いっせん、いちや(途中経過・軍会8開催おめでとうございます!)3.片割月
越えてはならない、一線というものがある。
それはいわゆる、生きている者たちの間で暗黙の了解として存在して、善悪の境を定めるものであったり、ひととして生きてゆくための最低限の則(のり)を定めるものであったりする。
また、物理的にも一線はある。
その場所を越えてはならないと、定められた場所は、確かにある。
理由は、さまざまだ。だがつまるところ、「そこを越えてしまえば、二度と戻れなくなる」という一事に尽きるのかもしれない。
山の奥、鳥獣すら道をつくらぬ、昼でも暗い繁みの奥に踏み込んで、もと来た道も、己がいま在る場所も、なにもかもが判らなくなってその場に倒れ、動けなくなり、ついには骨ばかりを残し土に還ってしまうように。
決して誰も入らないその場所に、その青年はいた。
飢えているのか、それとも負傷しているのか、ぴくりとも動かず目を閉じて、まるでその自分の身を隠すように繁みの中に蹲っていた。人の子の胎児のような恰好で背を丸め、長い手足を縮めて躰の前で抱きかかえるようにして、微動だにしない。
死んでいるのではないと、それだけは判った。軽く指の背で草露に濡れた頬や蟀谷の辺りを触れてみても、青年はぴくりとも反応を見せなかったし、肌はとてもつめたかったけれど、まだその奥に命のぬくみがあることは、伝わってきた。
その青年は、頭の右側に額宛てのようなものを着けていた。その下から何か透明な液体が滲みだし、やはりしっとりと濡れている髪の中へと吸い込まれている。汗ではないようだった。汗にしては、流れ方がそこばかり、おかしい。皮膚の毛穴から滲んだというより、その額宛ての下に何か大穴があって、血の代わりに流れ出しているようにも思えた。
誰も、辿り着かない場所だった。
山奥には、それ以上踏み込めば危うくなる場所がある。だから里人も、山に慣れた猟師ですら、その場所から奥へは踏み込まないという不文律がある。
そこから先は、人の場所ではない。そこにいていいのは、獣たちばかりだ。
だが、それでも全く足を踏み入れるものがない、というわけでもない。うっかりと薬草や茸を探し、また獣を追ってその場所に足を踏み入れてしまう者も在るにはある。運が悪ければ行倒れるが、澤に落ちたり道を見失ったりしながらも、満身創痍で人のある場所へ帰ることのできる者もある。
そして稀に、人が近付かないからこそ、潜むものがある。人と交わることを、極力避けている者だ。
ただ人と共に里で暮らすことに向いておらぬものも、この世には在る。だが、たちが悪いことに、そういう場所には何か後ろ暗いことがあったり、知られてはいけない何事かを隠さねばならないものたちも、また、潜む。
だがそういう者たちすら、あるいは獣でさえも近付かぬ場所がある。山であれば鬱蒼と木々が茂るのは道理で、そこばかりが暗 いという訳ではない。陽の光も届く。生き物が棲めぬほど、寒いわけでも暑いわけでもない。
だが、その場所に立てばわかる。その一線を、越えてはならぬと。
そこから先へ進める者は、限られている。獣であれ、無意識にその掟に従い、滅多なことでは近づかぬ。その内に棲むものたち以外は。そして、その先に足を踏み入れてどうなるか、知るものとてない。
その一線を越えた場所に、その青年は倒れていた。
まるで自らの力が戻るのを、静かに静かに待っているように。怪我をした獣が、自分の窖(あなぐら)の中で、動かずにいるように。
彼はそれを見て、最初はそのままにしておこうかと思った。というより、「しておくべきだ」と思った。恐らくはそこにいる青年は、この場所を選んで、ここにいる。夜の闇の中、呼吸(いき)すらもしておらぬかのように静かに、待っている。
待っている───何を?
