天使は恋をしない③【天使は愛をささやかない】
修行が終わったあとのこと。
一人前の天使として、人々へ手を差し伸べる。たとえ、誰からも存在を認識されることがなくとも、ただひたむきにこの身を尽くす。
疑問を持ったことはなかった。それが、天使の存在意義だからだ。
けれど、気が付いてしまった。
忘れられる悲しみを。
そばにいられない切なさを。
*
幸か不幸か、次の日に七海との任務は入らなかった。寮の部屋は隣同士ではあるが、授業もなく食堂や共同の台所や顔を合わさずに過ごすことは以外と難しくない。日課のランニングは少し時間を早めればトレーニングへ向かう七海と出くわすこともなく、ちょっと部屋を出ようと思った時も、軋む床板や建て付けの悪い扉のお陰で、人の気配が完全に無くなってからそっと廊下を通り抜ければなんとかなる。
任務でもないのに七海と一日顔を合わさないことはこれまでなく、すぐ隣の部屋に七海がいるのに一人で過ごしてことが正直落ち着かなかった。けれど、どうして今まで感じたことのない悲しみや切なさに襲われているのか、その理由が分からない。そんなままで七海の前に立つことが、何故か少し怖かったのだ。
七海と顔を合わせなくなって二日目の夜。今日もタイミングを見計らって行動していたおかげか、七海と鉢合わせることはなかった。ほっとした反面、流石に明日はいつも通りに動かなければと思うが、悲しみと切なさの意味はまだ見つからない。それどころか、七海のことを考えると何故か胸が苦しくなってしまうのだ。
早々に潜り込んだ布団の中で、何度になるか分からないため息が漏れる。その時、小さなノック音に灰原の心臓はドキンと大きく跳ねた。部屋を訪ねてくる人物はそれなりにいるが、控えめなノックを三回する人物は一人しかいない。
「灰原」
夜だからだろう。いつも以上に抑えた声が扉の向こうから聞こえてくる。ずっと頭の中にいた人の声に、苦しかった胸が更にきゅうっ、締め付けられた。
「私だ、七海だ」
名前なんて言わなくても、声だけで分かるのに。もう随分前からそう思っていたが、わざわざ指摘しなかったのは七海の声がたくさん聞きたかったからかもしれないな。このタイミングで気付かなくてもよかったのにと思ったが、一度意識してしまえばもっと七海の声が聞きたくて堪らなくなっていく。
「灰原」
気が付いてしまった悲しみも切なさも、いま胸が締め付けられる理由も、どれもまだよく分からない。けれど、もう一度小さく名前を呼ばれてしまったのなら、動かずにはいられなかった。慌てて飛び起きたせいでベッド脇のこたつへ盛大にすねをぶつけてしまい、反射的に声が漏れてしまう。だが、構わずに玄関へ向かって勢いよく扉を開けると、珍しく目を丸くしている七海と視線が交わった。
「大丈夫か?結構大きな音がしたが」
「え、あっ、うん!へーきだよ!」
すねは痛むが、それよりも心臓が全力疾走したあとのようにバクバクと激しく動いている。頬もじんわりと熱くなっていくが、七海の薄い翠色の瞳から目を離すことはできなかった。
「もしかして寝てたか?」
「ううん!ちょっとウトウトしてただけ!」
「ウトウトって、それ寝てただろう。すまない、起こしてしまって」
「全然いいって!気にしないで!」
自分の心がよく分からなくて、そんなままで七海の前に立つことを少し怖いと思っていた。それなのに、実際に七海と顔を合わせてみるとそんな気持ち微塵も起こらなかった。また疑問が増えてしまったが、今は七海が部屋へ来てくれたことをとても嬉しく感じた。
「えっと、七海どうしたの?なにか用事?」
「ああ、実は先生からお使いを頼まれたんだ。明日、新学期から使う古い文献を預けている寺へ取りに行ってきてくれと。まあ、一人で持って帰れない量ではないらしいし別に無理にではないんだが、よかったら手伝ってくれないかと思って」
最後の方は声が小さくて、真っ直ぐ自分を見据えていた瞳も斜め下へ降りていく。いつもならこんな遠回しに言ってこない。お使いくらいなら、何時なら都合がいいかと一緒に行くのが当然のようにメールを送ってくるだけだ。
