The Way Back Home(前編)1.
さっき貰ったばかりの色紙を潰れないように一番上に入れて、ボストンバッグのファスナーを閉める。ほとんど余白がないくらいびっしり埋まった寄せ書きを思い出すとまた涙が出そうになるけど、泣いてばかりはいられない。ずっと狭いと思っていた二人一組のこの部屋は、一人分の荷物がなくなると随分ガランとして見えた。俺は明日、この寮を出る。コンコンとドアを叩く音がして、俺は慌てて両目を拭った。
「沢北、いるピョン?」
「はい、どうぞ」
ドアの外から聞こえてくるのは予想通りの声。俺は少し緊張しながらドアを開けた。
「……お前ひとりピョン?」
「ッス。佐藤は別の部屋行ってます」
一歩中に入ってきた深津さんが部屋の中に視線を走らせて訊ねた。食堂で見送りの会を開いてもらったあと、最後に二人で話したいことがあるから時間をくれ、と言ったのは深津さんの方からだった。まさかこの期に及んで説教ではないと思うけど、二人きりで話したい内容の心当たりがなかったから、同室の奴には今だけ出て行ってもらった。
「そうか。わざわざ悪いピョン」
深津さんは俺の答えを聞いて、ちょっとホッとしたような顔でそう言った。でも、最後に話したいことって一体なんだろう。
深津さんの第一印象は、おかしな人、だった。その印象は今でも消えたわけじゃなくて、三年の先輩たちにとっても、たぶんバスケ部のほとんど全員にとっても同じなんじゃないかと思う。そもそも語尾にベシとかピョンとかつけて喋る人に――さらにそれを監督や先輩と話すときやテレビのインタビューでさえ貫く人に――初めて出会ったし、たぶん部の誰に聞いても深津さんの考えてることはよくわかんね~って言うだろうし、変わった人だって言うだろう。
深津さんの考えていることはよく分からない。でも、コートの中なら分かる。深津さんが何を求めていて、俺に何を伝えたいのか、口に出さなくたって俺には分かる。
それはこれまで一緒に必死で練習して、積み上げてきた時間があるからだ。入学してから今まで、一緒になって汗も涙も流して、死にそうなくらいつらいときもしんどいときも、同じ時間を過ごしてきた。俺は山王に来て、深津さんたちに出会って、生まれて初めて『先輩』って悪いものじゃないんだと思えた。
「もう荷造り終わったピョン?」
深津さんが部屋を見渡して言う。いつも通りの表情に見えるけど、でもどこか、何かいつもとは違うような気がする。俺に言いたいことって何だろう。深津さんはまだ本題に踏み込まない。話したいことを避けているような違和感がある。こんな態度は珍しい。
「はい、あとはこれだけっす」
どことなく上滑りする会話に気付かないフリをしながら俺は床に置いたボストンバックを指差した。深津さんの口数がいつもよりずっと少ないから、なんだか調子が狂ってしまう。
「アメリカ行きが決まってから今日まで、色々あったけどあっという間だったなーって……。アメリカで頑張るって決めたんで、心残り、みたいなのはないんですけど、もっと深津さんたちとバスケしたかったなって……、そういう気持ちは少しあります」
「俺もそう思うピョン」
「えっ!?」
思わず声を上げると深津さんはジトっとした目でこっちを見た。
「なんだピョン、その反応」
「いやすみません、深津さんがそう思ってたの、なんか意外で」
深津さんのことだから「さっさと行ってこいピョン」とか「アメリカでピーピー泣くなピョン」とか言いそうだと思ってたのに。わざわざ俺の部屋に来て、そんなしんみりした声で別れを惜しむようなことを言うような人じゃないと思っていた。もっと俺とバスケしたいって、そう思ってくれていたことが嬉しくて、少しだけ寂しくて、胸のあたりがぐっと詰まる。
「えっと……、あー、明日は実家に泊まるんで、明後日の今頃はもう空の上なんですよね。一人で飛行機乗るの初めてなんすけど、なんか実感湧かないっす!」
いつもと違う空気にソワソワして俺は不自然に元気な声で言った。深津さんは俺の言葉には何も答えず、ふと目を伏せた。やっぱり、この人のこんな様子は珍しい。俺は作り笑いをやめて真っ直ぐに深津さんを見た。