そう思った刹那、彼の指の背が触れている肌が、動いた。
「───!」
咆哮、唸り、そのいずれともつかぬものが空気を叩き、そしてあとには、荒い呼吸が続く。既にそれは、ひとの呼吸ではなかった。だらりと蟀谷から汁を垂らし、汗と垢に塗れて、幾日も彷徨ったせいで固まってしまった髪が額に張り付き、それでも項から頭頂にかけては、逆立って点に向けて尖る。
喉奥から響いていたのは、低い唸りだった。そこに込められていたのは、威嚇だ。怒りではない。己に触れるなと、満身がそれを伝えている。大きく赤く開いた口からは牙が零れ、かっと開かれた眼は、きんいろの光を放っている。
「大丈夫だ」
彼はその金色のひかりをまっすぐに見据えて、そう言った。手は伸ばさず、自分の躰の近くに引いて、緩くひらいた掌を、その青年の方に向けている。
「何もしない。だが、もしや助けが欲しいなら」
この場所に来たのが、死ぬためでないのであれば。そう、彼は低く続け、自分の掌の上へ、ゆっくりと視線を落とす。
空気が、動いた。風もない夜の底、ただその青年が動く気配だけが近付いて、おずおずとその掌に預けられたのは、つめたい土に汚れた頬の感触だった。
すり、と掌に擦り寄ってきた口から、安堵したような呼吸が漏れる。そこで漸く彼は力を込めて、青年の重さを腕に受け止めた。
気が抜けたように、青年は意識を失っていた。それを抱え直し、彼はぽつりと呟く。狩場明神か、と。
その瞬間、繁みの奥の最も闇の濃い部分が、ざわりと動いた。
「それにしちゃあ、えらくみすぼらしいですな」
低く低い弦の声が、揶揄うように弱い風とともに届く。ちらりと視線を向ければ、その場所に金色の芯が滲む赤の色が、まるでちいさな焔のように浮かんでいた。
その前で青年を抱え直す彼に、低い笑い声と共に、どこか猫が喉を鳴らすような音が響く。
「【口のついたものを家に持ち帰る気はない】が口癖の月島さんらしくもねえ」
揶揄するような声に、月島は青年を肩に担ぎあげ、立ち上がると、その声に向かって言った。
「これは俺たちとも違う。だが、ひとでもない」
山の一部だ、と月島は答え、それに闇の中の声は更に嗤う。ぐだぐだ言い訳せんでも、あんたの情が濃いのは、よぅく判っとりますよ、と。
「さて、狩場明神というのは本来、山の主(あるじ)の媛神様の使いの犬だが、あんたはそれを気取るつもりか?」
「ふざけるな、尾形」
たぶんこいつには、他にそういう相手がいる。そう、月島は続ける。
「こいつの持っている小刀は、アイヌの女のものだ」
確かにそれは、「メノコマキリ」と呼ばれるものだった。青年の帯から下がっている小刀は、鞘と柄は木製で、精緻な木彫りの紋様が彫られている。アイヌでは、男がその小刀を作り、女に渡して求婚するというものであり、女はその出来栄えで男の力量をはかり返事をするのだ。
だが、それを青年が持っているというのは、彼がこれから誰かにそれを渡そうというのか、それとも誰かの小刀を預かってでもいるものか。
「案外、どこかの女を食い殺して、そのメノコマキリとやらを奪っただけかもな」
意地のわるいことを言う闇の中の声に、月島はしかし、あっさりと答えた。
「もしそうだとすれば、さぞ業の深い奴だから」
食ってしまえばいいことだ。そう当然とばかりに言い放つ声に、闇の中の声の主は、紅い焔の瞳を細め、愉しくてたまらないといわんばかりに声を立て、嗤った。
それが、杉元佐一を月島が拾った折のことだった。
「ニㇱパ、月島ニㇱパ!」
磨屋(とぎや)の店先で呼び止められ、月島は周囲を見回した。
「ニㇱパ、まだいた!よかった!」
「エノノカ」
駆け寄ってきたエノノカに、月島は軽く眉を上げ、そして言った。
「そっちこそ、まだいたのか」
怖い目にも遭ったし、ヘンケと一緒にもう自分の村へ戻ったかと思っていたが。そう言う月島に、エノノカは今しがた月島が出てきた店を、ひょいと覗く。
「まだヘンケも、こっちでやることあるから。それと、ニㇱパが言ってた、アイヌの子のこと気になって……ここ、何の店?」
きらきらと大きな目を輝かせて戸口の奥を覗き込むエノノカに、「磨屋(とぎや)だ」と月島はそっけなく答える。
