ランタンの灯の中で 橙色の光がいくつも空に浮かび上がっている。
「ジャミルーっ!」
一際眩いランタンをリドルが飛ばしてから少し後、学校の中庭を魔法の絨毯が旋回しながら下りてきた。
絨毯に乗っていたジャックとデュースは危なげなく下りると、それぞれの寮生のところへ合流していく。それから、カリムだけを乗せた絨毯がなめらかにジャミルの目の前まで滑ってきた。
「海の上から見ると、ランタンがすごく綺麗なんだ、一緒に見に行こう」
嬉しそうに片手を伸ばす。その姿はいつものカリムと全く違うものだった。髪は結っていてなお肩甲骨の辺りまで伸びているし、鮮やかなグリーンと爽やかな白の衣裳もいつもらしくない。
“姫”を目指す――という目的の通り、上品かつたおやかな雰囲気の装いだった。
だというのに、今浮かべているのは完全にいつも通りの明るすぎる笑み。
ジャミルは溜め息を吐いた。
「俺は今、最後のランタンに火を灯して――……」
「副寮長、後は僕たちでやっておきますよ」
「せっかくの機会だからぜひ寮長を喜ばせてあげてください!」
断ろうとした矢先、寮生たちが手早くジャミルの手からランタンを取り上げる。そこには計算なく、“せっかくの機会だから”、“寮長と副寮長に喜んでほしいから”といったNRC生らしくない善意が見て取れる。
これがカリムの育てたスカラビア生なのだ。
ジャミルはもう一度溜め息を吐いた。ここで断れば、悪者になるのは自分の方だ。
「あまり遅くない内に戻るぞ」
カリムが伸ばした手を掴む。
「わかってるって。ジャミルは心配性だなぁ」
昼間の危険な行動を鑑みてほしいと思いながら、ジャミルは絨毯に乗り込んだ。寮生を振り返る。
「カリムに付き合ってくる。ランタンを飛ばし終えたら解散してくれ。ライターなんかは学園長が返却場所を決めてるからそこへまとめて持って行く事」
「分かりました!」
カリムよりは信頼のおける返事を聞いて、ジャミルは頷いた。
「それじゃあ、行くぜ、ジャミル」
カリムは絨毯の隅を掴むと、慣れた手つきで高度を上げた。
「見てくれ、ジャミル。すっごく綺麗な景色だろ!」
「そうだな」
海へ出た2人は絨毯がゆっくりと周囲を旋回するのに任せて景色を楽しんだ。宵闇の中に無数に浮かび上がる橙色の光は圧巻であり、息を呑むほど美しい。
「この景色を、ジャミルとも見たいと思ったんだ」
ジャミルの横で笑うカリムの髪が、風に靡いて翻る。月の光を灯したような艶やかな髪はひらひらと銀糸のように風の中を揺蕩っていた。
「あ、あれ!スカラビアの紋章が付いたランタンだ。ジャミルが飛ばしたやつかな」
無邪気にはしゃぐ横顔を眺める。大きな紅い目がキラキラと輝いて、浮き上がっていくランタンを見つめていた。
「…カリム」
幻想的な橙色の光の中に浮かぶカリムは、何だか消えてしまいそうに感じられた。
ジャミルは手を伸ばして、風になびくその髪に触れる。
「ふゃっ…!な、何だ、ジャミル?」
髪の毛を耳にかけてやると、カリムはくすぐったそうに肩を跳ねた。ようやく自分の方に向いたことにホッとしながら、ジャミルは腕を伸ばす。
「無事でよかった」
両腕をしっかりと回し、カリムの身体を抱きしめる。そこに昼間のような壁はない。
「…うん。ちゃんと無事だぜ」
カリムも少し照れた様子で抱きしめ返してきた。仄かに感じる体温が心地よい。確かにカリムがここにいる。その安堵ほど、自分の心を温めてくれるものはない。
目の前をさらさらと靡く銀糸を眺めながら、ジャミルはぐっと腕に力を込めた。
「え、う、おぉっ…?」
ぐらり、とカリムの上体が傾ぐ。無論、絨毯から落としたりはしない。計算した上で押している。
「じゃ、ジャミル?」
ぽす、とカリムの上体が絨毯に寝転んだ。ジャミルは彼の手首を掴んで絨毯に押し付けている。橙色の明かりの中に浮かび上がるカリムはいつもより幻想的に見えた。