「……あの、最後に俺に言いたいことって、なんですか」
覚悟を決めて直球に問いかける。深津さんはまだ俺に本心を話していない。何かをためらい続けている。それが一体何なのか俺には分からないけど。
「それは……」
そこで言葉を切り、ゆっくりと顔を上げた深津さんはこれまでに見たことのない顔をしていた。いつだって冷静で、強い意志の浮かぶ目が今は不安げに揺れている。何かを思い詰めたような、苦しいような、恐れるような目で俺を見ている。その様子に俺は内心すごくびっくりして、でも何も言えずに深津さんの次の言葉を待った。
「沢北」
深津さんが俺の名前を呼んだ。小さな声だった。深津さんがふぅ、と息を吐く。その唇がかすかに震えているのが分かる。これまで監督の前でもOBの前でも、どんなに大勢の観客が詰めかけた試合会場でも一度も見せることのなかった心許ない深津さんの姿に、今は俺の方が動揺していた。
「はい」
俺が返事をすると深津さんは一度強く唇を噛んで、そして焦れったいような沈黙の後にようやく口を開いた。
「……最後に、お前の思い出が欲しい、ピョン」
それは部屋の中に溶けて消えそうな小さな声だったけど、俺の耳にはっきりと響いた。
「思い出?」
深津さんの言葉の意味が分からず俺は首を傾げた。山王に入学してから今日まで、短い時間だったけど思い出になりそうなことはたくさんあった。さっきもらったばかりの寄せ書きがふと頭によぎる。思い出が欲しいって、一体どういうことだろう。
俺がいまいち意図を汲めていないことに気付いたのか、深津さんはぎゅっと口を噤んで、それからもう一度俺を見上げて言った。
「キス、してほしい」
「……え!?」
一秒、二秒、三秒—―深津さんが言ったことの意味がすぐには分からなくて、俺はたぶん、十秒くらいはフリーズしていたと思う。やっと頭の中で言葉と意味が繋がった瞬間、俺は思わず大声を上げていた。
深津さんは一瞬大きく目を見開いて、それからすぐにいつもの無表情に戻って目を逸らした。
「すまんピョン。無理なら別にいいピョン。今のは忘れろピョン」
「えっ、いや、待って!」
すぐさま踵を返して部屋を出て行こうとする深津さんの腕を慌てて掴んだ。足を止めた深津さんは驚いたような顔で俺を見上げている。
「大丈夫です。無理じゃないです」
「お前……本気で言ってるピョン?」
「はい。びっくりしたけど、深津さんなら平気です」
俺が答えると深津さんはおずおずと近寄ってきた。向かい合って、じっと見つめ合う。たとえばペットボトルを回し飲みするとか、食べかけのものを食べるとか、部活も同じで四六時中一緒にいて同じ寮に暮らしていたら、それくらいの接触は普通にあった。キス、と言われても俺は正直ピンと来ていなくて、でも全然、無理でもイヤでもなくて、深津さんって男ともキスできるんだな~、なんて的外れなことを思っていた。
「……俺からした方が、いいです、よね?」
「……」
「えっと……、失礼します」
俺は深津さんの両肩に手を置いた。深津さんは何も言わない。いつもみたいに冷静沈着に見えて、でもやっぱりほんの少し不安そうに視線が揺れている。
覗き込むようにしてほんの少し屈んでみると、俺たちの顔と顔の距離はいきなり近くなった。近付かなきゃキスなんてできないのに、すげー近いなって当たり前の感想が頭の中に湧いてくる。こんなふうに息を潜めて、じっと深津さんの顔を見たことなんて今までなかったかもしれない。
そのままお互い見つめあっていると、深津さんが先に目を閉じた。深津さんは考え事をするとき、たまにこうして目を閉じていることがある。こんなふうに静かに目を瞑っている顔も、夜、寝ている顔も何回も見たことがあるのに、今、俺の前で目を閉じてキスを待つ深津さんはなんだかいつもと違う人みたいに見えた。
「い、いきますよー……?」
なんて声を掛けていいのか分からなくてそんなふうに口走れば、深津さんの眉がぴくっと動いた。呼吸まで聞こえてしまいそうで、時間が経つほど緊張して、俺は勢いに任せてぐっと顔を近付けた。反射的に俺も目を閉じちゃったけど、お互い目を閉じているのにちゃんと唇同士が触れ合った。