「とぎやって何?」
「刃物を修繕して貰う場所だ」
自分でできないこともないが、専門家にやってもらったほうが、やはり仕上がりがいい。そう続ける月島に、エノノカは更に問いかける。
「どんなのを頼んだの?専門家?って、特別上手なの?どんなふうに直すの?」
どうやら、エノノカという少女は好奇心が旺盛らしい。というより、自分の住んでいる村と街の違いに興味津々というところか。おそらく昨日もそうやって、あちこち覗き込みながらうろうろしているところを捕まったのだろう。
「昨日の今日だろう。またそんなふうにうろちょろ歩き回っていると、また変な奴らに目をつけられるぞ」
怖い目に遭いたくないだろうと、月島は眉間に皺を刻んで幾分険しい声を出す。普通の子供なら、それだけで竦み上がったり、事によっては泣き出してしまうのだが、その強面もエノノカにや通用しないらしい。
「ん、大丈夫。だって月島ニㇱパがいるでしょ?」
当然とばかりにけろりとそう答えるエノノカに、月島は露骨に面倒臭そうな表情になって、わざとらしいほど大きな溜息を吐いた。
「……俺は子守をする気はないぞ」
ぼそりと低い声は、敢えて少女に聞こえる様に呟かれた事は明白だったが、しかしそれが自分の事だとは思ってもいない様子で、エノノカは不意に何かを思い出したかのように「あっ!」と高い声をあげる。
「そうだニㇱパ!何か直すのをそのお店で頼んだってことは、まだしばらく、この街にいるって事だよね?」
「そう長居はせんと思うが、どうした」
「アイヌの子の話!」
ちょっと気になる話、聞いたから、ニㇱパに教えなきゃと思って探してた。そうエノノカは言いながら月島の袖をぐいぐい引っ張り、歩き出した。
「お、おい」
どこへ行く気だ、と顔を顰めながらもされるがままに付いて行く月島に、「いいからこっち!」とエノノカは小走りになりながら、店の軒先の並ぶ表通りから、狭い小路を通り抜け、一本裏通りへ入ってゆく。
勝手口のような小さな入口ばかりの並ぶその場所は、今は皆が店の方へ出ているせいか、人通りも少ない。ぽつぽつと雑用をする女中や下男が通り過ぎるばかりなのだが、不意に現れた見慣れない男とアイヌの少女の組み合わせがひどく場違いに見えたのか、胡乱な目を向けている者もいる。
少女はそれを特に気にする事もなくどんどん進んでゆくので、仕方なく月島もそれについてゆく羽目になった。何せ昨日の今日だ。うっかり見失ってしまえば、今度こそ怪しい連中に捕まって売り飛ばされかねない。昨夜の宿の主人が言っていた「子供が姿を消す」と言う話も未だ真相がはっきりしているわけでもないし、何よりこの集落で明らかにアイヌとわか身なりの少女が一人で歩くのは危なっかしい。
言いたくはないが、ここでは彼女は明らかに「余所者」だ。それも、見慣れない、別の土地から来たものではない「自分たちの社会とは違うところに属するもの」なのだ。彼女たちが自分たちを「シサム(隣人)」と呼んで一線を画する様に、自分たちもまた彼女たちは違う国に住む者の様にも感じている。そればかりか、ある者は自分たちの社会に馴染まぬ、言葉も生活習慣も違うものとして一段見下げ、あたかも山の獣の様に粗雑に扱ったり、はなから何かをしでかすのではないかと疑いの目を向ける事もある。例えば、こんな商家の裏口であれば、盗みにでも入る気なのかと話も聞かずに捉えて酷い暴力を振るうような真似をするものもいる。それが女子供であれば、尚更のことだ。人が多く集まれば、自分が容易く捩じ伏せられる弱い者に対して、日々の憂さを晴らすような理不尽を働き、なおかつそれが治安を守るための正当な行為だとばかりに堂々と暴力的な行動に出る者もいる。そういった者が、一方的に話も聞かず捉えて引っ立てて騒ぎ立てる事もあるだろう。
月島のが保護者のようについていれば、おそらくそういう厄介ごとは回避できるはずだ。とはいえ月島もここでは余所者には違いなく、しかもお世辞にも人相はよろしくない上に、小柄であることを侮られ、腕自慢の用心棒が絡んでこないとも言い切れない。
