【飯P】指南すべきは宵に尽く 夏の夕暮れの風は、実にゆっくりと夜を連れてくる。濃く湿った夕陽が落ちるにつれて、地平線に近い空の底だけが鮮やかな紅色に染まり、天頂から滑り落ちる濃紺は、紫を経てそこに到達する。
ピッコロさんが無言のままに服を整えるのを、僕は地面に座り込んで見ていた。最後の最後で、躱すことも受け流すこともできず拳を受け止めたから、手のひらに痺れが残っている。手を握り込んで、また開いて、じっと眺めていると、ピッコロさんから声がかかる。
「そろそろ、終わりだな」
「はい! 明日また……」
「違う。おれではもう、セルすら圧倒したお前の修業の相手にはならん。今日で終わりだ」
僕は言葉の意味を理解できず、少しのあいだ返事に詰まった。草擦れのかすかな音が、やけに遠くから響くようだ。一瞬の後に慌てて身を乗りだし、手のひらをかざした。
「そんなこと……最後、躱せなかったし」
「その一回だけだろう。その一回しか、まともに当てられなかった」
ピッコロさんは淡々と言い、かざしていた僕の手を引いて立ち上がらせてくれる。僕は言葉を重ねようとしたが、何を言っても空々しくなりそうで、ピッコロさんの手を強く握り返した。自分の力や、相手の力を見誤るような人ではない。ピッコロさんが、僕にはもう教えられないと確信しているなら、きっとそうなのだろう。
「お前が強くなって、これほど嬉しいことはない。伝えるのが遅すぎたくらいだ……」
「……じゃあ、もう、こうやって、修業のために毎日のように会うことも」
ピッコロさんは珍しく戸惑った様子で、言い淀んだ。
「そう……だな、何も教えることがない以上、こう度々、来る必要はないだろう」
僕は暫し、俯く。青く繁る夏草の上、薄らぎはじめた二人の影が同じ方向に伸びている。僕の手はまだまだ子供の手で、ピッコロさんと比べるとずいぶん小さかった。
「……だったら、今度は僕が教える番になります」
「なにを」
「思ってること、素直に伝えるやり方とか。相手が好きだって思ったら、どうするのかとか。ピッコロさんそういうの、苦手そうだから」
たそがれる草原に、沈黙が落ちた。ピッコロさんは一笑に付すでもなく、かといって僕の不躾な物言いに怒るでもなく、掴まれたままの手を静かに引き抜こうとした。
「伝えるのが遅すぎたって言いましたね。何故?」
僕は手に力を入れて、逃がさないように指先を絡める。修業を終えたばかりの身体は、指先もいつもより少しあたたかい。
暫く黙ったまま手を引こうとしていたピッコロさんが、とうとう観念したかのようにため息をついた。
「……修業という目的があればこそ、お前は会いに来るだろう。それがなくなるのが、惜しかった。さりとて、永久にこうもしていられない」
僕はつい笑ってしまい、今度はほんの少し睨まれる。
笑いたくだってなる。そんなのずっと、僕の方が考えていたことだ。修業という名目があるから、何でもないような顔をして日々会いに行けたのだ。同じようなことを考えながらも、互いにそれに気付かず過ごしていたなんて、僕らは本当に修業不足だ。
「じゃあ、明日からはピッコロさんの修業のために訪ねますね。好きだってこと、伝える方法の修業」
「……さっきから、おれが誰を好きだって?」
「僕ですけど……違いましたか?」
笑顔を引っ込めて目を合わせると、ほんの一瞬だけ視線が伏せられる。すぐに目が上げられ、まなざしがしっかりとぶつかった。
「違わない」
忍び寄る宵闇を通しても、そこにだけ入陽が残ったような瞳には、確かな力と真摯な熱があった。
「……思ったより、上手ですね、伝え方」
「元弟子に舐められてばかりいられるか」
ピッコロさんは冗談めかして笑って、今度は反対の手まで使って、とうとう僕の手を引き剥がした。
「教わることがなくなっても、僕はずっとずっとずーっと、ピッコロさんの弟子ですよ」
「明日からはおれが弟子ではなかったのか?」
「ううん、二人で修業していきましょう、明日からも」
草原に、ひそやかに湿った夏の夜が降りてくる。手をぐっと握りしめてみても、力強い拳を受け止めた痺れは既に残っていない。ただそのかわりに、長いこと手を繋いでいたピッコロさんの体温が、甘く残っている気がした。