七海をこんな風にさせているのは、自分のせいだ。そう気付いた時、夜だというのについ声は大きくなっていた。
「そんなの手伝うに決まってるじゃん!ていうか、七海が頼まれたんなら僕も一緒に行くのが普通じゃない!?」
思わず続いた自分の言葉に、灰原はハッと目を見開いた。この二日間、自分から七海を避けていたというのになんて勝手な主張だと、気まずさが込み上げる。聡い七海のことだ。避けられていることも分かっていただろう。それなのに、わざわざ部屋へ来て、直接顔を見て、言葉を選んで話をしてくれているのだ。そんな七海の優しさが嬉しくて、自分の弱さに苛立ちを覚えてしまう。
居た堪れなく俯いてしまったが、しばらくして小さな笑い声が灰原の耳に届いた。ゆっくり顔を上げると、七海はどこか安心したように表情を綻ばせていた。
「そうか、そうだな……」
よかった。
最後に七海の口からこぼれた言葉。それはほんの小さな囁きで、昼間なら聞き逃していたかもしれない。けれど、消灯時間の迫る寮の廊下はとても静かで、ただ七海の声だけが灰原の鼓膜を優しく揺らした。
「行くのは何時でもいいって言われてるんだが」
「僕はいつでもオッケーだよ」
「じゃあ、朝から行って午前中で終わらせてしまおうか」
「うん。わかった」
何もなかったかのように言葉を交わしていることを少し不思議に感じてしまう。だが、出会ってからの一年、ほとんど毎日こうしていたのだから、きっとこれが二人の当たり前なのだと灰原も自然と笑みをこぼしていた。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日ね」
「おやすみ」
「おやすみ」
じんわり微笑んだ七海へ、同じように笑みを返す。しかし、隣の部屋へ戻ろうと七海が踵を返した時、灰原は咄嗟に七海の服の裾を掴んでいた。
「どうした?」
振り向いた七海は、扉を開けた時のように驚きを滲ませている。自分の行動に動揺したが、いま一番七海へ伝えたいことをはっきりと言葉にしなければならないと強く思った。
「ごめんね。昨日と今日、七海のこと避けてて」
本当は避けていた理由まで話すべきだと思う。けれど、まだ自分の心の整理は出来ていない。七海のことを考えると悲しくなったり切なくなったり。そのくせ、七海と一緒にいると嬉しくて幸せになってしまう説明はまだ上手く出来ないままなのだ。
ほんの少し見開かれていた淡い翠色の瞳がじんわりと細まっていく。向けられる優しげな視線に胸の奥が苦しくなったが、嫌な苦しみではなかった。
「いいよ」
きっと七海はそう言ってくれるだろうと、心の片隅で理解していた。そもそも、こうして部屋に来てくれいつものように話をしてくれたことで、許されているのだと感じていたのだ。
七海の優しさに甘えてしまっている。七海に貰ってばかりいる。自分は天使なのに、こんなことでいいのだろうか。
ありがとう、ごめんね。そう返したいのに、上手く口を動かすことが出来ない。
「明日、午後からも空いてるのか?」
ほんの少しの静寂のあと、七海は何かを思いついた様子でそう言った。
「え……?空いてる、けど」
「じゃあ、お使いが終わったら、ちょっと寄り道に付き合ってくれないか?」
「寄り道?」
「ああ。二駅向こうの商店街に洋食屋ができただろう?昼をそこで食べて、帰りは駅前の本屋とCDショップに行きたいんだ。あと、駅ビルの地下にあるケーキ屋がイートインも始めたらしいから、そこでお茶して帰るのもいいな」
洋食屋のこともケーキ屋のことも少し前に自分が七海にしたもので、春休み中に行きたいなと話していた。本屋は本好きの七海がよく行く場所で任務の帰りにも時々二人で立ち寄っていたが、CDショップに行きたいなんて珍しい。けれど、確かつい先日、七海の部屋のラジオから流れていた曲が頭から離れなくなり、そのアーティストのCDを買ってみようかとポツリと漏らしたことが脳裏に蘇る。
