月に蛍とウシガエル「お前、そういうのよくないぞ」
夏掛け布団を捲り上げ、自分の隣にするりと滑り込んできたその相手に、月島は押し殺した声を上げた。その咎めるような響きを一切無視するように、伸ばされた腕が回される。
宛がわれていた客用の布団は、ふかふかで清潔で、その家の主が月島を心から歓迎してくれていることを表すように柔らかく心地よい。だが当然ながら、成人男性が二人で寝ることは想定されていない。したがって、あとから入って来た相手は、無理矢理布団の端に身を落ち着けているわけなので、たぶん背中側の半分が布団からはみ出しかけているような気がする。
そう考えながら、月島は背後から抱き締められた体勢から、なんとか躰を反転させ、自分の体を少しだけずらして、隣にスペースを開ける。その動きに合わせるように、隣にいる相手は月島を今度は正面から抱き締めつつ、自分の躰を布団の真ん中のほうへ移動させてくる。
「おがた」
よくない、と言いながらも、月島の腕も尾形背へ回されて、二人の躰が密着する。部屋の中は暗くて、かろうじてお互いの輪郭のなかにうっすらと目鼻が見えるような状態のまま、視線がぶつかった。
「よくないですかね」
笑いを含んだ声で、尾形がそう揶揄うように問いかけてくる。「ああ、よくない」と、月島は部下を窘める上司の口調で答えた。その真面目くさった響きが空々しいのは、月島が自分の背を撫でる尾形の手を払いのけられず、それどころか自分の腕も、尾形の背から首筋へと動いているせいだ。
「よく、ない、な……」
語尾が互いの唇の間でくぐもって消える。ちゅ、とお互いにもとめあう濡れた音とともに重なった唇が離れ、熱い吐息が零れて互いの頬に触れる。
このまま、もっと。そう思っているのに動きが止まるのは、ここが尾形の部屋だからだ。それも、尾形の実家───つまりは尾形の祖母の家の、かつて尾形が過ごしていた部屋だからだ。
畳の8畳ほどの和室には、尾形が使っていた学習机やベッドがそのまま残っている。部屋の主の几帳面さを表すように、傷ひとつなく、変な落書きや汚れもないそれらは、まるで部屋の主が出ていったその時のまま、埃が積もることもなく手入れをされている。まるで、ほんとうに、学生時代の尾形がそこで今も、生活しているかのように。そのことが、月島の心に妙な罪悪感というか、背徳感めいたものを生じさせていた。
とはいえ、当の部屋の主は、自分が寝るはずだったベッドから降りて、こうして悪戯を仕掛けてくる。それは月島よりは若いものの、顎鬚まで生えた、りっぱなおっさん寸前のお兄さんだ。
「尾形、」
「あんたが悪い」
言いながら、尾形が先より少し激しく、唇を貪ってくる。月島の頭の中に、尾形の舌の感触と、それが自分の舌と絡んで立てる音がくぐもって響く。俺だけのせいかよ、と頭の中で思い、じっさいそれを口にして抗議すれば、尾形はこつりと額に額をぶつけてきた。
「蛍を見つけたあんたが、あんなカワイイ顔したのが悪い」
「カワイイって、お前、」
本気でどうかしてるだろ。そう月島は思ったが、言うだけ無駄だと溜息を吐いた。
先に夜道を二人で並んで、コンビニに向かって歩いていた時。田舎道は都会の人間が思うほど静かじゃないんだよなあとか、ウシガエルの大合唱のなか、ときおり耳元を掠めるヤブ蚊や目の前に蚊柱を成すウンカを払っていたときに、ふわりと闇の中、ちいさな明かりが目の前を通り過ぎていったのだ。
『これ、蛍か?』
久々に見たその姿に、思わず声が弾んだのが、自分でもわかる。もうながいこと、蛍など見ていなかった。それが、尾形といっしょに歩いているときに目の前に現れて、まるで行く先を先導するように飛んでいったそのことで、すこしばかりはしゃいだ気分になったのかもしれない。
蛍ですよと答えた尾形の声は、どこか素気ないような気がして、自分だけ子供のようで少し恥ずかしいなと月島が思ったその瞬間、尾形の手が、月島の手を掴んで強く握る。驚いて尾形を見上げれば、視線を逸らして前髪を幾度も撫でつけていた。ああ、こいつと何かを察してしまったような気がして、それきり会話が途切れる。