唇に唇を押し当てて、ほんの数秒。深津さんの唇はふわふわで柔らかくて、ちょっとドキドキした。それ以上のキスの仕方なんてこの時には知らなかった。
うっすらとまぶたを持ち上げると深津さんの耳が真っ赤になっているのが見えた。唇を離し、緊張で強張った手をゆっくりと深津さんの肩から降ろす。目を開けた深津さんは穏やかな顔をしていて、最初に部屋に来た時のような不安そうな表情はもう消えていた。
「ありがとう。沢北」
「あ……、はい」
「気を付けて行ってこいピョン」
「はい。深津さんもお元気で」
俺が答えると深津さんは小さく笑った。深津さんにあんなに優しく微笑みかけられたのは、後にも先にもあの時だけだ。
それがあの日、俺と深津さんの間にあったことの全て。
今では考えられないけどあの頃の俺は驚くほどピュアで、無垢というよりも無知というか、誰に告白されても『だから何?』って感じで、恋を育むような情緒なんて持ち合わせていなかった。バスケのことだけ考えていた生後十七年経っていた、デカい子供。なんで深津さんは俺とキスしたいって言ったのか。思い出が欲しいってどういう意味だったのか。それを理解するには、俺はあまりにも幼稚すぎた。
あのキスがきっかけで何かが変わったということはなかった。俺と深津さんは高校時代を共に過ごした先輩と後輩で、それ以上でも以下でもなくて、その関係が変わることもなかった。
俺がアメリカに行ってから、深津さんよりもまめに連絡をくれるのはむしろ河田さんだった。深津さんと河田さんの二人は同じ大学に進んで近くに住んでいたらしい。河田さんから届くエアメールの中に深津さんからの手紙も同封されていたりした。
大学を卒業して河田さんと深津さんの進路が別々になると、二人分の便箋が一緒に入ったエアメールは段々来なくなった。
俺たちはそれぞれ別の人生を歩み続けて、気付いたらあのキスからもう十年が経った。次の誕生日が来れば俺は二十八になる。アメリカでがむしゃらにやっているうち時が流れて、念願だったNBA選手という夢も叶えた。挫折しそうになる瞬間は何度もあったけど、でもこの十年、思えばあっという間だった。過去を振り返る暇も、思い出を懐かしむ余裕もなかった。
記憶の中で止まっていた時間が動き出したきっかけは本当に些細なもので。少し前にチームのチャンネルの撮影があった。ファンに向けた動画で、Tell me about your FIRST KISS story、『ファーストキスの思い出を語って』というものだ。バスケと関係ないことを喋るのは正直乗り気じゃないけど、選手のプライベートなトークは人気があるし、ファンサービスも仕事のうちだと割り切れるくらいには俺は大人になった。
ファーストキスの思い出と言われてふと思い出したのが、寮を出る前日のあの出来事だった。よく考えればあれが俺のファーストキスだ。あの頃は恋愛そのものに興味がなくて、あの日の出来事をキスとしてカウントすることさえ忘れていた。アメリカに来てからはそれなりにいろんな経験をして、恋人がいた時期もある。でもどんな相手も長続きはしなかった。バスケ以上に夢中になれることはなかったし、どんなときでも俺にとって一番大切なことはバスケ以外になかったから結局いつも相手の気持ちが離れていって、どんな恋でも必ず短命に終わった。
俺もいい大人になって、キスもセックスも十代の頃ほど特別なものじゃなくなったけど、ファーストキスは人生で一度きりだ。緊張しながら深津さんの肩を両手でしっかり掴んで、ほんの一瞬唇がぶつかっただけの、笑っちゃうくらい子供っぽいキス。
高校の先輩だとか、相手は同性だとか言うとすぐに詮索されるから、俺は性別も年齢も何もかもぼかしてこの思い出の出来事をチャンネルで披露した。
俺が日本を出発する直前、『最後の思い出にキスがほしい』って言われてキスをしたこと。それが俺にとってのファーストキスで、それっきりその人とは会っていないこと。その人はそれ以外、俺に何も求めなかったこと。
つまんない話だってからかわれるかと思ったけど、司会役の女性レポーターは全身を震わせながらスイート!と叫んだ。なんて素敵な思い出なの!だそうだ。チャンネルを盛り上げるためのサービスでもあるだろうけど、彼女は俺の話を健気で美しい別れだと絶賛した。