パチパチ瞬きを繰り返していると、薄暗い廊下の下でも七海の頬がじわじわと色付いていくことが分かった。眉も寄っていくが、その表情は照れ隠しということはもう随分前から知っていた。
「うん!寄り道する!」
たまらず声を上げると、七海はいつかの夏の日のように、しぃっ、と口元に人差し指を当てた。けれど、結ばれた唇は柔らかな弧を描いていて、それを見つめていると胸の奥が不思議とあたたかくなっていった。
胸の痛みや苦しみは、消えることなく胸の奥にあり続けた。けれど、それ以上に七海と一緒にいられることは嬉しくて、幸せという感情で心が満たされていくことが分かった。
ずっとこの時間が続いたのなら。ずっと、七海のそばにいられたのなら。
そんな考えが頭をよぎるたび、なんて愚かなことをと、すぐに自分を戒めた。
天使は、誰かのために存在するもの。誰かのために願うことはあっても、自分のために請うことなんてありえない。何かを望むなんて、あってはならないのだ。
修行がいつ終わるのかは分からない。一年後かもしれない。一ヶ月後かもしれない。もしかして、明日かもしれない。いや、今この瞬間に、帰ってきなさいと神さまが仰るかもしれないのだ。
自分には何も分からない。けれど、今の自分でも出来ることはある。
これから七海と一緒に過ごす時間を大切にしよう。出来る限り、七海やいろんな人の力になれるよう精一杯頑張ろう。きっとそれが、天使として最善だ。
そして、いつか修行が終わって、七海が自分とのことを全てを忘れてしまっても、全てがなかったことになるわけではないと思う。未熟な自分が地上で経験したことは全て本当で、七海と過ごした時間も確かにあったものだ。辛いことも苦しいことも、嬉しいことも楽しいことも、七海と一緒に経験して感じたこと全てが自分の心に刻まれている。
だから、それをずっと覚えておけば大丈夫。
七海との思い出があれば、一人になってもきっと大丈夫。
*
進級と同時に、呪術師としての等級も上がった。
等級が上がれば任務の件数も危険度も増すのは当然で、毎日が慌ただしく過ぎていく。それでも、よりたくさんの人を助けられることは天使にとって本望であり、七海と一緒に過ごす時間が積み重なっていくことは灰原にとってこの上ない幸せだった。
「最近、無茶しすぎてないか」
一晩中かかった任務終わり。朽ちかけた廃病院のエントランスで補助監督の車を待っていた時、渋い顔をした七海がそう言った。
「えー、そんなことないけどな」
「そんなことある」
きつく眉を寄せた七海は、怪訝そうな視線を向けてくる。
正直なところ七海の指摘は図星だった。二手に分かれてからしばらくして、一人でやれるかギリギリのラインの呪霊と遭遇した。七海の気配は遠く向こうにも呪霊が数体いることが分かり、ぐっ、と拳を握った。その呪霊はなんとか祓えたものの、最後の呪霊へ打撃を放った時にはもう両手ともボロボロだった。
合流した七海が応急手当をしてくれたが、他にも擦り傷は数えきれない程で、服の下にも打ち身で痛む部分が何か所もある。そのうちの一つ、肋骨にはひびが入っているような気もして、大きく息を吸うとズキリと痛みが走った。
「無茶して自分が傷付いたら、意味ないだろう」
「でも、僕は天使だし、人の役に立つことが天使の存在する意味だから」
天使として出来る限りたくさんの人の役に立ちたくて、出来る限り七海に傷付いてほしくなかった。いつまで、こうしていられるか分からないのだから。
会話が途切れ、静寂が流れる。いつもは気にならない無言の時間が、今は何故か気まずく感じる。
しばらくして小さく息を吐いた七海は、真っ直ぐにこちらを見つめて真剣な表情で口を開いた。
「確かにきみは天使だ。でも、きみは今、呪術師でもある。私は自分と同じ呪術師が目の前で無茶して傷付くのはあまり見たくない。仲間なんだから」
──大切な。
最後の言葉は少し小さかったが、灰原の耳にはちゃんと届いていた。
ぎゅうっと、胸の奥が苦しくなる。視線を落とした七海の頬がほんのりと色づいていることに気付いてからは、余計に。
心配してくれていることは分かっていた。けれど、こんなふうに思ってくれているとは知らなかった。