あぜ道から国道へ出ると、先までの静けさが嘘のように、猛スピードの車が目の前を飛ばしていった。そこで初めて二人の手が離れ、押しボタン式の信号を渡るとコンビニに入る。煙草とビール、それからなんとなくソフトクリームを買った。溶ける前に帰らなければと足早になったところを、また国道を渡ってあぜ道に入るところで、尾形はふたたび月島の手を握り、こんどは強く引いた。少しよろめいた月島の躰を支えるようにひきずって、街灯の灯りもとどかない暗がりへ入り込むと、尾形の顔が近づいて来る。
誰か来たらどうする。そう思ったが、たぶん月島も少しそういう気分になってはいたのだ。だから眼を閉じ、唇が重ねられるのを受け容れた。国道を走る車のタイヤの音が幾度か通り過ぎていったが、たぶんここで誰が何をしているのかなど注意を払う者はいないし、いたとしても、ヘッドライトは届かないし、影ばかりしか見えないだろう。
だから、まあ、いいか。ソフトクリームは少し溶けそうだが。そう思ったのは、やはりいつも自分たちが暮らしている、都市部の喧騒とはかけ離れていたからかもしれない。少なくとも、そのときの彼らの周囲には、彼らを知っている者は誰もいなかった。
だが、今は。
「尾形ぁ」
「そんな強請るような声、出さんでくださいよ」
俺も一応、なけなしの倫理観みたいなものはあってですね、と言いながらも尾形の腰が自分に圧しつけられていることに、月島は気付いている。そしてそれが、すこしだけ固くなり始めていることにも。
「ばあちゃん、いるしな」
そう、先に外にいたときとは違い、この家の階下の部屋には、彼らを受け容れ、暖かくもてなしてくれた、尾形の祖母がいる。
「窓も空いてるし、それに」
さすがにここで、そんな準備はしてないぞ。そう囁きながら、月島は尾形の唇の端に触れながら、押し付けられた腰を、少し揺らした。
「あ、こら」
このスケベ、と月島を制止するようなことを言いながら、尾形もまた同じように、まるで煽るように、思わせぶりに腰を動かす。互いにもどかしさを感じながら、けれどお互いに、これ以上は無理だと判っている。
「さすがに、やりてえ盛りで分別のない高校生じゃないんで」
「お前、そういうタイプだったのか?」
意外だなあと笑いながら揶揄う月島に、尾形は舌打ちする。
「あの頃は、アンタがいなかったんで、品行方正な百之助ちゃんでしたよ」
「ムッツリなだけだろ」
「……ほんとにブチ込んでやりてえな今すぐ」
でもなあ、と尾形は嘆息した。
「あー……さっき外で、どっか物陰で、やっちまえばよかった」
いっそ今よりリスク少なかったかもな、と本気とも冗談ともつかない声音でとんでもないことを言う尾形の頭に、月島は掌を乗せて、ぽんぽんと軽くたたいた。
「いい子だから、そんな事はしないだろ?」
ほら、もう寝るぞ。そう委員ながら自分の胸に尾形の頭を圧しつけるように力を籠めると、頸を無理に捻じ曲げられた尾形が悲鳴をあげる。
「あだだだだっ!首の可動域そっちじゃねえよ!」
「でかい声出すな。聞こえるだろ」
「ああもう、誰のせいだと」
言いながらもぞもぞと動いて、月島の胸筋の間に顔を埋めると、とりあえず尾形は満足そうに大きく息を吸い、それから吐いた。それを受け止めながら、月島は未だどこか中途半端にうわついた気分のまま、それでも眼を閉じる。
「一緒に、わるいことしてみたかったな」
お互い、ガキの頃。そう呟いた月島は、尾形が自分の胸元で、ふふっと笑ったのを感じ、今のこれも、ある意味わるいことといえばそうかと、そう思う。
それでも。
「ばあちゃんを泣かさない程度に、しないとな……」
「家に帰ったら、そのぶん遠慮しませんよ」
大人なんで、ちゃんとそれまで我慢します。そう尾形は言うと、小さく欠伸をした。そうだな、とそれに返す月島の声も、半分眠りに落ちている。そうだな、もう寝よう。
「おやすみ……」
「おやすみなさい」
子供の様にきちんと挨拶をして、夏休みの夜が更けてゆく。未だついてきてしまったのか、窓の外には、小さな光が、まだふわりと舞っていた。