「これから夢に向かってチャレンジするエージの邪魔にならないように身を引いたのね。すごく切ないわ。モノクロの古い恋愛映画みたい」
「ははっ、そうかな」
マイクを向けられて俺がちょっと肩を竦めると、俺の隣にいたチームメイトが話に割って入ってきた。
「俺がお前なら今すぐ帰国してそのガールフレンドにプロポーズするけどね!」
ガールフレンドじゃねぇけど、と内心思ったけどもちろんそれは口に出さず、チームメイトの軽口に助けられてチャンネルの撮影はまぁまぁ盛り上がって終了した。この撮影があってから、俺は今更、あの日のことをよく思い出すようになった。
ねぇ深津さん。もしかして、俺のこと好きでしたか?
あの日のキスのこと、まだ覚えてますか?
手紙を送ろうにも俺は深津さんが今どこに住んでいるかも分からないし、携帯やスマホを持ち始めた頃にはもう疎遠になっていたから連絡先も分からない。深津さんはSNSもやっていないらしく、こっちから探すこともできない。あんなに一緒にいたのに、人と人との繋がりはこんなに簡単に途切れてしまう。
そう思っていた矢先に日本での仕事が入った。NBA入りしてからは本当に久しぶりにスケジュールに余裕がある帰国で、俺はせっかくだから河田さんに連絡してみた。一日だけオフがあるから東京で会えませんかって聞いてみたらすぐに返事をくれて、とんとん拍子に食事会のセッティングまでしてくれた。会わない時期が何年続いても河田さんは面倒見が良い先輩で、そういう人の存在がどれほど有り難いか、俺はこの歳になってやっとわかるようになった。
河田さんが予約してくれたのは和食の店だった。派手すぎないけど高級感があって、アクセスが良いのにすごく静かな場所にひっそりと店を構えている。河田さんは日本でプロになって、今も現役を続けている一人だ。マスコミだとかメディアにもそれなりに追いかけられているから、こういう知る人ぞ知る雰囲気のある店には詳しいんだろうと察しがついた。
純粋にコートの中の姿を見てほしいのに、バスケになんて興味のない人たちほど俺たちがどんな場所でナイトアウトして、どんなふうに酒を飲んで、どんな話をしているか知りたがる。日本でもアメリカでもそれは同じだ。たとえ疚しいことが何もなかったとしてもプライベートを詮索されるのは好きじゃない。
「お久しぶりです」
案内された個室の引き戸を開けると、テーブルの一番奥の席に河田さん、その向かいに松本さんの姿があった。松本さんには河田さんが声を掛けてくれたそうだ。
「よう、来たか」
「沢北お疲れ! 久しぶりだな」
快活に笑う顔が見えてホッとする。この十年間で俺が日本に帰ってきたのは片手の指で足りる程度。CM撮影だけしてその日のうちにとんぼ返り、日本滞在時間は半日以下なんてことも多くて、辛うじて少し余裕があっても実家に顔出すだけで精一杯みたいな感じだった。一週間丸々滞在、しかもオフの日があるなんてほとんど初めてだ。
「今日はありがとうございます。俺、すっげぇ楽しみにして来ました!」
「ははは、俺も会えて嬉しいよ」
「天下のNBAプレーヤーが随分可愛いこと言うでねぇか」
河田さんも松本さんも酒には強い方で、和やかな会話とは似つかわしくないペースでグラスが空いていく。近況報告やらバスケ談義やら、話すことはいくらでもあった。河田さんとは少し違うけど松本さんも現役でバスケを続けていて、今は指導者の道に進み、都内の大学でバスケ部の監督をしているらしい。
「そう言われれば松本さん、なんとなく雰囲気が堂本監督に似てきましたよね」
「えぇ!?」
分かりやすく嫌そうな顔をする松本さんに思わず吹き出すと、突然河田さんが大きな手でガシッと俺の頭を掴んだ。
「そういうお前はすっかりアメリカの選手らしくなったべ」
「あはは! そんなことないですって」
河田さんが言っているのは俺の外見のことだろう。この数年で俺は髪型を変えていて、最近はツーブロのトップを長めに伸ばして、試合中はオールバックで結んだり、普段だったら分けて下ろしたりしている。それから背中と肩と両腕にタトゥーが入っている。日本にいるときはあまりタトゥーを見せないように一応気を付けてはいるけど。