だが幸いにしてそういった事もなく、むしろいつの間に馴染んだのか、時折エノノカに向かって声をかける者もいた。
「あら、今日も来たのかい?じいちゃん放りっぱなしで大丈夫?」
「うん、ヘンケは鰊粕の買い付けしてる」
「あの耳の遠い爺さんじゃ、エノノカがいなきゃぼったくられちまうぞ?」
「へいき!もう値段の交渉はちゃんとした!あとはどのくらい一度に持って帰れるか、日付の段取りしてるだけだから!」
「船を借りるなら、六兵衛のとこはよしとけよ!あそこは最近特にあくどいからな」
「知ってる!ありがと!でもあんな大きいとこには頼まないからだいじょうぶ!」
月島よりよほどこの辺りで顔の効きそうなエノノカに対し、寧ろ胡散臭いのは自分のほうかと月島は苦笑した。何度かこの町には足を運んでいるのだが、必要な用事だけを済ませてとっとと山に戻るため、顔馴染みの店主はいても、雑談を交わしたりするようなことは、これまでにもほとんどないと言っていい。
そんな中で、エノノカの後ろを、おそらく他人にすればむっつりと黙って付いてきている月島が気になっているらしい視線に気づいたか、エノノカが元気よく言い放つ。
「今日は、ヘンケじゃなくて月島ニㇱパの付き添い!」
その言葉に思わず月島は目を見開き、そしてその様子を見た周囲がどっと笑い崩れた。
「そりゃいいや!」
「今日は昨日のことがあったから、えらくおっかない用心棒を連れてきたと思ってたが、そっちの兄さんがエノノカに世話されてたか!」
いつの間にそう言うことになっていたのかと、月島の眉間の皺がつい深くなったが、しかし訂正するのも面倒くさくなり、そのまま無言で否定も肯定もしないままエノノカの後ろを付いて歩く。
そんな中、エノノカが覗き込んだのは、おそらくは茶店の裏木戸だった。
特に戸締りもしていないのか、そっと引き戸を開けて中を覗き込むと、ぱたぱたと近づいてくる気配がある。
「紅子ちゃん、連れてきた!」
このニㇱパが、アイヌの子の話を聞きたがってるニㇱパ。そう小声で話しかけるエノノカに、裏口からひょいと顔だけを出して瞬きしたのは、未だ幼さの残る、ふっくらした頬の少女だった。
柔らかそうな、ほんの少しくせのある波打つ髪を、重たい髷から軽やかに、最近流行り出した束髪の、西洋下げ巻きという髪型に結い、着物の上からフリルのついた、白いエプロン。店の裏側からは創造し辛いが、どうやら表側は鄙には珍しい開明的な雰囲気であるのかもしれない。
その少女が、エノノカを見てあらわした微笑を、ゆっくりと月島の方へ向け、いくらか曇らせる。
いくらエノノカが連れてきたとはいえ、やはり若い娘にとっては、自分の見た目からは警戒心しか抱かせまい。そう思い、改めて「すまないが、」と切り出そうと口を開きかけたところで、しかし先に口火を切ったのは、店の中にいた少女のほうだった。
「ごめんなさい!知らない人に、こんな相談すべきじゃないって、わかってるんだけど……」
眉を寄せた不安げな表情は、どうやら月島に怯えていたのではなく、初対面の人間に何らかの厄介ごとを持ち込もうとする、申し訳なさから来たものであったらしい。
「ちょっと、中に入って貰ってもいい?」
狭っ苦しいところで申し訳ないけど、という言葉通り、通された場所は店の勝手口から土間を上がったところに、三畳ばかりの広さを取った場所だった。おそらくは、店の使用人たちが、客が途切れた合間を縫って、一息つくための場所なのだろう。
店の方はそこそこ客も入っているらしく、ざわざわと人の声が聞こえてくる。他の者もみなそちらに出払っているのか、エノノカに紅子と呼ばれた少女以外は、裏手には回ってくる気配はないようだった。
「ごめんなさい、外で話してると、人目についちゃうし」
お店の贔屓にしてくれるお客さんに変な誤解をされると困るからって、おかみさんに怒られちゃうし、そうでなくても、あまり他の人に聞かれたくないから。
紅子はそう言って、改めて月島の前で手をついて挨拶をする。
「紅子、っていいます。この茶店には、少し前に引き取られてきて」
「カンバンムスメ?っていうの?」
エノノカが口を挟む。