「ど、どうしたんだ」
「その髪」
空いている方の手でジャミルはカリムの髪の毛を一房持ち上げた。そこに唇を近づける。
「わ、わぁっ!」
わざとリップ音を立てて髪に口づけを落とすとカリムが引っくり返った悲鳴を上げた。
「ジャミル、そ、それはちょっとは、恥ずかしい…」
「誰に結わせた?」
あえて低い声で尋ねてみる。そうすることで不機嫌な振りをアピールした。実際は、邪魔そうな髪をまとめてくれた相手への感謝が大半と、ほんのわずかな悋気がある程度だ。
「え、と、デュースが結ってくれたんだ。こういうの慣れてるからって…」
「そうか…」
「で、でも、すごく気を付けて結ってくれたし、この髪形俺も気に入って……」
ジャミルが不機嫌だと判断したらしいカリムはしどろもどろにデュースを庇う。自分の機嫌を正確に読み取れるようになっていることに満足したジャミルはすぐに小さく笑って見せた。
「分かってる。必要だったから結ってもらったんだろう。この程度で怒ったりしない」
「そ、そっか?……な、なぁんだ。てっきり俺はジャミルが勝手に髪の毛に触らせたから怒ってるのかと思った」
よく分かっているじゃないかとジャミルは感心する。決して口には出さないが、カリムへの評価を改めようかと思う。
そんな矢先、カリムは苦笑交じりにこう続けた。
「身体を無闇に触れさせて命に関わることになったら、従者としてジャミルは許せないのかなって!」
「………は?」
先ほどよりも低い声が出た。それはもう地を這うような声だ。
きょとん、としたカリムの顔。それがなおのこと腹立たしい。
「お前な……」
「えっ、俺、何か間違えたか?」
間違えに間違えている。
ジャミルは頭を抱えたい気持ちになった。
こちらが従者としての役目だけを考えて苛立っていると思っているのなら勘違いも甚だしい。そもそも、それだけならデュースではなく迂闊なカリムの方をもっと叱り上げている。
「カリム」
ジャミルは上半身を傾けた。カリムの額と自分の額がくっつくそうなほど顔を近づける。顔を近づけるとカリムの顔がかぁっと赤くなった。
「俺が怒っているのはそこじゃない」
「じゃあ、どこなんだ?俺、ジャミルが命の心配をしてるとしか……ひゃっ!」
また世迷言を言おうとしたカリムの耳に唇を寄せる。
「普通、恋人が別の人間に触られたらいい気はしないだろ?」
「こ、………」
湯気が見えそうなほどカリムの顔に熱が集まる。してやったり、という気分になってジャミルは満足げに口元を歪めた。
「いくら似合ってても、俺じゃない誰かの出来なら少しぐらい不機嫌になっても許されるだろう?」
「そ、れは……」
もじもじとカリムが自身の感情を処理できずに身動ぎする。高揚と羞恥と混乱。それらがない交ぜになった様子で、縋るようにジャミルを見上げた。
だが、相変わらず的外れな発言ばかりの恋人に、少しばかり意地悪をしたくなったジャミルは重ねて言った。
「衣裳だって。クルーウェルの作なのは分かるが、この裾上げは誰がしたんだ?」
手を滑らせ、お世辞にも上手とは言えない縫製をなぞる。布地越しなのにカリムの身体が小さく跳ねた。
「そこは俺が……」
「お前が?自分で?」
ジャミルがねっとりと尋ねると、カリムはこくこくと首を縦に振った。空いている片手を持ち上げる。
「ここの指…針で刺しちまったんだ。初めての裁縫だったから上手く行かなくて、ジャックと一緒に頑張ったんだ。2人で応援し合ってさ」
「ふうん…」
桜色の爪の近くに、針で刺してしまった傷がいくつかあった。中には薄ら血が滲んだ跡もあった。
確かに自分で頑張ったのだろう。それ自体は褒めたっていい。だが、他の人物とのエピソードが聞きたいわけではない。
これ以上話が広がる前に、ジャミルはカリムの指を口に含んだ。
「うひゃっ…!」