タトゥーはこの十年間でじわじわ増えていった感じだ。最初は日本のマスコミに何だかんだ書かれた。別にタトゥーがあるからって俺が別人になるわけでもないのにあれこれ騒がれてうんざりしたこともあったけど、今では何も言われなくなった。
「そういえば河田さんこないだ母校訪問してましたよね? Youtubeで見ましたよ。あれ羨ましかったっす。俺も行きたいな~」
「おめが来たら大騒ぎだな」
俺がそう言うと、河田さんは半分くらい空いたジョッキを掲げて笑った。俺が山王にいたのは年数にしてみればほんの短い期間だったけど、人生の方向を決める大切な時期をあの場所で過ごせて幸運だったと思う。十代の頃のことを思い出すとまた深津さんの存在が頭をよぎった。深津さんも河田さんと同じようにプロに進むと思っていたのに、深津さんは大学卒業と同時にバスケをやめて就職したと聞いていた。
もちろん深津さんの人生だから俺が口を出せることなんて何もないけど、そこで完全に道が別れたような気がして、だからあえて思い出さないようにしていたのかもしれない。勝手だけど、深津さんはいつまでもバスケを続けていくんだと思っていた。当たり前のようにそう信じていたから深津さんがバスケを選ばなかったことが本当はショックだった。
住所も連絡先も分からないって言ったって、河田さんや他の誰かに聞くとか、いくらでも調べることはできたはずだ。でもそうしなかったのは、俺があえて目を逸らしていたからじゃないのか。バスケをしていない『今』の深津さんに会うのが怖かったから。深津さんがバスケを手放してしまったことが寂しかったから。
気が付くと手の中のグラスは空になっていて、何か飲み物を頼もうと顔を上げた瞬間、個室の引き戸がスッと開いて店の人が顔を出した。
「お連れ様がお見えになりました」
「えっ?」
俺が思わず声を上げると、河田さんが「ああ」と大きく頷いた。
「せっかくおめぇが帰ってくるからよ、あと一人呼んでおいたわ」
細く開かれていた引き戸に手が掛かる。その向こうから現れた人の姿を目にした瞬間、周りの声も店内のざわめきも、全てが遠くなったような気がした。
「沢北……、久しぶり」
たった一言、俺の名前を呼ぶその声だけが鼓膜を震わせる。少し掠れた高い声は高校の頃とあまり変わらないのに、目の前にいる人の姿は記憶の中とは驚くほど変わっていた。
「……お久しぶりです、深津さん……」
俺は驚きに目を見開いたまま、十年ぶりに再会したその人の名前を呼んだ。重たげなまぶたに、意外と大きな目、厚い唇、真っ直ぐな鼻筋。顔立ちはあの頃のまま変わらないけど、深津さんが髪を伸ばしているのは初めて見た。柔らかな曲線を描いて額にかかる前髪が目元に影を作っている。まるで深津さんであって深津さんではないような、誰か知らない人を見ているような気がした。
「深津遅かったな。仕事か?」
松本さんがグラスを持ち上げながら朗らかに言う。深津さんは慣れた仕草で店員にコートを預け、そのまま松本さんの隣、俺の正面の席に座った。
「もっと早く来るつもりだったけど、電話で捕まって。遅れてごめん」
畳に膝をついた深津さんの体からふわりといい匂いがした。甘いけど甘ったるくない、高級感のある香り。どこかで嗅いだことのある香りなのに思い出せない。どこのブランドの香水だろう。香水なんて付けるタイプには見えなかったのに。
とめどなく色んな思いが湧き出てきて、心の奥がざわめいて落ち着かない。俺があまりに凝視しすぎたせいか深津さんは俺と目が合うと慌てたように視線を逸らした。
まぶたを伏せた横顔、落ちてきた髪を耳にかき上げる仕草。あの日、俺のファーストキスを奪っていったひとつ年上で変わり者の先輩は、驚くほど色気のある大人の男になっていた。
「……高校以来、だな。元気にしてたか?」
はにかむように深津さんが言う。耳の先をほんのり赤く染めて、まるで離れ離れになった初恋の相手に再会したかのような顔で。
深津さん、あの日のキスをまだ覚えていますか?
