The way back home 後編3.
「深津さん、俺のこと今でも好きですか」
低い声で沢北が囁く。途端に、背筋に電流が走ったような気がした。そんな分かり切った問いを、一生お前には伝えるつもりのなかった答えを、今更暴こうとしないでくれ。言うべき言葉が見つからず、俺は口を閉じた。目を逸らして俯いた俺の横顔に痛いくらいの視線が刺さる。
あの日の出来事なんてとっくに忘れられているだろうと思っていたのに。お前は遠く離れた場所で、俺よりもずっと広い世界で過ごしているのだからもう俺のことなど記憶の片隅にもいないだろうと、そう思っていたのに。俺を見る沢北の目を見たら気付いてしまった。沢北も俺と同じようにあのキスを忘れていないことに。今更になってどうしてあの出来事を持ち出すんだ。ただの思い出だと、若気の至りだと忘れてしまえばいいのに。これまでの十年そうだったように、きっとこれから先また俺たちは遠く離れていくのだから。時間も、距離も、立場も、何もかも遠くに。
俺が黙り込んでいると、ふと、沢北の手が俺の頬に触れた。暗い裏道には誰の姿もなく二人の影だけが頼りない灯りの下で揺れている。思わず顔を上げるとまっすぐに目と目が合った。結んだ髪からほつれた髪が一筋、沢北の額に落ちていた。怖いくらいに真剣な目が俺を見つめている。
「深津さん」
ほとんど吐息のような声で沢北が囁く。顔と顔が近付き、まさに唇の触れるその直前—―俺は咄嗟に沢北の口を手で覆った。
「……ダメだ」
ようやく絞り出した声は自分でも情けないくらいに弱弱しく響いた。大きく見開かれた沢北の両目には驚きの色が浮かんでいる。俺が手を離すと沢北は険しい表情で眉根を寄せ、口を開いた。
「どうして? もう好きじゃない? それとも恋人がいるんですか?」
「そんなのいない。でもだめなんだ」
苛立ったような、傷ついたような顔で沢北が問いかける。沢北の視線の強さに怯んでしまいそうで俺は必死に目を逸らした。このまま流されたくはない。
「じゃあ、どうして」
「お前のことが好きだから」
放り投げた言葉が夜の闇の中に浮かぶ。沢北は言葉を失った様子で、一瞬の沈黙が二人の間に流れた。
「どういうことですか」
低く、静かな声で沢北が訊ねた。こちらを見つめる瞳の中に困惑がある。お前には分からないかもしれない。おかしなことを言っていると思うかもしれない。
お前にとってはたくさんある出会いと別れのうちの取るに足らない一つだったとしても、俺にとっては一生に一度の思い出だったから。だから。
「……あの日の思い出を消したくない」
そう呟くと沢北が息を飲むのが間近に伝わった。俺は少しも立派な人間じゃない。みっともなくて、怖がりで、そして未練がましくて意地汚い。かつて手に入れた輝かしい思い出にいつまでもしがみ付いている。
「だから、ダメだ」
叶わなくてもいいと決めた想いだった。いつか終わってしまう恋なら最初からほしくなかった。いつまでも色褪せずに、永遠に俺の中にあり続ける思い出だけを握り締めていたい。
俺の肩に添えられていた沢北の手から力が抜けた。呆然と俯く沢北の耳に俺の言葉はどう伝わったのだろう。きっともうこれで終わりだ。俺とお前は昔のチームメイトで、同じ学校の先輩と後輩で、それ以外には何もなかった。
「これからもずっと応援してる。沢北。お前は俺たちの誇りだ」
そう伝えて立ち去ろうとした瞬間、沢北は弾かれたように顔を上げた。
「待って、深津さん!」
伸びて来た手が俺の腕を掴んだ。痛いほどの力が伝わって息を飲む。肩越しに振り返ると沢北は切実さの滲む目で俺を見つめていた。
「俺、明後日まで日本にいるんです」
焦りを帯びた声で沢北が早口に告げた。縋るような瞳に思わず胸が切なくなる。突然現れて、突然すべてをかき乱して、一体沢北は何を思っているのだろう。
「明日も会いたい。絶対早く仕事終わらせます。終わったらすぐに連絡します。だからお願い、明日も俺に会うって約束して。お願い」
ずっと恋焦がれて片時も忘れずに思い続けた男からの懇願に、俺はなぜ素直に頷けないのだろう。一体どうして。答えの出ない問いが心の中をぐるぐると駆け巡る。まるで混乱に乗じるように沢北の視線は俺の熱をどんどん上げていく。
「お願い。深津さん」
「わかった……会うだけなら」
この顔で見つめられて拒絶できる人間が世の中に何人いるだろう。諦めにも似た気持ちで頷くと、沢北がホッと安堵したように息を零した。
「よかった……」
あの沢北栄治が俺の一言に一喜一憂していることが信じられない。どうしてそんな目で俺を見るんだ。俺がずっとお前を忘れられなかったのと同じように、まるでお前も俺を思っていたかのような顔で、そんなに嬉しそうに微笑まれたら都合の良い勘違いをしそうになる。