「人気者だから、男の人と外で会ってちゃダメなんだって」
「そんなたいしたものじゃないけど、気を悪くされたらごめんなさいね」
重ねて頭を下げる紅子を、月島は軽く手を上げて制した。
「いや、気にすることはない。というより、当然の配慮だ」
それで、アイヌの子についての話というのは、どういうものだ。そう訊ねる月島に、紅子は少し考え込むように視線を落とした。
「ここ暫くの不作のせいで、口減らしに町へ奉公に出される子が多くなってて、このあたりのお店(たな)にもそういう子がたくさんいるんだけれど……」
ここだけじゃなく、あちこち、百姓の家ではそういうことが多くなって、と紅子はぎゅっと、正座をする膝の上で拳を握る。
「ただ、そうなってくると、普通の口入屋からの紹介だけじゃなく、たちの悪い人買いみたいなのも混ざり出して」
「ああ、」
借金のかたに、ほとんど人攫い同然に子供を売り飛ばしたり、いかがわしい店で働かせたりするような者も現れる。現に、昨日エノノカが遭遇したのも、そういった連中だった。
「だから、連れて来られた奉公先から逃げ出す子もいて、でも、逃げ出すような扱いをするような雇い主なら、そんな子たちわざわざお金や手間暇かけて探すこともしなくて、」
「それで神隠し、か」
そうぽつりと呟いた月島に、紅子ははっとして顔をあげた。
「知ってるの?」
「このあたりじゃ、結構な噂になってるんだろう?」
そう訊ねてやれば、紅子はぎゅっと眉根を寄せて頷いた。
「でも、でもね、神隠しってことにして逃げ出した子をそっと匿ってる場所もあるの。そうしなきゃ、本当に虐め殺されるようなところもあって、」
この町だけじゃない。そんなに大っぴらに言われないだけで、どこにでもある話。そう紅子は言って、また俯いて、ぐっと自分の前掛けの、膝のあたりをつよく握りしめた。
「あたしも、ここに来る前は、そうやって匿ってもらってたから」
みなしごだった私を拾ってくれたひとが、ちゃんとした奉公先を探して、おかげでいま、ここで働いてるから。そう言う紅子のつむじの辺りを、月島はじっと見下ろしている。
「でも、紅子ちゃんが心配してるアイヌの子は、そうじゃなかったんだよね」
ちゃんとしたお店にいた子だったんだよね。そうエノノカが問いかければ、紅子はじっと何かを考えるように無言で視線を落としたまま、意を決したように顔を上げた。
「お店(たな)の中の話は、そうそう外に出て来ない。普通に大事にされてるように見えて、実は番頭や女中頭がきつくて奉公人がびくびくしてるなんて話も、よくある。でも、あのアイヌの子がいた店は、そんな店じゃなかった筈」
他の丁稚たちと同じく、とても大事にされてた。ご飯も着るものもちゃんとしてた。いくら外面を取り繕っても、おおっぴらにされなくても、内側の酷い店は結局、界隈じゃ噂になっちゃうから。
そう続けた紅子は、まるで縋るような眼を月島に向ける。
「あのアイヌの男の子がいた呉服屋は、もともと養子を探してたの。長男が流行り病で亡くなって、そのあと奥さんが気鬱から大病を患って子供ができなくなっちゃったから、引き取った子を小さいうちから仕込んで、一人前の商人にして店を継がせたいって」
その話に、月島は僅かに眉をぴくりと動かした。だが何かを気取られるほどの表情の変化ではなく、紅子はそのまま続ける。
「とてもとても大事にして、自分の死んだ子の名前までつけて、ちゃんと迎えようって、アイヌの子相手に物好きなって、ちょっと噂になって……なのに、」
「だが、そのアイヌの子は、いなくなったわけか」
月島が訊ねると、やはり紅子は頷いた。
「逃げ出したって言われて、やぱりアイヌの子は駄目だ、犬の子でもまだ受けた恩を忘れないって……あ、」
そこまで言って、傍らのエノノカに気付いて手で口を押えた紅子に、エノノカは「だいじょうぶ」と逆に気を使うような表情を見せ、紅子の膝に手を置いた。
「だいじょうぶ、紅子ちゃんがそう思ってるんじゃなくて、そういう噂になったってことで、」
逆に紅子ちゃんは、そう思ってないから、心配なんだよね?と覗き込むエノノカに、何度も紅子は頷いた。
