
やにわに手を引かれ、ピッコロの身体は容易く悟飯に倒れ込んでしまう。
「お前の爪は扁爪ではなく、鉤爪だったんだな……」
「確かめてみます?」
気付けば、鉤爪は身体の深くにまで食い込んでいて、もはや逃れられない。
落陽の最後の一筋の光が、鉤爪のごとき鋭さで輝き消える。細い三日月の白は極めて濃く明るく、夏が目前であることを知らせていた。