「そっかぁ……ありがとう、七海」
「別にお礼を言われることじゃない」
「僕が言いたいからいいの」
嬉しかった。
仲間と言ってもらえたことが。七海の優しさが。
嬉しくて、幸せで。けれど、ほんの少し切なくなった。
いつ、この時間は終わってしまうのだろう。いつ、七海の前から消えなければならないのだろう。いつ、七海の中から『灰原雄』を消さなければならないのだろう。
一人になった時、そんな考えが心の奥から顔を覗かせる。
胸が痛い。悲しい。寂しい。
涙がこぼれそうになったことは一度や二度ではなかった。けれど、天使は自分のために泣かないものだと必死にこらえていた。
眠れない夜は、あの古い五重塔の上へ登って空を眺めた。初めてここへ登ったのは、一年前の夏の始まり。春の夜空をここで見るのは初めてだった。
春の夜空は少し霞がかっていて、薄い雲に覆われた月も他の季節より朧げだ。しかし、淡い金色の月明りは周りに漂う霞に反射して、いつもより夜の闇が薄まっているように思えた。
「七海」
ぽつりと、口からこぼれた名前。視界が霞んでいきそうになり、慌てて瞼を閉じた。目を閉じた暗闇の中は何も見えない。だが、脳裏には七海の姿が映し出される。初めて会った時の、心底驚いていた表情。まだ打ち解け切れていなかった時の、よそよそしい態度。砕けて接してくれるようになった時の、我儘な子どもみたいな物言い。そして、二人きりの時しか見せない、柔らかで優しい眼差し。
七海のことが浮かぶたび、瞳の奥から熱いものが溢れそうになる。何度も目元をこすったせいで、なんとか落ち着いた頃には瞼は少し腫れていた。
ジンジンと痛む瞼をゆっくり瞬かせ、もう一度顔を上げる。
自分が悲しんでいても、泣きそうになっても、空は何も変わらない。いま、夜空の上で光る月も数時間後には地平線の向こうへ沈み、それと同じくして白む東の空からは太陽が昇ってくる。地上で暮らすものが目にする、不変の理。
七海と二人で見た景色のなかで、これから変わっていくものはたくさんあるだろう。けれど、空は変わらない。朝焼け、夕暮れ、どこまでも澄んだ晴天。月明り、星の瞬き、闇とは違う深い藍色。七海と一緒だから、知れたもの。
空は繋がっていて、いつか一人で見上げる空と同じものを、七海も見るかもしれない。
「その時、ちょっとでいいから、僕のこと思い出してくれたらいいな」
天使なのに、自分の願望を口にするなんて。でも、いま口にした願いはこの先、決して叶うことはない。ずっと七海のそばにいることも、七海に覚えていてもらうことも、あり得ないことなのだ。
叶わないことは、分かっています。天使として、きちんと役目を果たします。だから。
「今だけ、ほんの少しだけ、望むことを許してください」
祈るように手を組み、天を仰ぐ。霞む夜空は、ただ淡い月明りを落とすだけだった。
*
この年の繫忙期は昨年起きた災害の影響もあってか、とにかく忙しかった。舞い込む任務も等級と拮抗しているものばかりで、一学期の授業も十分に行えず、夏休みはあってないようなものだった。任務は七海と一緒のことがほとんどだったが、なんでもない時間をゆっくり過ごす機会は少なかった。
やっと任務が落ち着きかけてきた、八月の半ば過ぎ。灰原の部屋を訪れた七海は、どこかくたびれた様子で数枚の書類を机に広げた。
「任務だ」
「いつ?」
「明日出発。少し遠出になる」
「どこらへん?」
七海が見せてくれた書類に書かれていたのは、移動に半日近くはかかりそうな地方の小さな村。任務の内容自体は特別難しいものではなさそうだったが、日帰りは到底無理だろう。
「泊りだねー」
「ああ。ホテルはないから、泊るのは高専とつながりのある寺だ」
「僕お寺って泊ったことないや!」
「私もない。しかも随分と山の上にあるらしい」
「へぇ、じゃあ夜空もきれいだろうね」
最近はあの五重塔で夜空を見ていない。七海と二人で塔へ登ったのは春の終わり頃が最後だった。
「見るか?」
「え?」
