花のある生活 side灰原②*
ただ、名前を交わしただけ。けれど、名前を知る前と後では心理的な距離はかなり変わった気がする。
翌週、灰原は思い切って七海の年齢を聞いてみた。
「え!?同い年!?」
しかも自分の方が誕生日が早いとを知ったあと、灰原は思わず声を上げた。しかし、七海も相当驚いていたようで、切れ長の瞳をまん丸くさせてから小さく息を漏らして笑っていた。
「あれですよね、落ち着いてるっていうか!」
「二十代後半で落ち着いてないほうがどうかと」
「まあ、たしかに」
「……正直、二十二、三だと思ってました」
「うそでしょ!?」
高校の同窓会で毎回「ほんっと変わらないよな」と言われていたが、一種の恒例行事だと思っていた。だが、七海は表情を緩めたまま首を横に振るだけだった。
それから、お互い自然と態度が砕けていった。何でもない話をするうちに少しずつ敬語が取れていき、もう敬称もなしにしないかと七海の方から提案してくれた。
店員と客から友達へ。
こんなこと、滅多に起きない。だからこそ、七海との関係を大切にしたいと灰原は思った。
七海と店以外で会うようになって三度目。朝から映画を見て、一人では絶対入らない洒落たカフェでランチを食べていた時のこと。
トマトソースのパスタを綺麗に食べていた七海がほんの少し口元を緩めて「美味いな。今度作ってみるか」とポツリと呟いた。
「七海はちゃんとご飯作ってるの?」
「一応は。でも、平日は簡単なものしか作らないし、忙しい時は買って帰ったり外で済ましてるよ」
「それでもすごいって!」
実家暮らしの身からすると、仕事をしてからご飯を作るなんて尊敬の眼差ししか向かない。野菜炒めくらいしか作れないことに、少し恥ずかくなった。
「よく作るのってある?」
「そうだな、基本的に酒に合うものを作るから……アヒージョとか」
「アヒージョってこういうオシャレなお店が夜に出すやつでしょ!?七海作れるの?」
「まあ、そこまで工程も難しくないから」
そんなことを言われても、どんな材料を揃えたらいいのかすら上手く想像できない。そもそもアヒージョなんて片手で数えられる回数しか食べたことがないのだ。
七海がどんな部屋に住んでいるのかは全く知らないが、台所に立つ七海の姿は不思議と容易に想像できる。きっとエプロンもちゃんと着けて、テキパキと調理するに違いない。そして、今みたいに幸せそうな顔をして食べるのだろう。
「七海すごいね!かっこいいー!」
灰原が何度も感嘆の声を上げると、七海は照れたようにグラスを傾けた。しかし、ほとんどなみなみ入っていた水を飲み干した七海はポツリと口を開いた。
「よければ、うち来るか?」
「いいの?」
「大体ツマミみたいなメニューになると思うけど。それでも構わないなら」
「全然いいよ!ありがと七海!」
もう少し仲良くなれたら行ければいいなと思っていたが、まさか七海の方から誘ってくれるなんて。約束の日は二週間後の土曜日。それまで待ち遠しくて仕方なかった。
当日は仕事を早く上がらせてもらい、わざわざ店まで迎えに来てくれた七海と共に今夜の食材を調達してからマンションへ向かった。
部屋につくと、想像していた通り七海はきちんとエプロンを着けてから台所に立った。調理に関して役に立てることはあまりなかったが、せっかくのカウンターキッチンなのだからと、灰原は手際良く作業をしている七海の姿をカウンターの椅子に座って眺めた。
大きなローテーブルに乗り切らないほどの料理はどれも美味しくて、買い物中にリクエストした生姜焼きも絶品だった。居酒屋で飲んでいる時より七海もリラックスした姿を見せてくれ、それほど強くもないのにいつの間にか缶も瓶も次々と空いていた。
「水飲むか?」
「うん、ありがとぉ」
スプリングのよく効いたソファにくたりと身を任せていると、七海は水の入ったグラスをそっと手渡してくれた。冷たい水で喉は潤ったが、灰原の頭はまだぼんやりとしたままだった。
「結構飲んだな」
「だって、七海が作ってくれたやつ全部美味しいからお酒も進んじゃうよ」
「そうか。なら、よかったのかな」
照れたようにはにかんだ七海が隣へ座った。
ソファが軽く沈み、重心がほんの少し七海の方へ傾く。居酒屋とは柔らかなソファの感触もオーディオ機器から流れる落ち着いたラジオの音も、そしてすぐ隣にある七海の気配も全てが心地いい。
「あとね、七海と一緒だとすっごく楽しいから」
こぼれた言葉は、今日初めて思ったことではなかった。七海と出会い、七海のことを少しずつ知っていくうちに、自然と心のなかに生まれていた。
ずっと言いたかったという気持ちと言ってしまったという気持ちがせめぎ合う。しかし、ワイングラスを傾けていた七海が静かに口にした言葉で、灰原の頭はいっぱいになった。
「私も、灰原と一緒だとすごく楽しいよ」
顔が熱いのも脈がトクトクと早足なのも、きっとアルコールのせいだけではない。どれだけ飲んでも顔に出ないと言っていた七海の頬がほんのり染まっていることも、そうであればいいと思った。
翌朝。
コーヒーの香りで目が覚めたことは初めてで、不思議な気分のままキッチンに立つ七海をぼんやりと眺めた。昨晩と同じように隣同士でソファに座り、熱いカップを静かに傾ける。普段コーヒーを飲む習慣はなかったけれど、七海が淹れてくれたコーヒーはとても美味しくて胸の奥がじんわりとあたたかくなった。
花屋で働いていると毎日たくさんの人と出会う。だが、新しい人間関係を築くことは正直言って難しい。一緒にいて楽しいと思える関係ならなおのこと。
七海との出会いは偶然で、けれどそこから関係を深めていったのは自分が望んだことだった。けれど、七海も同じように望んでくれていたようで、お互いが距離を縮めていった。
店員と客から友達へ。それだけでもなかなか起きない出来事だと思う。だが、七海と過ごす時間が増えるうち、もっと一緒にいられたらいいと、そんなことを考えてしまうようになっていた。どうしてとか、いつからとか、何度自分に問いかけてみてもはっきりとした答えは返ってこない。
ただ、ひとつだけ明らかなのは、七海を好きだということだけだった。