俺のこと、今も好きですか?
なんて自惚れた台詞なんだろう。でも目の前にいる深津さんの顔を見れば、それが俺の自惚れなんかじゃないことに、否が応でも気付いてしまう。
ああ、そんな目で見ないで。
どうしよう。俺はこんなに綺麗な人を、日本に置き去りにしていたなんて。
2.
「えっ!? キス!?」
驚いて丸く見開かれた目がまるで宝石みたいだった。明日いなくなるお前に、俺はなんてくだらないことを頼んでしまったのだろう。
「深津さんなら平気です」
そう言って少し困ったような、照れたような顔で笑うお前を見た時の気持ちを今でも覚えている。お前はなんて無邪気で、可愛くて、残酷だったのだろう。お前が俺を見るまなざしにも、俺を呼ぶ声にも、不純な気持ちは何一つ入っていなかった。お前から向けられる信頼が嬉しくて、苦しかった。お前は純粋に俺を慕ってくれていたのに、俺だけが汚れた気持ちでお前を好きになってしまった。
肩に触れた手のひらの熱さも、汗の匂いも、閉じたまぶたの下の大きな瞳も、頬に光る産毛も、触れた唇の柔らかさも、あの瞬間のすべてを俺は一生覚えていようと誓った。
この恋が叶うなんて思わない。この気持ちが報われることなんて望んでいない。この思い出だけを抱えて生きて行く。俺はそれでいい。そう思って、十年が過ぎた。
あのキスの後、俺たちの関係が何も変わらなかったことは俺にとってはむしろ幸福だったはずだ。沢北は俺のことなど何とも思っていなかった。そんなことは最初から分かっていた。キスをねだられたことで気持ち悪いと思われたり、避けられた、嫌われたり、そうならなかったのはひとえに沢北が俺のことなど好きでもなんでもなかったからだ。
十代のうちのほんの短い期間を共に過ごして、たったその一年半のおかげで俺は沢北の人生に『部活の先輩』としての立ち位置を持つことができた。もしも何か人生のタイミングが少しでも違っていたら――進学先か、生まれた場所か、選んだスポーツか、何か一つでも選択肢を違えていたら、俺たちは何の接点もなく、すれ違うこともない他人のままだった。俺がバスケから遠退いてお互いの人生が交わることがもう二度となくても、一緒に過ごしたあの時間があるから俺は赤の他人よりもほんの少し近い存在でいられる。それを幸運と思わずにいたらきっと罰が当たる。
沢北、お前はきっと、あの日のキスなんてもう忘れているのだろう。
それでいいんだ。あれは記憶の隅にも残らないような些細な出来事だった。俺だけが覚えていればいい。それ以上、俺は何も望まない。
久し振りに飲みにでも行かないか、という河田からの連絡があったのは突然だった。ただのサラリーマンの俺より現役のアスリートである河田のほうが何倍も忙しく、プライベートの時間を捻出することも難しい。旧友からの誘いに一も二もなく承諾の返事をすると、思ってもみなかった言葉が電話の向こうから聞こえてきた。
「急で悪ぃな。沢北が帰国するんだと」
「……っ、そうなのか」
「ああ、松本も来れるって言ってたわ。俺らが集まんのも久々だな」
「うん、そうだな。楽しみにしてる」
どんなふうに会話を終わらせて、どんなふうに電話を切ったのかよく覚えていない。沢北という名前が出た途端に頭の中が真っ白になったような気がした。海の向こうに渡った沢北の活躍は勿論知っていた。同じ屋根の下で寝起きして、同じコートに立っていたあの頃はもう遠くなった。きっと俺の知らない苦労も挫折もたくさんあったことだろう。そのすべてを乗り越えて、沢北栄治は世界に名を轟かせるプレーヤーになった。