ポツリと聞こえた七海の言葉が、一瞬何のことか分からなかった。
「ここの塔みたいな物はなくても、本堂の上ならある程度高さはあるだろ。田舎の山寺の夜なんて高専よりも人がいないだろうし、注意すれば屋根まで飛ぶくらいなんとかなるんじゃないか」
隣に座る七海は、次の書類をめくって淡々とそう言った。見るというのは夜空のことで、しかも上まで飛ぶことを前提に考えてくれているらしい。
「えっと、別に上に登らなくても空は見えるよ……?」
数秒の沈黙のあと、書類に目を落としていた七海の横顔がぶわっと朱に染まった。まさかそんな反応をされるとは思っていなかったせいか、灰原の口からは小さな笑い声が漏れていた。
「いや、天使は高いところが好きなのかと思っていたから……おい、笑いすぎだ」
「っ、だって、七海顔真っ赤なんだもん!」
慌てる七海は珍しく、一度入った笑いのスイッチはなかなかオフにはならない。七海が本気でムスッとし始めたところで、灰原は込み上げる笑いを堪えて微かに濡れた目元をこすった。
「じゃあ、一緒に屋根まで飛んで、上で見ようね!」
「無理して飛ぶことないぞ」
「無理なんかないよ!七海の言うとおり、僕高いところ好きだし!」
七海は拗ねた顔をしながらも小さな声で「わかった」と頷いた。
不器用な優しさが嬉しい。自分のことを考えてくれていたことが、とても嬉しい。
「ありがとう、七海」
「いいよ、別に」
少し眉は寄っていたが、返事の声は柔らかい。恥ずかしさを誤魔化すように書類へ目を走らせている七海の顔を覗き込むと、まだほんのりと赤い頬が少しずつ緩んでいった。
最近、あの塔の上で夜空を眺めている時は、悲しさや切なさばかりが込み上げていた。けれど、元々はあそこでは、天使が生まれた場所では目にすることの出来ない夜空の星や月の景色をただ純粋に美しいと思い、それを七海と共有出来ることに喜びを感じていたのだ。
「またあそこでも見ようね」
「ああ、そうだな」
あと何度、七海と一緒にあの景色を眺められるかは分からない。だからこそ、出来るかぎりあの場所の思い出は、七海との楽しいものでいっぱいにしようと、そう思った。
深い山林の中。
まだ日の高い時間にもかかわらず、周囲は仄暗さに包まれていた。
一体どのくらい拳を打ち込んだのか、数えることは随分前から出来なくなった。放たれた呪力を避け損ねて出来た傷の数も、同様に。今この瞬間にも脚が動きを止めてしまいそうで、それを意識しないよう力を振り絞る。視界の端に映る七海も額から血を流しており、疲労の色は濃く呼吸も大きく乱れていた。
いったん、引いた方がいいのかもしれない。
どうやら七海も同じことを思っていたようで鋭く名前を呼ばれた。
大きく返事をして、七海とアイコンタクトで退路を確認する。そして、進行方向を変えるため、必死に脚へ力を込めて強く地面を蹴った。つもりだった。
「ッ、灰原ァ!!」
聞いたことのない、七海の咆哮。訪れる、上半身への衝撃と下腹部の焼けるような熱さ。
何が起こったのか、全く分からなかった。気が付いた時には七海の腕の中にいた。全力で移動しているのか、足場の悪い山中を駆ける振動が伝わってくる。それほど体格は変わらないから、きっとかなり重たいだろう。そう思ったが、七海の走るスピードは今まで見てきた中で一番早いように感じ、いつのまにか呪霊の気配は遥か遠くになっていた。
少しずつ、状況が整理出来てくる。上半身への衝撃は受け身が取れず地面へ身体を強打したから。受け身が取れなかった理由とヒト一人抱えているのに七海がとても早く走れている理由は、下腹部の熱さが説明してくれた。脚の感覚がない。いや、もっと上の部分からつま先まで重みも何もないのだ。
この身体はあくまでも修行のための器である。しかし、下半身を呪霊に持っていかれたと同時に、天使の本体、生き物でいう魂も酷く傷付けられた。神さまから貰った力でも、もうどうにも出来ない程だと自然と理解していた。
天使に死という概念があるのかどうか、灰原は知らなかった。気にしたこともなかった。この身を尽くすこと。それが天使の役目。天使の存在する意義。だから、この結果は本望と言えるだろう。