通りに出てタクシーを捕まえ、俺たちは別々の車で帰路についた。沢北には「送って行くって言ったのにごめんなさい」と謝られたが、そんなことをしてもらう理由など初めからあるはずもないし、俺はあいつがデートを重ねてきたような美女でも何でもない。深夜の道路は思いのほかに混み、赤々としたテールランプが列を成している。今夜交わした全ての会話がまるで夢か幻のようで、俺は窓に額を預けた。ひんやりとした外の空気がガラス越しに伝わって、火照った頬を冷やしてゆく。
明日、どんな顔をしてお前に会えばいい。明後日には日本を離れるお前をどんな顔で見送ったらいい。ただの先輩後輩として、これからの人生の幸福を祈っていることを、俺はきちんと伝えられるだろうか。
暗い窓ガラスに映る俺は自分でも見たことがないくらいにだらしない顔をしていた。いい年をした男のくせに、昔好きだった男に求められて舞い上がっている。自分自身のこんな顔なんて知りたくはなかったのに。
翌日の待ち合わせに指定されたのは沢北が泊まっているらしいホテルだった。教えられた通りにコンシェルジュへ名前を告げると、宿泊客のうちでもおそらく限られた人間しか入れないであろうラウンジに通された。落ち着いたクラシックと微かな空調の音だけが静かな空間に響いている。俺にとっては足を踏み入れることさえ躊躇するような豪華なホテルでも、今の沢北にはこれが当たり前の日常なのだろう。どうにも場違いな気がして落ち着かず、俺はソファに沈み込んでため息をついた。大きな窓からは外の景色が一望できる。待ち合わせの時間は夕暮れに差し掛かる頃だったが、そろそろ空の色は群青色に変わり始めていた。
もうずっと昔、高校時代にもこうして沢北を待ちながら夕焼けを眺めていたことがある。毎日朝から晩まで練習に明け暮れて放課後の時間など皆無に等しかったが、あれは体育館の工事か何か、もう忘れてしまったが、何かの理由で練習がなくなった日だったと思う。俺は椅子に座って、次々に教室を出て行くクラスメイト達を見ていた。前日の夜、明日の練習がないと分かると沢北は俺の元に寄って来て、明日は一緒に買い物に行きましょうと俺を誘った。隣の駅にあるスポーツショップに行きたいのだと言う。
「俺じゃなくておともだちと行けばいいピョン。お前、友達いないピョン?」
「友達くらいいますよ! そうじゃなくて、深津さんと行きたいんです!」
からかうとすぐムキになるところも好きだった。無邪気に懐いてくることが嬉しいのに素直には喜べない。好きだけど、好きになりたくなかった。沢北を好きになる前の自分に戻りたいと何度願ったか分からない。その願いは結局、十年経った今も叶わないままだ。
あんなにしつこく約束してきたくせに、「教室まで迎えに行くから待っててくださいね!」と何度も何度も念を押してきたくせに、俺が教室に残る最後の一人になっても沢北は現れなかった。橙色の夕日が誰もいない教室に差し込んで、見慣れたはずの景色がいつもと違って見えた。西の空では沈みかけた太陽がまだ赤々と燃えているのに、空の端の方はじわじわと夕闇が広がりかけて、滲むような紺色が夜の気配を見せている。山王に入学してからこの日まで、思えばあんなふうに何もせず、ただ空を眺める時間なんてなかった。俺はあの時、この町の夕日を初めて見たような気がした。
空を見ても星を見ても太陽を見ても、結局いつだって俺は沢北を思い出す。この恋はきっと一生消えない。まるで神様のお告げを受けたように、その思いはストンと俺の胸に落ちてきた。
「深津さん、遅くなってごめんなさい! 担任に用事頼まれて……」
その時大きな音を立てて教室の戸が開き、沢北が駆け込んできた。息を切らし汗を浮かべて、大きな目を不安そうに揺らめかせて。俺との約束のために必死に走ってきたのかと思うと胸の奥がぎゅっと苦しくなった。心臓がおかしな音を立てる。嬉しくて苦しい。こんなに好きになるのなら好きになんてなりたくなかった。どう足掻いたって俺は、やっぱり沢北が好きだった。
「深津さん! 遅くなってごめんなさい」
耳に飛び込んできた声にハッと顔を上げて俺は目を瞠った。慌てた様子で沢北がこちらへ駆け寄って来る。十年前のあの日に時が戻ったかのような錯覚に陥り、俺は一瞬、ここがどこか分からなくなった。
「沢北……?」
待ち合わせに現れた沢北は長かった髪を剃っていた。昔と同じ髪型で、息を切らして真っ直ぐに駆けてくる。
「お前、髪、どうして」