約束の日はあっという間にやってきた。何日も前から今日のことばかりを考えて、早く当日が来てほしいような、ずっと今日にならなければいいような、正反対の気持ちが半分ずつ心を占めていた。
河田が予約してあるという店の前に立ち、俺は深呼吸をした。窓ガラスに映る自分の姿をふと眺める。今日のために新しく服を買ってみたり、床屋ではなく美容院に行ってみたり、柄にもないことをしている自覚はある。浮かれている、馬鹿みたいに。
どんな顔をして会ったらいい、なんて緊張しているのはきっと俺だけだ。沢北にとっての俺は大勢いる山王のOBのうちの一人で、しばらく疎遠になっていた昔の先輩、そんなところだろう。
「失礼します。お連れ様がお見えになりました」
案内されて店の奥にある個室まで通された。心臓が高鳴って、どうにかなるんじゃないかと思った。手紙のやり取りがなくなって何年経つだろう。直接顔を合わせるのは十年ぶりだ。俺の葛藤も躊躇も何一つ知らず、迷いのない手がスラリと白木の戸を引いた。
三人の視線が一斉に俺に向く。十年ぶりにその姿を見た瞬間、まるで長いトンネルを抜けたように、目の前に光が差した気がした。
「お久しぶりです、深津さん」
凛々しく精悍な目、にこやかに笑う口元。何の惑いもない笑顔に撃ち抜かれて俺は思わず言葉を失った。この十年、映像や写真でしか見ていなかった沢北の姿が目の前にある。記憶の中よりも遥かに成長した沢北に見惚れそうになって、俺はハッと我に返った。
「高校以来だな。元気にしてたか?」
個室の外で待っていた店員に上着を預け、俺はなるべく平静を装ってそう言うとさっさと腰を下ろした。空いていた席は沢北の向かいだった。
河田は今でも沢北とは頻繁に連絡を取っているようだし、松本もバスケ関係者だ。おそらく三人の中で一番沢北と接点がないのは俺だろう。物珍しいのか、沢北は大きな瞳を瞬かせてやけに俺を見てくる。目と目が合うと落ち着かない。あまりこちらを見ないでほしい。ひとりで浮かれて、何日も前からソワソワしていたことを見透かされてしまいそうで恥ずかしかった。
「深津さんもビールでいいですか?」
「あぁ、ありがとう」
冷えたグラスで乾杯をして、暴走しそうになる心を抑えた。当然ながら河田も松本も、沢北を前に緊張しているような素振りはない。俺だけがおかしな汗をかいている。
グラスの中で消えていく白い泡を見ながら俯いていると、ふと視界が影になった。不思議に思って顔を上げると目の前に沢北の手があった。ぎょっとしている俺に構わず沢北はテーブル越しに手を伸ばずと、ためらいもなく指先で俺の髪を摘んだ。
「深津さんが髪伸ばしてるの、初めて見ました」
まるで遊ぶように前髪を一房指に巻き付け、悪戯に微笑まれて心臓が変な音を立てる。
「元が坊主だから、やっぱりイメージ変わりますね。大人って感じ」
お前に会うために美容院に行って、人生で初めてパーマなんてかけて、美容師に言われるがまま目が飛び出るような金額のヘアオイルとやらも買った。そんなこと何一つ知らない沢北は目の前で無邪気に笑っている。
「沢北には言われたくないよなぁ? こいつ、こんな頭してるくせに」
俺の髪を撫で続ける沢北を見て松本がカラカラと笑う。沢北が髪を伸ばしていることは勿論知っていた。今日の沢北は伸ばした髪を小さく結んでいて、最近よく見る試合中の髪型だな、と密かに思った。沢北の出る試合は全て追いかけている。
この十年で沢北はバスケの専門誌だけじゃなく、ゴシップ誌にまで名前が載るようになった。興味に勝てず何度か買ったこともあるが、憤りばかりが募るのですぐに買うのをやめた。恋多き男としてスキャンダルが報じられることもあった。ショックを受ける資格なんかないくせに、身勝手に傷ついている自分が嫌になって、バスケ以外の話題を追うことは一切止めた。