びくりと肩が跳ねる。カリムらしくない色をはらんだ反応に気をよくして、指の腹に舌を這わせた。
「ま、ゃ、ジャミル…っ」
柔らかい部分を舐められ、カリムの声が上ずる。散々羞恥で熱くなった体は微かに息が乱れている。薄らと涙の滲んだ目を覗き込んでやると、眉が垂れて助けを求めるようにこちらを見上げる。
そうやって乱しているのはジャミル本人なのに。
「傷は大したことなさそうだな」
最後に爪の形をなぞるように唇を離すと、カリムは小さく肩を跳ねさせた。
「ジャミル……」
困惑交じりのふやけた口調でジャミルを呼ぶ。カリムが自分の人差し指を陶然と見つめている姿にジャミルも溜飲が下がった。
「どうした?」
茶化すように聞いてやれば、カリムが潤んだ目をこちらへ向けた。橙色の光を受けて輝く瞳。
「………キスしたい」
ほう、とランプに明かりをともすような柔らかい声だった。ジャミルを見上げ、縋るように言う。
「こんなに綺麗な景色の中、やっとジャミルに会えたんだ…。ダメかな」
カリムが空いている手でジャミルの制服の裾を握る。その願いに、ジャミルは答えるよりも先に顔を近づけた。
「カリム」
声をかけると、カリムは目を閉じた。勿体ない。
ジャミルは目の前に広がる美しい銀髪と艶やかな褐色を見つめながら、カリムに口づけた。
「ん……」
微かに息の漏れる音。橙の光が2人の周囲を照らしては空へ上っていく。
ジャミルが押さえていた片手を解放してやると、カリムは両手でジャミルにしがみついた。
「じゃみ、ぅ、ん」
息継ぎの間に繋がりは深くなり、カリムの声が甘く蕩ける。ジャミルも片手をカリムの後頭部に回して、離れないようにした。
昼間別れていた心配、今聞かされた楽しい出来事への悋気、いつもらしくない見た目のカリムへの困惑、全てが口付けの合間に溶けていく。
らしくないが目に映る全てが美しく見える、可能ならずっとこうしていたいとさえ思ってしまう。
カリムの息が心配になって、ゆっくりと唇を離す。長い口付けですっかり息の乱れたカリムは名残惜しそうにジャミルの目を見つめた。それから空高く飛んでいくランタンを見上げる。
「あ……ランタンが飛んで行っちまう…」
「そういうものだからな」
「……綺麗だな」
ぽつりとカリムが言った。彼が見ている景色を目で追う。
「そうだな」
たまには素直に同意してやることにした。
ジャミルの言葉に嬉しそうに小さくはにかむ。それからカリムはやはりジャミルの制服の裾を掴んだ。
「……ジャミル」
「何だ?」
「もう帰ろう」
意外だった。てっきり限界までランタンを追いかけると思ったのに。
そう思っていたのが顔に出たのか、カリムは目を泳がせた。
「その……だって、な」
ぼそぼそとカリムらしくない小声で何かを呟く。風のせいで何も聞こえない。何事かと思って耳を寄せてやるとカリムはぎゅっと目をつぶって少し声を張った。
「じゃ、ジャミルと早く2人きりになりたい……」
ジャミルは目を丸くした。
今も2人きりだが、カリムが言いたいのはそういうことではないのだろう。
言わんとしている意図が分かり、ジャミルは吹き出した。
「な、何で笑うんだ」
「お前は本当に……」
可愛い奴だよ。と声には出さずに思っておく。
その代わりにもう一度、長くなった銀髪をすくい上げて口付けを落とした。身体を起こして慇懃に頭を下げる。
「いいや、畏まりました。ご主人様」
茶化した物言いが嫌だったのか、カリムが赤い顔のままむっと眉根を寄せた。
「その言い方…なんかやだ……」
不服げな顔にまたしても微かに頬が緩む。ジャミルはカリムの髪の毛を梳きながら、いつもの口調で言い直した。
「分かった、カリム。急いで帰るぞ」
そういうと、満足げにカリムが破顔する。髪が長かろうと短かろうと、それはいつでもジャミルを魅了する、明るく美しい笑顔だった。
ーENDー