ぼやけた視界に映るのは七海は額から流れる血で顔半分を血まみれにさせながらも、ひたすらに走り続けている。
「七海……もう、だいぶ離れたから、」
「喋るな!」
悲鳴のような声が聞こえたあと、七海の呼吸はどんどん乱れていく。身体を抱える腕も震えているように思えた。
「痛い、よね。いま治すから」
なんとか手を伸ばし血が流れる額へそっと触れると、翠色の瞳は大きく見開かれた。もう欠片も残っていない、天使の力を指先へ集める。額の傷はなんとか綺麗に治すことができ、心底ほっとした。七海の薄い唇は何か言いたげに開きかけたが、ただきつく噛み締められただけだった。
不思議と痛みは感じず、少しずつおぼつかなくなる頭の中にはこれまでのことが蘇ってくる。
修行に降りてきたばかりの頃、人間の両親のもとでただ穏やかに過ごしていた時のこと。妹が生まれ、小さな命を守るために呪いを祓うと決めた時のこと。高専へ来て、誰かと背中を預ける心強さを知った時のこと。ただ一緒に過ごす心地よさに気付いた時のこと。
きみは呪術師だと、仲間だと言ってもらえた時のこと。
「ななみ」
七海の脚がゆっくりと止まる。呼吸が大きく乱れているようで、何も言葉は返ってこなかった。
「ごめんね……あとは、頼んだよ」
七海が息を呑んだことが分かる。身体を包む腕は明らかに震えていた。
これは呪術師としての自分の言葉だった。七海が、天使以外の自分もくれたから、天使でない自分の言葉を伝えたいと思ってしまった。
もう、何も出来そうにない。自分の痕跡を消すことも、無理だった。けれど、どこかほっとしている自分もいた。七海に覚えていてもらえる。そんなことを思うなんて、天使として最低だと思った。
その時、ぽたりと、何かが頬へ落ちてきた。もうほとんど目が見えなくて、はっきりと何かは分からない。だが、微かな嗚咽が耳に届いた時、胸の奥がズキリと痛んだ。
「っ、……ぅ、」
七海が、泣いている。
どうして泣いてるの?
「灰原……はいばら」
七海、泣かないで。僕は天使だから。役目を果たしただけだから。
そう伝えたいのに声が出ない。あたたかな雫は次々と落ちてくる。それなのに、何も出来ない。七海の涙を拭ってあげたいのに、もう何も。
ごめん七海。涙、拭いてあげられない。ごめん、ごめんね。泣かないで……七海。
「はいばら」
震える声で名前を呼ばれる。けれど、七海の名前を呼び返すことは出来なかった。
「いかないでくれ」
僕だって。ずっと、七海と。
いつしか心の中に生まれていた、七海への気持ち。それが何か、今になってやっと理解できた。
七海と離れたくない。七海に忘れてほしくない。七海の一番そばにいたい。喜びも悲しみも、全部。七海と一緒に感じたい。
そうか。
僕は、七海のことが──
*
優しく柔らかな光。
それに包まれてから、どのくらい経ったのか分からない。ずっと微睡みの中にいるようで、自分と光の境目すら曖昧だった。
僕は、なに。
天使だ。修行に降りていた、天使。
いま、いったい何をしているの。
治している。たくさん傷付いたから。
どうして、傷付いたの。
呪いと戦ったから。
呪い、って。なんだっけ。どうして、呪いと戦ってたんだっけ。
そうだ。守るためだ。天使として、たくさんの人を守るため。
でも、なんだろう。何か、大切なこと。
僕は、天使で。けれど、それだけじゃなくて。そう言ってくれた人がいて。
その人は、僕にたくさんのことを与えてくれた人で。
僕も、その人にたくさんのことをあげたくて。その人に笑っていてほしくて。その人の一番そばにいたくて。
その人は、僕の。
僕は、その人のことが。
誰かが、呼んでる。
僕の名前を呼んでいる。この声を、僕は知っている。
何度も呼ばれて、そのたびに返事をして。けれど、最後は出来なかった。何度も呼ばれたのに、何も返せなかった。
──灰原。
「七海」
微睡みが晴れる。
自分と光の境もはっきり分かった。
行かないと。
七海のところへ、行かないと!