今、何時だ?時計があるはずの壁に目をやるが開けたばかりで暗さに慣れていない俺の目は時間を読み取ることができなかった。手探りでスマホを探す。画面の明かりが眩しい。目を細めながら時間を確認すれば二時一三分。犬飼は、もう寝てるだろうか。
上半身を起こして、それから脚を投げ出して、ギっと軋む音がするベッドを抜け出す。紫音のベッドを横目で見たら、あいつは今日も居なかった。どこ行きやがった。
寝顔を見るだけのつもりで向かった犬飼の寝床だったが、結局それは叶わなかった。なぜなら犬飼は起きていたからだ。
「あれ? 土佐くんどうしました? トイレですか?」
俺を見上げながら随分と短い間隔で瞬きしている犬飼はおそらく、かなり眠いんだろう。
寝ねえのか、と聞いた俺に、ええ……眠いんですけど……ね……と言って笑った。いつものあの面だ。俺は犬飼の顔を思い出すとき、いつも最初にあの面が浮かぶ。困ったように笑う、とでも例えればいいのか、俺にはよくわからねえが。
「俺も、眠れねえ」
「土佐くんもですか。うーんどうしてでしょう、暑いからかなあ……」
独り言の様に言いながら冷蔵庫を開けて、飲みます? と言って麦茶の入ったピッチャーを出してきた犬飼に、俺は黙って頷く。俺の目の前にグラスを置いてそのまま注ごうとするが、傾けすぎてかグラスから溢れた。麦茶の水溜りは、犬飼の情けねえ面を映していた。
「はは……やっちゃいました。眠くて手元が……でも眠れないんですよね、困っちゃいますよね。すみません、今拭きますから」
そう言って布巾を取りに行こうとしたので、ティッシュでいいだろ、と言って俺のすぐ横にあった箱をテーブルに滑らせる。受け取った犬飼は、勿体無いですよ、と言ってやはり布巾を取りに行こうとするがしかし、すぐに、まあいっか、と言ってこちらに向き直った。
すっすっと素早く何枚か抜きとってそしてテーブルを拭く。その動作が、そんな動作で、俺はいつかの夜を思い出す。あのときも眠れなかったのだったか、それとも別のきっかけがあったのか、今となっては思い出せねえが。
俺はテーブルを拭く犬飼の手を掴んで、思い切り引き寄せた。えっ、と言ってテーブルの向こう側の犬飼は俺の顔を見る。見て、そしてすぐに逸らした。それが何だか癪で、身を乗り出して犬飼に噛み付いた。急なことだったのにあいつは、しっかりと固く口を閉じていて、受け身を取られたような気持ちになった。そしてそのまま受け流すつもりなんだろうと。
気に入らねえと思った。
「口、開けろ」
「…………」
「あ、けろ、」
「…………」
諦めたように口を開けた犬飼は、そこからは素直だった。テーブルを挟んでしばらくそんなことを続けているうちにあいつがグラスを倒した。水溜りが広がる。ぽたぽたと床に落ちる音がする。犬飼は、それでもやめようとはしなかった。あいつが何を考えていたのかはわからねえ。だが、今は俺だけを見ていると、そう思ったらどうでも良くなってやり続けた。そして床に落ちる音がしなくなった頃に、それは終わった。
「床、拭かなきゃですね……土佐くん、手伝ってくれますか?」
「めんどくせえ」
「じゃあ私が床を拭きますから、土佐くんはテーブルを」
犬飼はまた同じような手つきでティッシュを抜きとって俺に渡す。それからその倍の枚数抜き取って、しゃがんで床を拭いた。
麦茶でぐちゃぐちゃになったそいつ、揺れる犬飼の背中、ゴミ箱に捨てる腕。全部、全部、全部が記憶の夜に結び付く。ガキかよ。くだらねえ。
「……寝る」
「眠くなりました? 良かったです。私もなんとか寝る努力、してみますね。おやすみなさい」
「ああ」
俺はまた何度でも思い出すんだろう。水溜りをわざと踏んだときみてえな派手な水飛沫が乾くまでは。その水溜りを踏んだあいつが、俺をあの面で見上げ続ける限りは。
畜生、やっぱり眠れる気がしねえ。