「河田さんも松本さんもイジりすぎじゃないっすか? そんなにダメですかね、この髪」
大きな手のひらで髪を撫でつけ、沢北が唇を尖らせる。どんな髪型をしていても華があるが、こうして髪を上げて額を見せているとあの頃の面影が残っているような気がする。
「俺はいいと思う。昔みたいで」
俺がそう言うと、沢北は大きな目をさらに大きくして俺の方を振り向いた。あの頃も、俺は沢北の目まぐるしく変わる表情を見るのが好きだった。
「ふーん、深津さんがいいならいっかぁ」
機嫌を直してニコニコしている沢北の横で河田が呆れたように肩を竦めている。ようやく少し緊張が抜けて、俺は懐かしい時間を楽しむことに注力した。今日、この時間が終わったら、沢北とはまた会わなくなるだろう。もしかしたら次に訪れる空白は十年では足りないかもしれない。今は多少なりとも縁が繋がっているが、俺と沢北とはもうとっくに住む世界が違ってしまった。これから先の人生、同じ道を歩くことも二度とない。それで構わない。この輝かしい男とかつて同じ夢を見て、同じ夢を追いかけたことを俺だけが覚えていれば、それ以上何もいらない。
胸が焼けるような情熱を、眩しくて何も見えなくなるような光を、ただ一度だけの恋を、沢北と出会って俺はもう全部手に入れてしまった。だからこれ以上何もいらない。俺の中で沢北栄治は宝箱の中に大切にしまって、時折取り出して眺めるような、そういう記憶に変わっていく。
「お……っと、こんな時間か。悪い、そろそろ」
松本が手首の腕時計を見ながら言った。楽しい時間はすぐに過ぎてしまう。気付けばそれなりに夜も更けていた。また集まろう、なんて口約束を交わしながら席を立つ。預けたコートを受け取って店を出ると目の前にタクシーが待っていた。開いたドアに手を掛けて河田がこちらを振り返る。
「深津どうする。乗ってくか?」
「いや、俺は電車で……」
断りの言葉を言い掛けた瞬間、強い力で肩を抱かれた。体ごと引っ張られてバランスを崩し、厚い胸板にドンと全身がぶつかる。
「大丈夫です、深津さんは俺が送って行くんで」
体が密着しているせいで沢北の声が振動になって耳に伝わる。目を丸くして見上げた先、笑みを浮かべた沢北が俺の肩にしっかりと腕を回している。送っていく? どうして? 一体いつそんな話になったんだ。
「そうか、んじゃまたな」
「いつでも連絡くれよ!」
「はい! 今日はありがとうございました!」
河田と松本の二人が乗り込み、走り出したタクシーの灯りはすぐに見えなくなった。せっかく取り戻しかけていた平常心がものすごい勢いで彼方に去ってゆく。このままくっ付いていたら心臓の音まで伝わってしまいそうで、俺は慌てて体を離した。
「沢北、俺はまだ終電あるから別に」
「深津さん」
しどろもどろの声を遮って沢北が俺の名前を呼ぶ。そこにさっきまでのにこやかな響きはもうなかった。一段低くなった声が耳元に届き、体がぞくりと震える。沢北の手は未だ俺の腕を掴んで離さない。覗き込むように見つめられて思わず顔を背けると、それすら許さないというように沢北が口を開いた。
「深津さん……俺のこと、今でも好きですか」
お前はなんて酷い男なんだろう。そんな目で見つめられたら隠し通せなくなってしまう。どうか見ないでほしい。暴かないでほしい。俺にお前を諦めさせてほしい。この恋には何も望まないと、あの日そう決めたのに。
「……お願い。教えて、深津さん」
雲が流れて月が隠れる。暗い空の下、路地裏の街灯に照らされた沢北は、俺が今まで見たことのない男の顔をしていた。
つづく