ここは放課後の教室でもなくて、俺たちはもう十代の子供じゃなくて、差し込む夕日だってあの日とは違う。それなのに俺の胸は今も変わらず、どうしようもないくらいに高鳴っている。好きになんてならなければよかった。お前が俺に向けるのと同じ感情しか持ちたくなかった。俺だけが恋に落ちてしまった。ずっと、そう思っていた。
人のまばらなラウンジに少しのざわめきが走る。サングラスも帽子も身に付けていない沢北はあまりにも目立ちすぎていた。
「深津さん、聞いてください」
椅子から腰を上げた俺の前に立ち、息を整えた沢北が静かに口を開く。その真剣な様子に俺は思わずたじろいだ。
「昨日、俺、すげぇムカついて」
その一言にぎくりと体が強張った。沢北は強い視線でこちらを見つめている。
「俺が……過去の俺に負けたことが悔しいんです」
苦しげに眉を寄せて沢北が呟いた。今まさに沈む直前の夕日が強くその横顔を照らしている。記憶の中、まだ十代の頃のお前は泣きそうになるといつも、こんなふうに険しい表情をしていた。あれからもう何年も時が過ぎたのに、いつまでも鮮明に焼き付いて消えない。
「ねぇ、深津さんが好きなのは昔の俺? タトゥーは消せないけど、でも俺は何にも変わってないよ。俺はオレのままです」
「沢北……」
「お願い、俺を見て。深津さんにとって、俺はずっと思い出の中の男ですか?」
思い出に閉じ込めたはずのお前が手を伸ばしてくる。宝箱に入れて、時折取り出して眺めるだけで良かったのに。それ以上何も望まないと思っていたのに。
沢北が俺の手を引く。触れた掌は洋服越しにも分かるほど熱い。引き寄せられるままに足を踏み出すと、すぐさま逞しい両腕が背中に回った。
「俺は思い出にされたくない。思い出で終わりたくないです」
強く抱き締められて息が止まった。柔らかな香水の匂いが沢北の体温に混ざり鼻先をくすぐる。大きな窓に俺と沢北が映っている。俺たちの姿は周りからどう見えているんだろう。周囲のざわめきが遠ざかってゆく。もう何も見えない。たったひとり、目の前の男以外は何も。
「……恋人なんていない。今いないんじゃなくて、一度もいたことがない」
ぽつりと呟くと沢北が「えっ」と短く声を上げた。沢北を好きだと自覚した高校時代から今まで、他の誰かに心を奪われたことはなかった。特に必要がないので進んでこんな話はしないが、これまでの人生で誰かと付き合ったことは一度もない。大学まではバスケが最優先だから、と言えば皆納得していたし、社会人になってからは単にそういうことに興味の薄い人間だと思われている。面白半分で過去の恋愛遍歴を聞いてくる相手には適当にはぐらかしていればそのうち興味を失う。ずっとそうやって生きてきた。あの思い出だけで生きて行こうと思っていたから。
「ふ、深津さん、本当に?」
沢北の顔がみるみる赤く染まっていく。つられて赤面しそうになりながら、俺は沢北を見上げた。
「俺はこの十年、誰とも付き合ったことはない。お前が週刊誌に撮られてるときも、恋人を次々変えてたときも」
「そ、れは……えっと……」
沢北が気まずそうに頬を掻く。どれも全部俺の身勝手なのに、申し訳なさそうな顔をする沢北の律義さが今は愛おしい。
「あのキスを上書きしたくなくて、唇も、体も、誰にも触れさせていない」
「……!!」
声を潜めて囁けば、沢北は零れ落ちそうなほど大きく目を見開いた。星の瞬くような瞳の中に俺の姿が映っている。まさか十年も経ってこんな暴露をすることになるなんて、ほんの少し前の俺は考えてもいなかった。
「この通り俺は重いし、お前が付き合ってきた彼女たちとは全然違う。それでもいいのか?」
「いいです、深津さんがいいんです」
一秒の間も置かず沢北が答える。その勢いに胸が熱くなる。あの頃と同じ目をして、あの頃よりもずっと成長した一人の男が俺の前にいる。
「絶対に一生、あなたのことを大切にします、誓います」
熱を帯びた声で沢北が言う。ああ、こんな日が来るなんて思ってもいなかった。思い出を破って現れたお前に触れる。眩い星に手が届く。
「俺の恋人になってください」
これからまた俺たちは離れ離れになる。日本とアメリカで時間も距離も遠く離れて、今すぐ一緒にいられるわけじゃない。それでも、変わらない思い出だけを握り締めて生きていくより、変わり続ける本物の沢北を選ぶことができるのなら。
「十年待ったピョン。もう離さない」
生まれて初めてできた恋人は、俺の答えを聞いて思い出の中の恋よりもずっと鮮やかに笑った。
4.
後日譚 ~わくわく渡米初えっち編~
いつか書きたいです。来年かな?!ここまで読んでくださりありがとうございました!