水面に咲くフリージア 好奇心旺盛なのは良いことだと思うけど、深く考えずに実践に移すのは勘弁して欲しい。
「かーずきっ!」
「ん」
目の前で親友に飛びつく恋人を何とも言えない顔で眺めながら、甲洋は盛大な溜息を吐いた。
事の始まりは数日前のランチ営業終わり。看板を裏返し、一休みしようとしていたときのことだった。
「甲洋~~~!」
「わぁっ!?」
店に入ったところに正面から操が抱き着いてきた。突然のことで倒れそうになった身体をどうにか立て直し、胸元にすり寄ってくるふわふわ髪にぽふっと手を置く。
「危ないだろ」
「ごめん。でも早く試したかったから」
「試す?」
何の話かと首を傾げた甲洋に答えたのは、カウンターで洗い物をしている一騎だった。
「西尾たちが来てただろ? そのとき話してたんだよ。抱き締めると疲れが取れるって」
「は……?」
「俺がやってみたいって言ったら甲洋に試してって里奈に言われたんだあ」
楽しそうに笑いながら顔をすり寄せてくる操に頭を抱えたくなる。可愛い。可愛すぎて心の置き所に困る。まだ午後の営業が残ってるのに。
「……? 甲洋……?」
沸き起こってくる諸々の衝動を必死に抑え込んでいると操が不思議そうに見上げてきた。その角度もちょっと勘弁してほしい。ああ、小首を傾げるな。頼むからもう少し自分の容姿の可愛さを自覚しろ。
―――というのを全て飲み込んで、そっと抱き締め返すだけで済ませた。さすがに誰か褒めてくれてもいいと思う。
「ありがとう、来主。これで午後も頑張れるよ」
「そう?」
「うん。来主も頑張れる?」
「うんっ!」
元気よく返事をした操は、甲洋から離れると今度は一騎に抱き着いた。来ることを予想していたらしい一騎が洗い物を切り上げて優しく受け止める。何とも微笑ましい光景だが、ちょっとだけ複雑な気持ちになる。他意がないのは分かりきっているのだけど。
「はあ……」
物憂げな溜息はデザートを見て喜ぶ操の声に搔き消され、誰にも届くことはなかった。
あれ以来、操は疲れた顔をしている人を見ると誰彼構わず抱き着くようになった。さすがにアルヴィスの面々以外にしようとするのは止めているが、それでも気が気ではない。人間にとってスキンシップがどういったものなのか、一から教え直さなくてはならないだろうかと真剣に悩んでいる。
けれど、それ以上に気掛かりなのは、初回以降甲洋には抱き着いてこないことだった。今だって営業が終わって早々一騎に抱き着いている。
「今日もお疲れ様~!」
「来主もお疲れ。よく頑張ったな」
柔らかい笑みを浮かべながら操の背中をぽんぽんと優しく撫でる一騎の図はやっぱり微笑ましいけれど、胸の奥が締め付けられる心地がして直視していられない。いっそこちらから抱き締めればいいと思わないこともないが、それはそれで何だか恥ずかしい。八方塞がりだった。
「じゃあ、先に上がるな」
「あ、うん。お疲れ」
「お疲れ」
甲洋が葛藤している間に帰り支度を済ませた一騎が足早に帰っていく。軽やかなドアベルの音を聴きながら、どうしたものかと再び思考を巡らせる。
明日は久しぶりの休業日だ。いつもなら操に泊っていくよう声をかけるのだが―――
「甲洋っ!」
「ぅわ!?」
元気な声と背中を襲った衝撃に思考を断ち切られる。驚いて首を巡らせれば、操がうりうりと額を押し付けてきていた。
「え……と、なに、来主」
「へへ。やっと甲洋に抱き着けるなーって思ったら、我慢できなかった!」
「え……?」
やっと、とは一体どういうことだろう。甲洋としては毎日でも歓迎だったのだが。
口には出さなかった疑問を正確に読み取った操が「だって」と唇を尖らせる。
「甲洋、俺が抱き着くと困ってたから」
「困ってた……?」
「うん。これだけじゃ足りないって顔してた。キスとか、その先のことがしたくなるんでしょ?」
「…………」
「だから……って、甲洋? どうしたの?」
どうしたのじゃない。なんだそれ。しっかり壁を作ってたはずなのになんで当たり前のように考えてることが漏れてるんだ。……いやそこまで考えてはなかったけど!?
「なんかすっごく揺れてるけど大丈夫?」
「……大丈夫だよ」
本当は全然大丈夫なんかじゃないけど。操に向けていた顔を戻して心を整理しようとしたのに、操はご丁寧に正面から抱き着き直してきた。今その動作をすることが何を意味するのか、分からないわけではないだろうに。
「ねぇ甲洋。今日、泊ってもいいでしょ?」
「ん"っ」
「甲洋?」
トドメとばかりに投げかけられた甘い声に顔が熱くなる。咄嗟に手で覆って隠したものの、この恋人相手にはあまり意味がない行為だ。案の定きょとんとした顔で見上げてくる操は「なんで赤くなってるの?」などと無垢な瞳で追撃をしてくる。この数日の事といい、本当に操には振り回されっぱなしだ。そんなところも含めて好きになってしまったのだからしょうがないのだけど。
「……来主、今夜は寝かせてあげられないかも」
「いいよ。俺もそのつもりだったし」
そう言って笑った操は普段のあどけなさからは想像もつかないほど艶っぽい表情をしていて、彼にこんな顔をさせているのは自分なんだと思うと何とも言えない喜びが込み上げてくる。きっと甲洋も、操にしか見せない表情をしているのだろう。
互いだけが知っている顔が、二人だけの空気を共有することが許された関係がどうしようもなく愛おしくて、どちらからともなく唇を重ねた。