「ここだけじゃない。余所でもあったの。別にいじめられたわけでもない、むしろ可愛がられてた奉公人のこどもが、不意にいなくなることがあって」
その子供は、消えていた時に誰といたか、どこにいたのか、絶対に話そうとはしない。どこか要領を得ない答えばかりしか返ってこないのだが、きっとよほど怖いめに遭っていたか、子供のことだから少しばかり気の病にでもかかっていたか、とにかく無理をさせまいと、とにかく戻ってよかったと迎え入れる。あまり噂になってもかわいそうだからと、暫く調子が戻るまで、店の奥で養生させておいたりもする。
だが、そういう店が不意に、襲われることがあるのだという。
「ひどいやりくちで、店の者も奉公人もみんな、むごたらしい殺され方をして、ひどいときは火もかけられて、金蔵の小判や店にある金目のものはごっそり盗まれて」
この町ではまだ、そういうことは起きていないけど。そう紅子は少しだけ青ざめた顔で、何かを思い起こしているようだった。
「……そういう現場を、見たことがあるのか」
落ち着いた声で尋ねた月島に、紅子は縋るような眼を向けた。
「あたし、この店に来る前、もっと大きな町にいた頃に見たの」
その時、神隠しにあってたって子供も殺されてた。逃げようとしたのか、裏手の木戸口のあたりで、頸を掻き切られて、倒れてた。そう続けた紅子に、月島はやはり眉ひとつ動かさないまま見下ろし、けれどひとつ頷くと、ぽんと肩に手を置いた。それに促されたように、早口で紅子はまくし立てる。
「あのアイヌの子がいたのも、大きな呉服屋で、けっこう羽振りがいいの。だから、もしかして……って、あの子は逃げ出したんじゃなくて、悪い奴らに攫われたんじゃないかって、でもあの子は気が強かったから、もしかして、何かに気付いてしまって危ないめにあってやしないかって、むしろただ逃げ出した恩知らずだったらいいのにって、そんな風にも思って、あたし、そしたら、エノノカちゃんが、アイヌの子の話を聞きたがってるひとがいるって言うから」
「わかった、もういい」
わかったから、と月島は繰り返し、紅子の肩から手を離すと、ゆっくりと立ち上がった。
「月島ニㇱパ」
慌ててそれに倣って立ち上がるエノノカは、外に出て行こうとする月島の前に回り込んで、着物の帯のあたりを掴む。
「月島ニㇱパの探してる子って、その子なの?」
「わからん」
だが、関りがないとも言い切れん。そう言って、ふと紅子を振り向いて首を傾げる。
「しかし、その子供をかどわかした悪い奴が俺かもしれないとは思わなかったのか?」
そうだとしたら、逆にそのアイヌの子ばかりか、自分も危ないことに巻き込まれるとは思わなかったのか?そう訊ねる月島に、紅子は軽く目を見開き、そして立ち上がりながらふっくらした頬に、ようやく安堵したような笑みを浮かべた。
「もしそうだったら、わざわざそんなこと訊ねないし、もっと大仰に騒ぎ立てて、根掘り葉掘り余計なことまで聞いて来るでしょ」
それに、あたしも少しはひとを見る眼があるの。そう、紅子はきっぱりと言った。
「月島さんは、そういう人じゃない。あたし、ここに来る前」
女郎屋に売られかけたところを、曲馬団てとこに拾われて、踊り子をやってた。そう紅子は話しながら、二人を追い抜いて勝手口へ向かう。
「だから、悪い大人は、なんとなく見て判るの。そういう目を養えって、そこにいた踊りの先生にも言われたし、」
ここよりもっと都会で、危ないところを何度も、その先生に助けられて叱られたから。
そしてふと、悪戯っぽく肩を竦めた。
「その先生、女のひとだったけど、月島さんより怖かったのよ」
「うわあ」
思わず月島の顔を見上げて声をあげたエノノカが顔を顰め、「別に顔の話じゃないだろう」と月島におざなりに返されると、紅子は更に声を立てて笑った。
その紅子に、月島は訊ねる。
「ところで念のために聞くが、そのアイヌの子の名前を知っているか?」
「うん……ええ、と、わたしたちにすれば、変わった名前だから、」
紅子は少しだけ首を傾げて考え、そして答えた。
「チカ……パシ、そう、確か、チカパシって言ってたわ」